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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年09月16日
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カテゴリ:甲斐武田資料室

武田家信玄 家臣団 穴山梅雪

 

 『武田信玄のすべて』磯貝正義氏

『武田家臣団人物事典』野沢公次郎氏著

  昭和五三年刊 新人物往来社

   一部加筆 山梨県歴史文学館

 

   古来

「名将のもとに弱卒なし」

とか、あるいは

「暗君に賢臣は育て得ず」

などという言葉がある。これはともに名将、英傑と称される将器をたとえるものだが、戦国乱世に甲斐の武田信玄が四隣に隠れなき盟主と仰がれ、古今に比類なき傑出した武将、民政家であったと、後世に最高の賛辞がおくられるようになった陰には、文字どおり一騎当千の宿将たちがつねに信玄の軍政、民政の中枢として存在し、総帥信玄の頭脳となり、股肱(ここう)となって活躍していたからという事実を見逃すことはできない。

 もとより信玄自身が、中国の兵法家孫子の説く「智勇信仁厳」五義を兼ね備えた将に将たる器であっだからこそ、膝下にこうした有能な人材が集まり、楯となったのであろうが、これら信玄南下の武将たちが後世「武田二十四将」というベスト・メンバーに位置づけされるように、それぞれが知略に富み、武勇に秀でた武将ぞろいであったことも事実である。

 もっとも武田二十四将という呼称は武田時代にあったものではなく、『甲陽軍艦』などの軍記、軍読本が巷間に出版流布されるようになった江戸時代中期ごろの発生とみられているが、武田の家臣団構成の中核を占める武将群は文献、古文書などによって二十四人をはるかに超える数であったことを知るとき、江戸期における二十四将選出の過程でおおいに議論百出のあったことは想像できるところである。

 本稿は信玄治世下での家臣団の主要人物を中心に事典的に紹介することにするが、これには親族衆もふくまれ、また家臣団の一部はいわゆる武田三代にかかおりをもつ人物もとりあげることにした(五十音順)。

 

武田武将 穴山(あなやま)(げん)番頭(ばのかみ)(のぶ)(きみ) 

 

父祖以来の武田の族臣。信虎時代の雄、穴山伊豆守信友の長男で母は信玄の姉南松院。

妻は信玄の女(娘 見性院)という関係から、信玄・勝頼代の武田親族衆筆頭格であった。幼名勝千代、長じて彦六。永禄の末、左衛門大夫、

その後に玄蕃頭、また陸奥守などを称した。天正八年冬、除髪入道して梅雪と号し、後世、穴山梅雪が通り名となって有名。

 信玄代から二百騎の侍大将として活躍、川中島、三方ケ原、長篠など武田合戦記に代表される諸戦に参加、信玄あるいは勝綴本陣をかためる重要部署を守備した。

永禄年中は駿河・興津の城将として、また長篠戦後は戦死した山県昌景の後をうけて駿河江尻城主(清水市)として東海最前線を防備した。

 

天正十年(一五八二)三月、武田滅亡の直前に武田の戦列を離れて徳川家康に降った。武田家救済を条件に、または武田の家名存続を求めての離反と取り沙汰されるが、梅雪の戦線離脱が武田滅亡にとどめをさすことになったため、主家裏切りという不評を買った。

武田滅亡後、家康に同行して安土に信長をたずね、武田時代の旧領河内領と江尻の一部を安堵され、歓待されたあと泉州堺を見物中に京都に本能寺の変が起こった。

 危険を感じた家康は海路で、梅雪は陸路で難を避けようとしたが、山城宇治田原で土民のために横死するという悲業な最期に終わった。四十二歳。清水市の霊泉寺に絹本署色の穴山梅雪画像(土佐光吉筆、静岡県文化財)と墓石がある。霊泉寺殿古道集公居士。また韮崎市穴山の満福寺にも牌子があり、大監寺殿月山梅雪大居士という。

 信君は文化的教養の高かった武人と評され学識も深く、『甲斐国志』に「筆法モ見事ニテ好事ノ趣アリ」と記されている。信君の長男勝千代(世)は、信君の願望どおり家康によって武田氏の名のりを認められたが、天正十五年夏、十六歳で病死したため、穴山氏とともに武田の家名は断絶した。

家康が秋山夫人(秋山筑前守虎康の女、下山殿ともいう)に生ませた五男信吉に武田氏を称させたが、この信古も二十一歳で病没した。

 

甲斐、穴山梅雪 横死(1582)

 

謎の殺人事件 本能寺の変殺人事件

 徳川家康の伊賀越え

 

 作家 戸部新十郎氏著

 『日本史・疑惑の重大事件 100』

 歴史を揺るがせた大事件の真相を推理する

      <一部加筆>

 

【筆註】

山梨県内では、これまで武田信玄に次いで甲斐の領国支配(巨摩郡)を行っていた穴山梅雪が徳川家康に同行し、死去したことについて調べた文献は少なく、依然として謎に包まれている。

 

 江戸時代の『翁草』には次のように記してある。

 

穴山梅雪の死 徳川家康と別行動をして死す。

 

徳川家康

天正十年、甲州武田滅亡後、家康家公は穴山梅雪と御同道にて三州安土へ御登りあり、信長これを饗せられ、それより京洛ならびに泉州堺あたりを遊覧のため、信長公より、長谷川竹を案内に添えられ上方に登らせ給い、梅雪と倶に京都より堺へ移り給い、彼地に御滞流していた処に、六月二日京都に於いて信長公父子横死の由、注進到来する。依って茲供養の面々御評定ありけるに、各被申しけるは、今度は上方遊覧の御事なれば、御手勢とても一向無之、御国にはるか所を隔てれば、所詮合戦の事は、決して不可然、早く御帰国ありて、重ねて義兵を被催んに不如と評儀一決して、即御人数を纏、井伊万千代生年二十二歳、御先手を承わり、普光寺を経て城州に出て、江州信楽を過ぎて、多羅尾の至り給う所にその所の山口勘助、多羅尾四郎兵衛らが羅出で、かいがいしくご案内を致し、間道を越えさせ給う處に一揆がおきて道路を塞ぐ、井伊直政・本田忠勝、武を逞しく是を打ち破り。上下恙なく伊賀国拓殖を経て、勢州白子へ出給い、それより御乗船、三州大濱に御着、四日に岡崎城へ入せられる。

 

穴山梅雪

穴山梅雪も、家康公と倶に帰国していれば恙なかるべきを、如何思はん、家康公と引違って、宇治田原の方へ赴けるに、此辺は特に大勢の一揆があり、梅雪を始め、従者一人も残らず、一揆の為に討たれる。

而して今度路地に於いて家康公に忠孝を尽くせし郷土の百姓、後に悉く召し出して恩賞を賜う。多羅尾らは殊更に取り立てが有り、近くの耕地を悉く多羅尾の支配地とした云々。

 

 作家 戸部新十郎氏著

謎の殺人事件 本能寺の変殺人事件

 

 徳川家康はその生涯のうち、四度の大難に遭っている。うち本能寺の変のさい、堺見物に赴いていて、とざされた野山を艱難(かんなん)辛苦(しんく)して帰国したいわゆる。“伊賀越え”を、『徳川実紀』では、「御生涯御艱難の第一とす」という。同書によれば、経過はざっとつぎのようである。

「今は織田殿もはや上洛せらるるならむ。都に帰り、右府(信長)父子にも対面すべし。汝はまず参りて、こ  のよし申せとて、お供に従いし茶屋(四郎次郎)をば先に帰さる。また、六月二日の早朝、かさねて本多平八郎忠勝を印使いとして、今日帰洛あるべき旨を右府に告げさせ給う」

こうして家康一行も境を出立した。飯盛山の麓まで来ると、先行したはずの忠勝が、茶屋とともに引き返してきた。いぶかしく思った家康は、老臣の数人以外を遠ざけ、茶屋の報告を聞いた。

すなわち、明智光秀の叛逆、信長生害という事実を知った。家康一行の驚愕は、いわんかたない。

 ややあって、家康は、

「自分は長年、信長公とよしみを結んできた。いま少し人数があれば、明智を追討し、信長公の仇を報ずるところだが、この小人数では仕方がない。むしろ京へ上り、知恵院へ入って腹を切ろう」

といい出した。供の酒井忠次、石川数正、榊原康政らをはじめ、信長から案内役としてつけられていた長谷川竹丸(藤五郎秀一)という小姓まで、死をともにしようといった。しかし忠勝は、「速やかに本国に帰り、軍勢を駆り出し、明智を誅伐することこそ、信長公への報恩である」と進言したので、一同これに賛成した。

といって、抜ける道は河内・山城・近江・伊賀・伊勢の難路が想定されるが、見知らぬ土地である。それに、変乱につきものの野伏せり、一揆が諸方に蜂起していると思わねばならなかった。

 長谷川竹丸は進み出て、

「そのためにこそ案内につけられたのである。ことには、近辺に手前が取り立てた者どもが少なくない。おまかせあれ」

と力強くいった。また、一行中には伊賀を本国とする服部半蔵正成がいた。

道は嶮しく、一揆に襲われることもしばしばだったが、竹九の知人や半蔵の呼びかけで集まってきた伊賀・甲賀の地侍たちの護衛や案内で、ようやく伊賀越えすることができた。

「和泉の堺より、伊賀路を渡御のとき、従いたてまつり、伊賀は正成が本国なるにより、仰せをうけたまわりて、嚮導したてまつる」(「寛政重修諸家譜」服部氏の項)というふうで、伊勢の白子浜へ着き、そこから海路、三河へ帰ったのである。

ただし、その経路は詳らかではない。『実紀』・『武徳編年集成』・『譜牒余録』や諸家の日記、また『寛政譜』に載る諸記録によって、通過地名にずれがある。

およそは、河内尊延寺から宇津木越えして山城に入り、草内(草地)から木津川を渡り、郷ノ目ないし宇治田原を経て、近江信楽へ入り、小川から多羅尾、御斉峠を越えたか、あるいは直接、神山を経るかして、伊賀丸柱に到り、あと鹿伏(かぶ)()(加太)越えしたものと思われる。

 

穴山梅雪 作家 戸部新十郎氏著

謎の殺人事件 本能寺の変殺人事件

 

さて、一行のなかに、武田氏の旧臣穴山梅雪(信君)がいた。かれは織田氏に降り、甲州内で巨摩一郡を安堵され、家康に属していたものである。

五月八日、家康とともに浜松を出発し、安土、京で歓待を受け、さらに堺へも同行していた。

「二十九日、徳川境見物として入津、穴山同前」というふうに『宇野主水日記』はしるす。

変報を聞いたときも、一緒にいた。が、途中で相別れ、自分の少ない供廻りを連れて別途をとり、まもなく横死するのである。

「穴山殿、土民のために御生害」(『角屋由緒』)

という。ときに四十二歳。

要するに、蜂起した一揆に狙われ、殺されたというのだが、実状は不詳である。そもそも、なぜ別れたのか、という疑問を含め、当時すでにいろいろ詮索されている。

 

 まず、諸書の述べるところを見てみよう。

 

フロイスの『日本耶蘇会年報』によれば、

「信長の凶報が堺に達するや、この町を見物せんとしてやってきた三河の主、および穴山殿は、直ちにかれらの城に向かおうとしたのだが、通路はすでに占領されてしまっていた。

三河の王は兵士および金子の準備が充分であったので、あるいは威嚇し、あるいは金品を与えることにより、無事通過することができた。しかし、穴山殿は出発が遅れ、部下も少数であったため、幾度となく襲撃され、まず部下と荷物を失い、ついには白分も殺されてしまった」という。

たしかに、三河の王家康の供は、一戦交えるほどではないにせよ、梅雪の供よりずっと多かった。なにより、その顔触れが凄い。

酒井忠次、石川数正、本多忠勝、榊原康政、本多重次、松平康忠、天野康景、大久保忠佐、同忠隣、高力清長、石川康通、渡辺半蔵、服部半蔵、牧野康成らが並ぶ。いずれも一騎当千、選り抜きの豪者揃いである。

小姓衆にも井伊直政、鳥居忠政、永井直勝、菅沼定利といった錚々(そうそう)たる連中がいる。この顔触れで、一揆土民をなぜ怖れたか、不思議なくらいである。

豊富な金品というのは、茶屋四郎次郎の配慮だろう。別に京都の呉服師亀屋栄任という者が、変報を知らせたばかりでなく、人数を集めて駆けつけ、信楽で家康一行と合流している。むろん、金品持参だっただろう。

 

「武徳編年集成』には、

「神君に引分れ、山城綴喜郡草内村辺にて、その従者、嚮導の者の刀に銀鍔かけしを見て欲心を発し、かれを斬りてその刀を得しかば、土人大いに怒りて、梅雪をはじめ、ことごとく殺す」とある。

 『泉堺記事』にも同じように記されているが、これが本当とすれば、梅雪一行のほうが、野伏せり強盗を働いたことになる。

 つぎは、『徳川実紀』である。

「穴出梅雪も、これまで従い来りしかば、御かえさにも伴ない給わんと仰せありしを、梅雪疑い思うところやありけん、しいて辞退し、引分れ、宇治田原辺にいたり、一揆のため主従みな討たれぬ」

 さきには草内とあり、これは宇治田原だから、だいぶ距たっている。どちらかという確定はできないが、草内地区の丘の墓地に、『穴山梅雪翁墓』と伝えられるものが現存する。同書はさらに、なぜ討たれたかにつき、

「これ、光秀は君(家康)を途中において討ち奉らんとの謀にて、土人に命じ置きしを、土人あやまりて梅雪を討ちしなり。よって、のちに先発も、討たずしてかなわざる徳川殿をば討たずして、捨て置いても害なき梅雪を伐りとることも、わが命の拙やよ、とて後悔せしといえり」

と注解している。光秀が差し向けた一揆が間違えて梅雪を討ったという説である。

 

 それにしても、梅雪が家康と同行することへの不安、疑懼(ぎぐ)の念を抱いたという見方が少なくない。『三河物語』では、

「あな山梅雪は、家康を疑い奉り、御あとにさがりておわしましける間、物取りどもが討ちころす。家康へつき奉りて退きたまわば、なんのさわりも有間敷に、つき奉らせ給わざるこそ不運なり」と、むしろ哀れんでいる。

 それなら、どの道を辿ろうとしたかについては、

「山田村に神君御止宿ありしかば、梅雪もここまできたりしが、もとより邪智深くして神君を疑い、これより宇治橋を渡り、木幡越えを江州高島に出て、濃州岩村より甲州へ優なる由を称し、神君に引分る」(『武徳編年集成』)

「穴出梅雪人道は、かえって公(家康)に心を置き奉り、伊賀路は甲信の便路ならずと申して、途中においてお暇乞申し、山城宇治山田へ掛りけるが」 (『御年譜微考」)

 などとあって、甲信路へ出る優のため、宇治から木幡越えし、近江から美濃、信州、そして甲州へ入ろうとしたようである。

 

家康は梅雪を殺したか

 

以上、さまざまだが、梅雪はしょせん、家康を危惧し、引き分かれたところを、一揆土民に殺されたということに変わりはない。

 

『老人雑話』

 

ところが『老人雑話』に一つの指摘がある。同書の談話者は、江村専斎といい、永禄八年(一五六五)に生まれ、寛文四年(一六六四)に没したというから、百歳の長寿を保った文字どおりの古老だが、こういっている。

 

「駿府には穴山という大名おれり。東照宮とともに信長に帰す。あるとき、両人同道して上京ありて、方々見物す。京より大坂和泉へ行く。堺におわしますうちに、明智謀反して信長を弑す。これより両人、伊賀路を越え、本国へ帰る。穴山、路次にて一揆に殺さるるという。また、東照宮の所為なりともいう」

家康が殺したかもしれぬというのである。

じつのところ、そんな推量は、ことさら指摘されるまでもない。だれもが抱く疑惑に違いない。

では、なんのために家康が梅雪を殺したのか、ということにつき、同書にすぐ続いて述べる一文が、理由と思えなくはない。

「さて駿府もやすやす東照宮の御手に入る。甲州に河尻与兵衛という者おりけるが、これも東照宮討滅して、取れり」

ひっきょう、甲駿をわが手に収めるためというわけである。

その年三月、武田勝頼を天目山で破った信長は、武田家の旧領甲州を河尻与兵衛(秀隆)に代官として支配させ、駿河を家康に与えた。信長に味方した梅雪もまた、本領河内郷に巨摩郡を与えられ、かつ江尻城を保持していた。

家康は信長横死という蒼惶のなかで、甲州の占拠や駿河の完全経略を考えたに違いない。小田原北条氏などが動き出すのが眼に見えているし、事実、北条氏との抗争が続く。

そこで邪魔になるのは、両所に勢力を擁する梅雪である。このさい、抹殺しようと考えても不思議ではない。

俗に、どさくさに紛れるということがある。しかも、服部半蔵など暗殺にふさわしい連中がひかえている。実行は容易だろう。

「収照宮の所為なり」

というのだから、無理な推理ではない。じっさいに、まもなく甲駿をすっかり経略してしまうのである。

そうでなくても、突発的変乱はだれをも疑心暗鬼にする。同じ『老人雑話』に、

「明智乱のときは、東照宮堺におわす。信長、羽柴藤五郎に命じて、家康に堺を見せよとてつけて遣わす。じつは間を見て、害する謀なりとぞ。東照宮、運強くして、明智がこと起り、太閤西国よりのぼり給うとき、伊賀越えて三河の岡崎に馳せ戻る。明智がことなくば、東照宮危うき御事なり」

とある。

羽柴藤五郎とは長谷川秀一を指しているのだろう。伝わる言動を見ると、とてもそうは思われないが、疑えばきりがない。

これはあまり知られていないが、家康が鹿伏(かぶ)()越えしたとき、案内した坂次左衛門という郷士がいる。家康はそこで休息してくつろぎ、褒美として千二百石のお墨付を与えた。

ところが出立してまもなく、近くの鳥山で銃声がした。鳥を狙ったのかもしれないが、家康は自分を狽ったと思った。しかも、安心させておいて撃ちかけたとして、次左衛門に疑いをかけた。次左衛門は疑われる筋合いはなかったか、かのむ墨付きを返却した。それの仔細が、「御墨付頂戴、並に差上候事」という文書に残っている。いくぶん滑稽だが、急迫したときの心理は格別なものである。

梅雪はたしかに、家康と行をともにしておれば、殺されるかもしれない、と思ったに違いないが、家康のほうでも、身の危険を感じたかもしれない。そこで、先んじて殺害したとも考えられる。

 

家康の梅雪遺族に対する厚遇

 

もう一つ、観点がある。それは穴山梅雪の遺族と家康のかかわりである。

そのまえに、あらためて穴山氏に触れておかねばならないが、穴山氏は元来、武田氏の一族で、信重の子の信介からはじまる。

梅雪自身、母は信玄の妹であり、室は信玄の二女である。武田氏の末裔であることを強く意識し、誇りに思っていた。

それゆえ、格下の諏訪氏の血を受けた勝頼をあがめず、勝手な振舞いがあった。長篠の役では面罵(めんば)したり、これまで築くことのなかった城(新府城)を造らせたりしている。

勝頼にしても面白くない。兼て梅雪の倅勝千代に娘を配することになっていたのに、一方的に破棄し、同じ一門の左馬助信豊の家と婚約した。

そんななか、信長の甲州攻撃が迫った。居城江尻へ木曽義昌から密使がきて、寝返りを誘った。義昌とは室同士が姉妹である。

密使に一人の男がついていた。それは家康の家来で、血槍九郎信政という者だった。説かれて梅雪は応じ、家康に服属することになった。かれを邪智の人と称するのは、この裏切りをもととするのだろうが、当時の状況はかればかりを責められない。

梅雪としては、せがれ勝千代に武田姓を名乗らせ、武田家の再興をはかるのが念願だった。家康は本能寺の変乱が一段落したあと、とりもなおさず梅雪の死後だが、その遺志を尊重した。甲州河内の本領を安堵し、江尻城主として保護して、勝千代母子を厚くもてなしている。

これを見ると、甲駿完全制圧のため、梅雪を抹殺したかもしれないというのは、受けとり難くなる。

この勝千代が五年後の天正十五年(一五八七)に急死(十六歳)する。母親、つまり梅雪未亡人は、人生のはかなさを感じ、髪を下ろして尼となり、見性院を名乗る。

ところで、梅雪が家康を通じて降ったさい、家康に黄金二百枚(梅雪の所領下に湯の奥金山がある)と養女二人を差し出している。面白い話だが、家康はうち一人を下山の方とよんで寵愛し、一男をもうけていた。五男の万千代である。

家康はこの万千代を見性院の養子とした。血縁こそないが、下山の方は梅雪の養女である。武田姓を名乗らせ、いずれ一国一城の主にしたい、というのだった。

見性院は喜んで養育し、成長した万千代は慶長六年(1601)に元服して武田七郎信吉を名乗る。信の一字は、いうまでもなく甲斐源氏武田の総領に与えられる偏諱である。

まもなく下総小金三万石の城主となり、さらに佐倉五万石の城主に進み、同七年には水戸二十五万石の藩祖となる。家康の実子であり、義理ながら信玄の孫という稀な立場で、大いに将来が期待された。が、まもなく信吉は急死する。五十七歳になっていた見性院は二度もわが子を失い、身の不運に悲嘆にくれた。同情した家康は、見性院に武州足立郡大牧(浦和)で扶持五百石を与え、江戸城北ノ丸に住まわせ、水戸藩は十一男頼房に継がせることにした。

見性院の住むところを、俗に比丘尼屋敷とよんだそうだが、十年ばかり経った慶長十六年のある日、二代将軍秀忠の依頼で、志津という女性を引きとることになる。

志津は身ごもっていた。秀忠の子だが、かれは正室於江の方を恐れている。ひそかに世話を頼んだのである。生まれた子は男児で、幸松丸と名づけられた。見性院はわが子同様に養育したが、成長して信州高遠の保科氏を嗣ぐ。

すなわち、会津松平氏の祖保科正之である。

こうしてみると、穴山梅雪の死がなんであれ、歴史に数奇な彩りを残したといわねばならない。そのほうが、よほど人と世の深淵を覗かせてくれる。

見性院、すなわち梅雪未亡人は、八十歳をもって元和八年(1622)五月に死んだ。幸松丸の名をよび続けたというが、もしかして不遇の夫梅雪に呼びかけていたかもわからない。






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最終更新日  2021年09月16日 09時22分25秒
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