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2021年09月16日
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カテゴリ:甲斐武田資料室

『甲陽軍艦』品第五十一「甲州味方衆の心替わり」

 

天正二年(1574) 高天神落城 勝頼29歳

 

(『甲陽軍艦』原本現代訳 発行者 高森圭介氏)

 

 〔勝頼、長坂長閑らの意見を重視するようになる〕

 

◇ 天正二年五月、勝頼公は御出馬なされ、遠州高天神の城を攻略なされて、家康旗の小笠原与八郎(長忠)を攻めなされた。けれども、後陣は家康だけでなくて信長を引き出しての戦いとなった。その時の使者が小栗大六という者で、家康譜代の三河侍だとは、浜松での生捕によって判明したことだ。

◇ さて勝頼公は信長・家康両旗が高天神の後陣としてつめているのなら、勝頼公は一身を賭して決戦を覚悟すると勇みたち、小山(榛原)という境に陣をしかれて後陣を待ちなされた。

 

ある時、城から追手が池の壇へ兵を出し、足軽の小笠原勢内の渡辺金大夫・林平六・吉原又兵衡・伊達与兵衛・小池左近といった連中が勇み活躍しようとしていた。

 

一方、内藤修理の軍勢は同心に手柄ある武士が多くいた。駿河先方衆には岡部治部がいてこれは岡部次郎右衝門の弟なのであるが、信玄公が三方ケ原での合戦のおりも、毛付を目指して活躍し名をあげた大剛の武士である。岡部忠次郎、大塚三助、これらの武士もそのとき鑓を合せた人々である。

その後、七月に入って高天神は落城となったのであるが、それは「猿もどり」という郭を岡部治郎右衝門の軍が攻めていて、そのとき次郎右衛門の配下の朝比奈金兵衛という若者と、右に話した剛強の武者・岡部治部が、一番に郭の塀に登って攻めたので落城となったのだ。けれども岡部治部はそこで討死した。金兵衛に続いて塀へ乗りあげて戦ったのは岡部忠次郎、鈴木弥次右衛門である。その後ついにかなわず降参いたし、小笠原は、富士の下方の地域で一万貫の所領を与えるという御約束のもとに、高天神の城を勝頼公に明け渡したものだ。

 

信長は家康を支援して後陣から出動したのだったが、高天神城が落ちたと聞いて早々に兵をひき岐阜へ帰障した。

 

◇ こうして遠州の城東郡は勝頼公の御代になって所領となった。その年の春、美濃において数カ所の要害を攻め落としなされたので、信玄公よりも勝頼公の兵力の方が強力だとあちこちで評されもしたが、信玄公の名大将としての御威光が強かったためで、心底から大小上下の者がそう思って評したわけではない。こうして城東郡のご処置をすませてから、勝頼公は七月に御馬を甲府に戻された。これは勝頼公二十九歳の御時のことである。

 

◇ 甲府の御館で御祝事となり、杯を出して御盃を侍大将に下された。高坂弾正は御盃をうけて立ちながら飲み、長坂長閑に向って、武田の御家の減亡ときまった御盃こそこれだともらした。

 

長閑はそれを聞き、それは言ってはならぬ弾正の言いかただと応じたものだ。

 

その後、内藤修理と高坂弾正の二人が同時に言うのに、三年のうちに当武田家は滅亡するだろうとのこと、その理由を聞くと内藤も高坂も次のように挨拶した。東美濃で数カ所の城を攻め落し、そのうえ高天神城をも落して、城東郡を御手に入れられた。だから、これからは各家老の意見を勝頼公は聞き入れて採用することがなくなる。

 

そして、長坂長閑・跡部大炊助の言うがままになり、そうこうしているうちに、信長・家康の両連合軍を相手になされて、勝頼公は無理な一戦をなされ、諸将那皆討死して、それ以後の武田家は滅亡するだろうこと疑いない。それも元はといえば、東美濃・遠州城東郡の両所で戦勝し、しかも一年のうちにそういう手柄をたてたことに起因するのだ。と語る。

各武将はこれを聞き、高坂・内藤は何と臆病な推測をするものだと笑った。これらのことに関して、さらに長閑・大炊助が話されたから、勝頼公も内心は高坂・内藤を心よくお思いにならなかったけれども、信玄公御代からの重臣であるからして、高坂は勝頼公の御近くに参上しては、人を退けて意見を申し上げた。

 

◇ 高坂弾正申し上げる

 

すなわち、東美濃を信長の子息が統治していたから、その御坊(織田信長の五男、勝長)に下さって、誰か近い御親類をえらんで祝儀をなして聟とし、信長と和睦を結びなされよ、というものである。また城東郡を家康の弟源三郎(康俊)に与えなされよ。

 

この源三郎は、信玄公の御代に人質におかれ、その後出奔したけれども、和睦なされば水に流し、信玄公御息女子のおきく御料人は伊勢の長島へ嫁ぐべく信玄公が考えられたのだったが、家康のこの弟の所へ御料人をとの話もあったことです。こうして信長・家康と和議を結ばれて、小田原(北条家)を攻略なさることです。そうなされば信長の御恩があるから家康はかたじけなく思い、加勢をするはずです。

 

信長は信長で都の敵を制圧するために、我らとの和睦を歓迎いたし、北条攻略に加勢の軍をさし向けると存じます。そうなれば我が武田勢が所持する国は、小田原の北条の持ち分が一つ加わって、そこを支配すれば、以降は勝頼公のお考えになられることが実現しやすくなること確実と存じます。と弾正は勝頼公に申し上げる。

 

◇ 長坂長閑が申す

 

ところが長坂長閑はこれを聞いて、もったいたいことをいう弾正の誤った判断だ。都への制覇を望まないで、向いあう敵と和睦して、今まで味方であった北条殿を敵にまわすということ、それはまったく戦略を心得ぬことと存じます。領有した国郡を人手に渡すということは、下劣なたとえで、猫に鰹節というのが、おおかたこの弾正のような分別のなさをいうのではと長閑が言ったので、勝頼公は長坂長閑の意向を尊重しておられたから、高坂弾正の申し上げた意見はおとりあげにならずに終わった。(中略)






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最終更新日  2021年09月16日 18時16分33秒
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