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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年10月31日
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カテゴリ:甲斐武田資料室
信玄の戦跡抜粋 『武家事記』足利氏の項抜粋
『武家事記』山鹿素行著 新人物往来社編 一部加筆
〇 足利氏関係 足利義晴 ❖武田氏関係 ●長野県関係 他の武将
大永2年~天文十九年
戦国時代年譜 足利義晴(室町幕府第十三代将軍)
〇壬午元年(大永二年 1522)春王二月、公従四位下に叙し、参議兼左近衛中将に任ず。夏四月、秋七月、冬十月。
〇公去年大永元年六月、播州より上洛、十二月、征夷大将軍たり。歳十一、細川武蔵守高国管領をつとむ。
〇癸未二年(大永三年 1523)春王正月、夏四月、源義稙養(阿波)に歿す。秋八月、毛利元就郡山城(安芸国)に遷
る。細川高国商舶を明国に航せしむ、冬十月。
〇夏四月、前将軍大納言源義稙公阿波国撫養において歿す、歳五十八、恵林院厳山と号す。
●毛利元就、もと多治比三百貫の領主たり。ここに大江広元より七代泊部大輔師親(後、元春と改む)、貞和のころ尊氏に従って、石州佐波を退治して、戦功によって芸州高田郡吉田庄三千貫を領す。師親が後胤興元(弘元子)そのころ雲州尼子に属す。興元卒して、その子幸松丸相続、少年にして卒し毛利家断絶の所、志道上野介広良、粟屋縫殿允を密談し、粟屋と密かに上京せしめ、元就毛利家相続の儀を公へ訴え、公御教書を賜る。このよし今年八月、元就多治比より、吉田郡山城に遷るなり。しかして、雲州の尼子と手切をいたし、防州大内家へ属するなり。
〇秋、管領南国商船を仕立て、唐人宋素卿(郵州人朱縞なり)を案内者とし、渡唐せしむ。大内義興周防より商船をこしらえ、宋説と云うものを使者とす。寧波府にて素卿と宋説と先後を争い、素卿賂を奉行に与え、先立って事を行い、宗説怒って寧波府を焼き、奉行を殺して悉く濫暴す。素卿のがれかくる。大明素卿をとらえ禁獄す。宗説は事故なく帰国す(永正七年、素脚、法住院義澄命により、大明に趣く云々)。
甲甲三年(大永四年 1524)
〇春王正月、北条氏綱江戸城 武蔵国)を陥る。夏四月、秋七月、冬十月。
〇春正月十三日、北条左京大夫氏綱、江戸の城を攻落す。城には上杉修理大夫朝興居住す。朝興は朝良子なり。城中太田源六、源二郎兄弟謀叛し、北条家を引入る。朝興河越の城に逃亡す。氏綱、江戸城に入り、宇多河和泉守以下の降人に云付けて、城の普請をなさしめ、本丸に富永四郎左衛門尉、二郭に遠山
四郎兵衛尉、香月亭に太田父子を籠って、要害を守らしむ。
乙酉四年(大永五年 1525)
〇春王正月、夏四月、細川稙国(高国子)卒す。上杉憲房師を帥いて平井(上野国)に卒す。秋七月、冬十月。
〇夏四月、細川高国剃髪して道永と号す、歳四十二。子六郎植国十八歳にして家督を安く。同年稙国卒す。
〇同月山内上杉憲房、川越をすくわんため、武州鉢形に来る。平井の陣中において病死、子息憲政三歳。これにより古河高基の次男憲広を養って子とし、管
領たらしむ。長尾、白倉、大石、小幡関東成敗を司る。
丙成五年(大永六年 1526)
〇春王二月、八幡宮(石清水)を道替。公ここに臨む。
〇夏四月七日、天王崩ず。
〇秋七月、細川高国その臣香西 (四郎左衛門尉)を殺す。
〇冬十一月、細川尹賢(右馬頭)師を帥いて八上の城(丹波国香西兄、波多野これに居る)、神尾寺(丹波国香西弟柳本弾正忠これに居る)を攻む。
〇十二月的始。里見義弘、水師を以て鎌倉(相模国)に至る。北条氏綱の兵大いにこれを破る。
〇石清水八幡追啓あり。
〇二月十六日、遷宮あり、将軍家御参向、管領高国山上を警固、畠山稙長山下を守る。細川右馬頭澄賢、伊勢守貞孝、武士を多くあつめて守護す。伝奏広橋大納言守光、日野中納言内光等も相従え、善坊寺を宿坊とす。甲曽弓剣神馬を
奉納す。これ廃園院以来の例なり。
〇夏四月七日、百五代の天王後柏原院崩御なり、皇子知仁践祚ましまして、後奈良院と申し奉る。
〇秋七月十三日、細川高国人道道永、家臣香西を殺す。これ右馬頭尹賢が護によれり。これによって香西が一類波多野は、丹波の八上の城にたてこもる。柳本は同国神尾寺に立て籠もる。十一月、道永が命によって右馬頭戸賢、大将として内外の大名八十余頭、丹波に下り、神尾寺を攻め、丹波の赤井三千余騎を以て、柳本を後攻す。双方、大いに戦って、柳本が陣破る。京万葉師寺九郎左
衛門尉、荒木大蔵力戦し、薬師寺は備後守になり、荒木は安芸守に任ず。こたびの軍功ゆえなり。八上城も落ち、波多野は池田弾正忠が甥なれば、寄手弾正退口にうらがえり、京勢を打って、池田の城にたてこもる。故に澄元方の浪人吹田にあつまり、十二月朔日吹田にて戦あり。同十三日阿州より、細川三好が一族堺へつき、中島に陣をとって越年す。
〇冬十二月、里見左馬頭義弘、小弓の義明の命によって、相州鎌倉へ兵船を以て推渡り、鎌倉を攻めとらんとす。北条氏綱兵を出してこれを討って大いに勝つ。
丁亥六年(大永七年 1527)
〇春王二月、柳本(弾正忠)、三好(左衛門督)、三好政長(神五郎、剃髪して宗三と号す)兵を帥いて山崎(山城国)に次す。公軍を帥いて桂川に戦う。公の軍利あらず。公および細川南国近江国に遜る。
〇三月、細川晴元(十四歳)堺浦(和泉国)に著す。
〇夏四月、秋九月三好基長(筑前守)師を帥いて伊丹城(摂津国)を攻む。冬
〇十月、細川高国、師を朝倉孝景に乞う。大内義興卒す。
〇十一月、三好基長師を帥いて朝倉教景(太郎左衛門尉、剃髪して宗滴と号す)京師に戦う。教景遊佐某(弾正忠)を獲う。
〇春、細川高国、越前の朝倉孝景に示合せて丹波を攻むべく用意の処、二月三日、丹波柳本大江山より攻上り、山崎を攻め、薬師寺敗れて高槻入江の城に逃亡す。これによって摂州上郡の芥川、太田、茨木などの諸城、みなせめずして落ち、三好左衛門督、同神五郎等大将として、二月十一日山崎へつく。同十三日、将軍家六条へ御旗をすすめられ、細川商人辻道永は東寺に陣をはる。三好が一等桂川をわたり武田と戦う。京方、奈良修理売元吉父子、荒木安芸守打死
す。三好左衛門督庇を蒙って死す。
〇十四日、将軍家、管領高国人道道永江州へ退去。三月、阿波固より島公方の
子息義親卿十七歳、細川攣冗の子六郎晴元十四歳にて、泉州堺浦につく。
〇九月、海吉筑前守元長(筑前守の長孫)諸勢を率いて、堺より尼崎におしわたり、伊丹へとりかけ、これを攻む。京方には越前孝景が師太郎左衛門尉宗
滴大将として人衆を出す。近江の佐々木も兵を出して十三万ばかりの大勢なり。三好元長、伊丹の城をすてて、一月十八日入洛。畠山上総介、家臣遊佐河内守も上略して、京方と大いに戦う。朝倉が師三好にうち負け、同十九日塩小路泉乗寺西院口にて、朝倉宗滴、三好と大いに戦い、遊佐弾正忠、阿部、大西をはじめ、石余人を打取り、此の時、宗滴自身の働き、ことに手下に十余人射
殺し、晴元ならびに孝景より感菩あり。しかして互いに対陣して今年はくれぬ。
〇冬十月多々良義興(従三位左京大夫)卒す。年五十歳、凌雲寺と号す。法名義秀なり(或は大永六年なり)。
戊子七年(享禄元年 1528)
〇春王正月、公江州に在り。柳本(弾正忠)および三好政長、三好基長に叛く。
〇夏四月、公朽木(近江国)に遜る。細川高国伊勢の国に逃る。
〇五月公朝倉孝景を供衆に補す。秋七月、冬十月。
〇京方三好方和睦になり、正月二十一日、すでに人質を取かわすになる時、丹彼の柳本は三好神五郎政長と一味して、三好基長を背いて堺に至る。これはこたび子細なく京勢を攻めやぶるべき処、基長異心を挟んで和をなし、暗元に敵すべき由、両人が讒訴のゆえなりとぞ。基長ついに和をととのえ、管領高国に謁し、それより堺に至って、六郎晴元に異心なきことを談ず。京方薬師寺備後守、その外、摂州伊丹をはじめ、こたび晴元方へ降しければ、京勢もってのほかに無勢なり。朝倉孝景の師佐々木の一等各帰国し、京都微々のていなれば、四月将軍家は江州にのがれたまい、朽木民部少輔稙綱が宅に居たまう。稙綱よく仕え奉る。朽木ほもと佐々木の一族なり。管領高国は江州より伊勢に逃亡す。
〇五月、朝倉孝景をもって御供衆に加えらる。
己丑八年(享禄二年 1529)
〇春王正月、公朽木に在り。柳本の兵三好基長の師と京師に戦う。夏四月。秋八月、三好基長阿波国にかえる。冬十一月、柳本(弾正忠)伊丹城を抜く。
己丑八年(享禄三年 1530)
〇春正月朔日、柳本方と三好方と、山崎に相戦い、これ皆晴元がわざなりとて、三好筑前守基長、八月十日に阿波に帰り、柳本弾正はなはだ威をふるう。〇八月十六日、柳本伊丹の城を攻め、十一月二十一日落城し、伊丹大和守元扶をはじめとし打死す。将軍家なお朽木に御逗留なり。
〇春王正月、公朽木に在り。天王清原良堆(大外層をして公を朽木に帽わしむ。公権大納言に任じ、従三位に叙す。夏、別所(播磨国三木城主)京師に往き師を柳本に乞い伊藤を攻む。
〇六月、盗、柳本を師に放す。浦上宗景(掃部助)兵を帥いて有田城(播磨国)を襲う。北条氏康(左京大夫)師を帥いて上杉興朝(修理大夫)と小沢原(武蔵)に戦い、上杉師敗北す。
〇秋八月、浦上宗景師を帥い、神呪寺(摂津国)に次す。細川高国を納る。冬十月。
〇春王正月、勅使大外記清原良雄朽木におもむく。将軍家大納言に任じたまう。時に二十歳。
〇夏、三木別所上洛して柳本をたのみ、伊藤を攻む。六月、柳本弾正忠陣所において、夜中にやみうちにあう。山城、丹波、摂州大いに忩劇す。このひまを伺って、播州西方の浦上掃部宗景兵を催し、束方にはたらき、別所が居城有田を攻取る。六月、北条氏網子息氏康(十六歳)上杉朝興と武蔵府中玉川の端、小沢原に相戦い、上杉敗軍し、難波田弾正、上田蔵人ことごとく逃亡す。
 細川高国人道道永、伊勢国にて名をかえ、常桓と号す。方々、流浪の上、出雲へうちこえ、尼子経久をたのむ。経久したがわず、播州、浦上をたのんで備前に来る。浦上そのころ、備前、播磨、実作を進退しければ、やがて領草し、〇八月、摂州神光寺に降す。晴元方伊丹(高畠甚九郎)、池田(池田筑後)、富松 (薬師寺三郎左衛門国盛)各籠城して相戦う。薬師寺うらぎりして、常稙にしたがう。これによって、晴元方危し。晴元三好筑前守元長を招かる。元長したがわず、晴元さまざまに申しなだめて、元長ついに同心し、やがて阿波より出勢すべきにきわまれり。高畠がまもれる伊丹城つよく守り相支つ。
辛卯十年(享禄四年 1531)
〇春王正月、公朽木に在り。二月、三好基長師を帥いて堺浦に著す。
〇三月、基長師を帥いて住吉(摂津国)に次す。
〇夏六月、細川晴元、三好基長師を帥いて細川常桓(高国剃髪して常桓と肯す)と大いに天王寺に戦う。常桓師敗績す。常桓尼崎(摂津国)に自殺す。
〇秋七月、木沢長政(左京亮)その君畠山政国(上総介)に叛く。細川晴元、長政を緩く。冬十月。
〇春王二月、三好元長、堺に着いて晴元を守護す。同月伊丹城和平す。
〇三月、池田城落つ。同十日、常桓堺をせむべきとて、先陣すでに住士ひに陣する処、堺より逆よせして、常桓利をを失って、中島に引退く。浦上は野田、福島に陣をはる。同二十五日、細川讃岐守政之、阿州より堺に着す(其の勢八千なり)。畠山が家臣木沢左京売長政、晴元に降す。晴元方大軍になりければ、三好基長兵を住吉に出す。このころ赤松浦上に父を殺され、憤を含みければ、幸を得て暗元に属し、浦上をうたんとす。浦上が勢赤松出張をきいて、我も我もと赤松にしたがえば、浦上もってのほかに無勢なり。
〇六月四日、三好基長天王寺へ凪張して大いに戦い、常桓方伊丹兵庫助国扶、河原林日向守、薬師寺三郎左衛門、波々部兵庫助うち死す。播磨勢浦上掃部、島村弾正以下うち死す。常桓尼崎にかくれ忍びけるを、三好山城守一秀おし寄せ、同月八日、尼崎大物広徳寺にて自殺す。島村弾正敵二人を左右にわきはさみ海に入って死す。その霊蟹と化す。世に島村蟹と云うはこれなりとぞ。
〇八月、木沢左京売、主人畠山上総介を背に付け、畠山これを攻め、晴元木沢に合力、摂州中島三宝寺に兵をすすむ。畠山は晴元が姉婿なり。不義の臣を愛して、親緑をすつること家の滅ぶべきほしなり。木沢侯紆をかまえ、よりより三好筑前守基長我意をほしいままにすることを讃す。
壬辰十一年(天文元年 1532)
〇春王正月、公朽木に在り。三好一秀(山城守)師を帥いて京師にゆき柳本某(甚四郎)を伐つ。三月、公朽木よりかえる。夏五月、畠山(上総介)師を帥いて飯森城(河内国木沢長政これに居る)を攻む。
〇六月、木沢長政その君畠山昭高を拭す。細川晴元、三好基長を殺す。本願寺(山科)細川晴元に背く。
〇秋八月、晴元を本願寺(山科)に放火す。
〇冬十月、賊南京に放火す。
〇春王正月、三好山城守一秀、三千余の兵を率いて上洛し、柳本甚次郎が三条の宅に押寄せて自殺せしむ。これ先年の憤を散ずるがためなり。晴元大いに怒って、三好基長を課すべしと議せらる。基長あやまりなき旨を申開かんため、剃髪して閑雲と号し、晴元の弟讃岐守政之をたのむ。政之執すといえども晴元同心せず、政之憤って阿州に下向す。
〇三月、将軍家朽木より入洛、細川右京大夫晴元管領たり。夏五月、畠山上総介、木沢が飯森城を攻め、三好遠江守も助力す。晴元より山科の本願寺をたのみ、則ち摂州大坂に下向す。近国の門徒相繁り、六月飯森の後巻畠山勢悉く敗北す。三好打死、直ちに畠山が高屋城を攻めて、畠山、石川道場へ逃亡し、高屋城没落す。つづいて石川道場をとりまき、畠山自殺す。
〇二十日、三好基長が居る処、堺の南庄におしよせて取巻き、元長本願寺に退く。阿波公方養親卿もこの寺におもむき、寄手四方より取寄せければ、筑前守基長自殺、自らはらわたをつかんで、寺の天井になげかけ、岡山城守、塩田若狭守父子三人、加地丹波守等悉く自害す。義親卿もすでに自害の処、晴元方その刀を奪い、堺四条の道場へうつれり。その後、晴元方本願寺と不和でき、摂州、泉州、河内、大和の一揆即時に起り、晴元が堺の館をとりまく。木沢自身戦って本職寺方敗北、晴元京の法華宗ならびに江州の佐々木を示合せ、
〇八月、山科の本願寺を焼払う。僧俗尼女財宝ことごとく亡失す。
〇冬十月、一揆南都僧房へ取かけ放火す。
〇十二月、斎藤五郎左衛門尉正秀越前に帰国す。斎藤はもと越前の侍なり。近年年々す。今年佐々木六角方朝倉孝景をたのみ、ついに帰国す。
癸巳十二年(天文二年 1553)
〇春王二月、賊兵を帥いて堺(和泉国)にゆき、細川晴元を伐つ。晴元淡路国に逃る。
〇夏四月へ 細川晴元池田城(摂津国)にゆく。賊大坂(摂津国)に拠る。
〇五月、晴元大坂城の賊を伐つ。
〇秋九月、細川晴元賊と撃つ。
〇冬十月、星大いに隕(イン おちる)つ。
〇春正月元日、一揆ども再発。尼崎大物ノ浦に松井越前守がたて籠れるをおし寄せて打取る。
〇二月、晴元が堺の宅を取巻き大いにこれを攻む。晴元忍んで淡州に退居。
〇三月、一揆伊丹城をせめ、尼女小童まで集り、堀をうめ攻衆に加わる。木沢また京中の法華衆をかたらい後攻す。一揆大いに敗る。
〇夏四月、晴元淡州より池田に入城。すなわち堺の一揆退治に取かかりければ、本願寺衆の大坂へ取入るなり。
〇五月、晴元木沢が兵をもって大阪本願寺といえどもかなわず、和平して退く。しかりといえども九月、十二月にて、なお四方の一揆たびたびの取合な
り。
甲午十三年(天文三年 1554)
〇春王正月、月読の官災す。夏大いに疫あり。秋七月、冬十月。
●織田信長生まれる。
〇甲午十三年(天文三年)秋八月、三好伊賀守、同久助、本膳寺に一味して、晴元へ敵対し、合戦度々におよぶ。その後あつかいになって、両人晴元へ降す。今年より、表方少し衰えて、四方の取合しばらく静なり。公朽木民部少輔稙綱を申次たらしめ、参内の時は御剣の役せしむ。
● 今年、織田信長生まる。織田はもと斯波尾張守高経に属し、貞治、明徳のころより家臣の列たり。応仁のころは織田、朝倉が威、武衛に減ぜず。後に尾張の守護同意になって代々織田大和守と号し、清洲に在城して威を振う。信長の父備後守信秀は、大和守が一族たり。信秀武威盛んになって、大和守と相戦いついに大和守を退治す。
乙未十四年(天文四年 1555)
〇春王正月、夏四月朝倉孝景に塗輿に賀すことを免ず。朽木植綱(民部大輔)申次に補す。天王、官を義桓に贈る。秋七月、冬十二月源清康卒す。
〇夏四月、公朝倉孝景に内書を賜り、塗輿に乗ることを御免。同月申次七人を定む。朽木稙綱も加わるなり。同月恵林院義植に、太政大臣従一位を送らる。
●冬十月。松平清康卒す。清康は松平蔵人信忠の子なり。信忠隠居して三州安祥を清康にわたせり。清康十三歳にして、父の跡を継ぐ(大永三年)。信忠同州大浜に隠居(享禄四年卒)。然るに同州岡崎は、先祖松平太郎左衛門尉泰親(泰親は松平左衛門尉親氏の子なり。親氏はじめ徳阿弥を號す)築きたまう所の城なり。このころは松平弾正左衛門尉居住し、あまつさえ山中に要害をかまえ、近辺を押領して清廉にしたがわず。大久保五郎右衛門尉忠俊、山中の要害を忍とりにす。これによって、弾正左衛門尉力を失い、ついに和睦し、おのれが女を清康に嫁せしめ、即ち岡崎をわたす。これによって西三河過半清康に
属す。その後、清康武威を三州に振う所、松平内膳正信定(信忠弟清康伯父、上野桜井城に在り)清康へ逆心す。そのころ、清康の家臣阿部大蔵元真もっとも権威あり。これによって、義人しばしささえ、阿部内膳へ内通の沙汰あり。大蔵子弥七郎を呼んで云いけるは、我無実の讒(そしり)にあう。もし生害におよばば、汝山林に引込り、誤なき旨を陳すべしとて、すなわち誓紙を調えこれにわたす。十二月五日、森山の陣中において、馬を取放し、大いにさわぐ。弥七郎父生害におよぶかと疑うて、すなわち本陣にかけ入り、清康を害す。植村新六郎弥七郎を殺す(村正の力をもって清康を弑す云々)。父大蔵これをきいて自殺せんとす。各これをとどめ、諸卒岡崎にかえる。その後、弾正、内膳正と示合せ、岡崎に働き、城兵出て戦って、城おちず、後和睦す。
丙申十五年(天文五年 1556)
〇春王二月、天王即位の礼を行ぅ。天王、藤原兼秀(中納言)をして周防国に樗せしめ、大内義隆を大宰大弐に任ず。
❖三月、公諱字を武田晴信(信虎子)に賜る。
●秋七月、叡山衆徒京師の法華寺に放火す。
●八月、三宅国村(出羽守)、細川晴国を殺し、晴元に降る。
❖冬十二月、武田晴信、隙をついて海(野)口城(信濃国)を撃つ。城陥る。
〇春王二月、大内義興が子左京大夫義隆御即位の料を進上して、主上御即位の礼を行わる。公家武家零落してければ、主上御即位すでに十余年なりといえども、大礼今年まで延引す。義隆執し申に付き、その貴として中納言兼秀を勅使として、周防国へ下され、大宰大弐に勅使ありしとなり。
●三月また一揆蜂起、西難波を攻めて、三好伊賀守没落す。伊賀守木沢を頼み、信貴城に籠れり。
❖同月、甲州武田晴信元服(十六歳)、将軍家御諱字を賜い、信膿守大膳大夫に任ず。
●秋七月、法華衆狼籍に付き、山法師をこうて、法華寺二十一カ処を焼き、憎等一千余死す。京中食劇やまず。
●今年、細川高国人通常桓が子、八郎晴国、三宅出羽守国村が助力によって、本願寺に一味し、晴元を退治すべく張行の処、一揆方がよわく事難儀に及べり。
●八月三宅国村、晴国兄弟をころし、おのれが罪を謝し、晴元へ降参、不義無道の重なり。これによって世上先ず静諾す。
❖冬十一月二十一日、武田信虎八千の兵をもって信州海野口の城を改む。およそ三十余日、年迫り殊に大雪ゆえ、甲府へ兵を入る。その時、子信膿守大膳大夫晴信(時十六歳)殿(でんがり)をのぞみ、わざと跡にさがり、わずか三石
ばかりにて、海野口ヘもどり、これを攻落し、城主平賀源信戦死す。
●豊臣秀吉生まる。尾州愛智郡中村の凡家に生まる。弘治二年、二十歳にして遠州住人松下加兵衛に仕え、両年にして旧国へ帰り、永禄元年九月朔日、信長へ直訴して是に仕う(或は云う、筑阿弥の子、幼にして小筑と云う)。
丁酉十六年(天文六年 1557)
●春王正月。夏四月、上杉朝興(扇谷修理大夫)卒す。五月、源広忠卿岡崎城に復帰す。
●秋七月、北条氏綱師を帥いて上杉氏を河越(武蔵国)に破り、河越城ついに陥る。上杉朝定松山城(武蔵国)に出奔す。
●冬十月、北条氏綱師を帥いて濾義明(右兵衛佐)および里見義弘と鴻台(下総国)に戦う。義明戦死す。氏桐生実を滅ぼす。十二月、孛(ぼっ)す。
●夏四月、上杉修理大夫朝興卒す。子息五郎朝定十三歳、父の遺命にまかせ、北条氏綱を退治せんことを議す。氏綱これを聞いて、七月に河越城によす。朝定が伯父左近大夫朝成、曾我丹波守等出合って戦い、朝成いけどられてければ、河越落城して、朝定は家臣難波田弾正が松山城に入る。これより扇谷上梓
家ついに本意をとげず。ここによって松山城も山内憲政と一味して北条を伺う。
天文六年(1537)
〇春王正月。夏四月、上杉朝興(扇谷修理大夫)卒す。
〇五月、源広忠卿岡崎城に復帰す。
〇秋七月、北条氏網師を帥いて上杉氏を河越(武蔵国)に破り、河越城ついに陥る。
〇上杉朝定松山城(武蔵国)に出奔する。
〇冬十月、北条氏綱師を帥いて源義明(右兵衛佐)および里見義弘と鴻台(下総国)に戦う。義明戦死す。氏綱生実を滅ぼす。十二月、星歿する。
〇夏四月、上杉修理大夫朝興卒する。子息五郎朝定十三歳、父の過命にまかせ、北条氏網を退治せんことを議する。氏綱これを聞いて、七月に河越城によす。朝定が伯父左近大兵朝成、曾我丹波守等出合って戦い、朝成いけどられてければ、河越落城して、朝定は家臣難波出弾正が松山城に入る。これより扇谷上杉家ついに本意をとげず。ここによって松山城も山内憲政と一味して北条を
伺う。 
●冬十月、総州鴻台において、北条氏網、生実右兵衛佐義明と戦う。義明の旗下里見義弘以下うち負け、義明自殺す。義明は古河の政氏子高基畑の弟なり。兄弟不和に付き、奥州に退去。そのころ下総生実の城主は原二郎とて、すなわち下総国の守護、千葉介が家臣なり。
❖上総の守護は武田豊三、真里谷三河守なり。原二郎これと所領を論じて戦におよび、千葉介原をたすけければ、毎戦武田等敗す。これゆえに、武田方より義明を奥州より招いて大将とす。上下総州安房国とともに皆義明の下知に付
き、三年の問の戦に原敗軍し、義明生実へうつり、俗に生実の御所と称す。
原が家臣高城越前守父子等みな没落して、両国の原が一味、および安房の里見義弘もこれが命に従う。古河高基卿の子息晴氏卿は、北条氏綱が軍なり。晴氏内々氏綱をたのんで、生実誅伐の志ありければ、この戦によって生実御所を滅亡す。
『武家事記』 天文七年(1538)
❖春王三月、武田晴信、今川義元(上総介)に議し、その父信虎を駿河国に逐う。
《註》この記事は間違い。正しくは天文十年の事。
天文 十年 1541  6月14日【武川/勝山記
・寛政重修諸家譜】
❖信虎が晴信の為に駿河に退隠される。この時柳沢信景が信虎に随行する。
天文 十年 1541  6月【戦国】
❖信濃小笠原長時、諏訪頼重とともに甲斐武田晴信と同国韮崎に戦い、敗れる。
天文 十年 1541  6月14日【妙法寺記】
❖此年、六月十四日に武田大夫殿様(晴信)、親の信虎を駿河国へ押申候。余りに悪行を被成候間加様被食候。去程に地下侍出家男女共喜致満足候事無限。信虎出家被成候而、駿河に御座候。
❖晴信、父信虎を駿河に追放。【山梨】
天文 十年 1541  6月14日【高白齊日記】
❖六月十四日、信虎公、甲府御立駿府へ御越。至今年無御帰国候。於甲府十六日各存候。
天文 十年 1541  6月14日【王代記】
❖武田信虎六月十四日、駿州に御出、十七日巳刻晴信屋形ヘ御移。一国平均安全ニ成。
❖武田信虎、子晴信に追われ、駿河の今川義元を頼る。
●夏四月。秋七月、小笠原長時、評訪頼茂師を帥(ひき)いて甲州に入る。
❖武田晴信師を帥いて韮崎(甲斐国)に撃つ。長時、頼茂敗績す。冬十月。
❖戊戊十七年(天文七年 1538)、武田晴信、今川義元と内通。
三月九日、父信虎駿河へ赴くあとにて、板垣信形、飯富兵部をかたらい、同十七日逆心を企て、信虎供の兵士の妻子を人質に取かたむ。これより信虎ついに甲府へ帰ることを得ず。
●秋七月、信州諏訪頼茂、小笠原長時(深志城主)九千六百の兵を率い、甲州韮崎に働く。(韮崎合戦)
❖〇武田晴信と一日に四度の戦あり。甲州勢わずかに六千、戦危うかりし所に、原加賀守地下かまり(忍びの斥候)に紙小旗竹鎗を持たせ、五千ばかりにて合戦場へ押来るを見て、諏訪、小笠原悉く敗軍、晴信十八歳の時なり。原美濃、横田備中、多田三八各戦功あり。
❖己亥十八年(天文八年)春王正月。夏六月、公(足利義治)八瀬里に遜る。朽木植綱供奉す。
❖板垣信形(駿河守)、飯富信昌(兵部少輔)兵を帥いて村上義清、諏訪頼茂を伐つ。
❖秋八月大水。冬十一月、板垣信形、武田晴信を諷諌す。
〇己亥十八年(天文八年)夏六月、京都ぶっそうについて公および若君八潮の里へのがれさせたもう。朽木民部少輔植綱供奉して守護し奉る。
●同月、村上義清、諏訪頼茂が兵甲州へ働入り、村上は若見子筋より押寄せ、諏訪はたいか原(台ケ原)筋より押寄す。
❖武田方飯富兵部、若見子へ向い、板垣信形諏訪口ヘ相向い、武田方各勝利を得。
❖今年、武田晴信酒色に惑い、詩を作り文をかき、甚だ武義に怠る。板垣信形わざと詩文を学んで、しかして十一月朔日晴信を諷諌す。晴信前非を飄しその諌めにしたがう。
天文 八年 1539 6月【甲陽軍艦】
●(略)信州方は、甲信両国の国境に砦を構え、やがては甲州へ侵入しようとの準備を整えて、村上義清勢は、若神子筋の境、諏訪勢は台ケ原筋へと、それぞれ千四五百づゝの軍勢を向けてきた。
●晴信公の側からは、若神子筋には、飯富兵部が八百騎を率いて進撃し、村上勢と対戦。諏訪地方には板垣信方がこれも七百騎で出撃した。
●六月二十日辰の刻、飯富兵部の軍を防戦に勝利し、村上勢の雑兵九十七人を討ち取った。これは念場、野辺山という場所でのことである。
●また板垣信方は、同月二十三日巳の刻(午前十時)、蔦木(富士見町)において防戦に成功、諏訪勢の雑兵百十五人を討ち取った。云々
庶子十九年(天文九年 1540)
❖春壬正月、武田晴信師を帥いて村上義清と海尻(信濃国)に戦う。義清敗北す。
●二月、村上義清帥を師いて古阿良末(信濃国)を放火す。
❖武田晴信師を帥いて夜これを襲う。義清敗走す。
〇夏四月。秋九月、尼子晴久師を帥いて郡山城を攻め、毛利元就師を山口(周防国大内居城)に乞う。
〇冬十二月、陶晴賢(尾張守)師を帥いて郡山にゆく。
❖庚子十九年(天文九年)春王正月十六口、武田晴信が兵将板垣信形、信州海尻の城を味方に引付け、小山田備中守これを守る。
❖同晦日、村上義清が兵来って城を攻め、晴信来って後詰し、村上が兵を討つこと三石余、村上大いに敗す。
●二月、村上義清が兵、清野、高梨、井上、隅田、四頭三千余の兵を以て、信州於古阿良末(おごあらま)に来り焼働きす。
❖十八日の夜、武田晴信師を帥いて夜これを襲いうつ。頸を得ること有余。
《略》
壬寅二十一年(天文十一年 1542)
●春王正月、三好長房師を帥いて木沢是政と落合川(河内竪に戦う。長政戦死し、耶大いに潰ゆ。
❖武田晴信師を帥いて、小笠原長崎、諏訪頼茂、村上義清、木曽義高を瀬沢(甲信封域)に克つ。
❖閏三月、武田晴信師を帥いて村上義清と平沢(甲信封城)に戦い、義治が師敗る。
〇夏四月、北条氏康新たに大鳥居を八幡宮(鶴ケ岡)に遣る。
〇五月、大内義隆師を帥いて富田城(出雲国)を攻む。尼子牌久これを伐つ。義隆敗北す。毛利元就師を帥いて殿たり。
❖六月、武田晴信師を帥いて諏訪郡(信濃国)に入り、放火す。
❖秋八月。冬十月、武田晴信師を帥いて大門峠に決す。
〇小笠原長時、村上義満、兵を帥いてこれを伐つ。長峠、義治敗走す。
〇十二月二十六日壬寅、神君(徳川家康)岡崎(三河国)に生る。
●壬寅二十一年(天文十一年) 小笠原長時、諏訪頼茂、村上義治、木曾義高、四将甲信のさかい瀬沢に出張す。
❖三月九日、武田晴信出でて相戦う。辰の刻より午の刻まで、三崎に九度の戦あり。四将敗北、頸を得ること千六百。
●閏三月、村上義清が兵、甲信の境平沢に陣をとる。武田晴信この告をきき、十九日の夜うち立ち、二十日に平沢につき村上が兵をことごとく追払う。
❖六月、武田晴信、信州諏訪郡へ出張して、高鳥の諏訪左馬介が居館の門際まで放火す。諏訪頼茂が居館ねごやを焼き、頼茂出合わず。
❖冬十月、武田晴信兵を帥いて、信州大門峠に出張し、村上、小笠原一方余を率いて二十三日相戦う。巳の刻より初め、午刻におわる。武田晴信勝利を得。
〇十二月二十六日、源君家康公、三州岡崎に御誕生、清和天皇より二十六代の御苗裔八幡太郎義家の嫡孫、贈鎮守府将軍新田大炊助義軍の男、狩川義秀十六代、贈大納言広忠卿の御子なり。広忠卿岡崎に遠住の後、水野右衛門大夫忠政が女を娶り、その御腹に源君御誕生。その後、広忠卿戸田弾正(三州田原城主)女をあらため娶る。忠政の女久松佐渡守(水野家臣)に再嫁す。伝通院これなり。
癸卯二十二年(天文十二年 1543)
〇春王正月。夏四月。秋七月、細川氏綱兵を帥いて堺(和泉国)に入る。松浦(肥前守)と大戦し、氏綱の兵敗走す。
〇八月、三好長慶師を帥いて泉州に次す。
〇九月、上杉憲政師を帥いて源晴氏に会し、河越城を攻む。
〇冬十月、三好長慶師を帥いて細川氏綱と横山(和泉国)に戦う。氏綱の師敗す。
❖十二月、武田晴信師を帥いて信州の数城を陥る。
〇癸卯二十二年(天文十二年)秋七月、細川常桓が子二郎氏納を和泉の侍玉井と云うもの取立て晴元に赦し、堺へ取入る。芦原口にて松浦肥前守これを支え、大いに戦う。氏綱方敗北。三好範長、晴元の命によって、八月十六日氏綱を諌伐のため堺におもむく。
〇冬十月十二日、氏綱泉州横山の戦に利なくして引退く。
❖十月下旬より武田晴信信州に出張し、十二月下旬まで小城九つ陥るなり。
甲辰二十三年(天文十三年 1544)
●春三三月、諏訪頼茂甲州に降る。
❖武田晴信、諏訪頼茂を殺す。
〇夏四月、北条氏康師を帥いて夜上杉憲政を襲う。憲政の師敗績す。
〇秋七月大水。九月、織田信秀(弾正忠)および浅倉教景師を帥いて斎藤正利(山城守)と稲葉山(美濃国)に戦う。信秀の師大いに潰ゆ。冬十月。
❖甲辰二十三年(天文十三年)春王二月、板垣信形がはかりごとゆえ、諏訪頼茂和談を入れ、武田晴信に降す。
❖三月頼茂甲州に出仕せり。晴信ひそかに萩(荻)原弥右衛門尉にいいつけてこれを生害す。
〇河越夜軍
武州河越の城には、北条が家臣左衛門大夫綱成(後に上総守と改む)楯籠る。上杉憲政八万の兵を以て、去年九月よりとりつめ、これをせむ。古河晴氏上杉が催促に応じて出勢す。北条氏康後攻をなさんと陣ぶれして、武州入間川の端まで再三出勢し、上杉が猛威におそれ小田原に引退く。上杉これをまことと心得、重ねて北条後詰と云えども出合うべからずと諸手に示合す。氏康忍
を入れ、寄手の沙汰を詳らかにきき、しかして福島弁千代をひそかに城中へ使に入れ、内外示合せて、今年四月二十日、わずか八千の逞兵をすぐり、相印相詞むさだめ、上杉が陣に夜軍をしかく。上杉大いに敗れて、難波多弾正(古井に落ちて死す)、倉賀野三河守、本間近江守、小野播磨守打死す。城兵ついて出、寄手を追払う。氏康は松山城に兵を入る。これより上杉大いに北条をお
それ、北条家の持城に兵を出さざるなり。氏康軽部豊前守を以て、古河の公方晴氏へ専使として、今度上杉にくみせしことを責め訴う(晴氏は氏康妹婿なり)。世に河越夜軍と云うはこれなり(俗に天文七年七月十五日夜となす。
甚だ非なり)。
〇九月二十日、織田弾正忠信秀、朝倉金吾宗滴を加勢として二万余の師を以て美膿を伐つ。この時、永井秀元(又兵衛尉)大いに戦って信秀敗軍し、宗滴ようよう越前へ引入るなり(秀元は斎藤山城守弟なり)。
❖ 乙巳二十四年(天文十四年)春王正月、武田信繁(左馬頭、晴信弟)兵を帥いて諏訪を取る。
●❖夏五月、小笠原長時、木曽義高師を帥いて武田晴信と塩尻峠(信濃国)に戦
う。長時、義高敗北す。
〇秋七月、三好長慶師を帥いて関城(丹波国内藤備前守、新たにこれに城す。氏綱に質す)陥る。波多野某(備前守)を救う。冬十月。
乙巳二十四年(天文十四年 1545)
❖春王正月、武田晴信の弟、左馬頭信繁大将にて、板垣信形、日向大和守を率し、信州諏訪に働き、長坂左衛門尉(後に剃髪し、長閑と号す)諏訪の大将れんぼを打ち、諏訪衆大いに敗北して武田に降る。すなわち、板垣信形を以て諏訪の郡代とす。晴信、頼茂が女(十四歳)を以て妾とす。(勝頼母)。
❖夏五月、武田晴信、信州に働く。
❖●小笠原長時、木曾義高両将にて信州塩尻において晴信と戦う。両将かかって相戦う。晴信勝利。
丙午二十五年(天文十五年 1546)
❖春王正月。三月、武田晴信師を帥いて戸石城(信濃国)を攻む。村上義清大いに戸石に戦う。義清敗績す。
〇秋八月、細川晴元、三好長慶をして師を帥いて遊佐長教(河内守)をたしむ。長慶師を阿波国に召く。
❖冬十月、板垣信形、上杉の師を笛吹峠(上野国)に破る。
❖十一月、真田幸隆(弼正忠)村上義清の兵を誘い出す。
〇十二月、義輝卿坂本 (近江国) に元服す。
公、右近衛大将を兼ね、義輝卿征英大将軍(十一歳)に任ず。
❖丙午二十五年(天文十五年)春三月、武田晴信、信州小県に出張して戸石城をせむ。伊奈衆木曾小笠原後攻めのおさえに、弟左馬助信繁、小山田左兵衛、日向大和守、下の諏訪に陣どって塩尻口を押さえる。村上義清がおさえに、甘利備前守に足軽大将横田備中守、子彦十郎なり。
●❖村上義清六千余の兵を率いて先手五頭を甘利備前守が方へ押かけ、甘利、横田父子力戦して、備前守、備中守打死し、彦十郎深手を負う。
村上義清、晴信が旗本を押し寄す。
❖晴信が旗本の先勢大いに敗る。山本勘助が工夫を以て諸角豊後守(後備)が兵をつれ出て、敵を南にむかわしめ、ついに晴信が兵大いに勝ち、村上方をうちとること頸数百九十余なり。
〇遊佐河内守長教、氏綱方をいたし晴元に叛く。
〇八月、三好範長、堺にこえて戦い、範長が弟、淡路の安宅摂津守冬康、四国の兵を率し攻上る。晴元方山中又三郎、天王寺大塚に城をかまえこもる。河内衆これを攻む。
〇九月、安宅の兵後攻す。ここに三宅出羽守、池田筑後守、晴元にうらがえり、氏綱へ帰す。されば天王寺城もあけわたす。しかるに伊丹二郎親興、無二に晴元へ味方いたし、晴元伊丹に忠感に入るのあまり、よいに兵庫頭に任じ、暁に大和守に任ず。面目のよし汰沙す。
●❖冬十月、上杉憲政が下の諸大将武州忍の成田、武州深谷の左兵衛尉、上田又二郎、箕田五郎左衛門、新田、館林、漸、山上、そのほか上州の諸将、都合二万ばかりにて、笛吹峠に出張して武田晴信をうたんと擬す。
❖このとき晴信病気ゆえ、名代として板垣信形出向い、上杉がたの兵を伐ち、諸将ことごとく敗北す。
❖武田晴信が家臣、東田弾正忠幸隆(小名小太郎、剃髪して一徳斎と号す)家人測(洲)野原若狭守、同惣左衛門尉、兄弟をかたらい、真田城に招入れ、
悉くこれを害す。真田は渋野の姓、十一月、村上義清が兵五日をひそかに幸隆計策のごとく、城中の門を打ってこれによって村上が武威日々に衰う。
本名は海野なり。弾正忠幸隆、真田の庄に居て、はじめて真田を名氏とするなり。幸隆は源太左衛門信綱、安房守昌幸が父なり。
〇十二月、将軍家義輝卿(初名義勝)をたずさえ、坂本におもむきたもう。日吉神主樹の下が宅において御元服の儀あり。佐々木弾正少弼定柏管領代として加冠をつとむ。すなわち征夷大将軍をゆずらる。義輝脚十一歳、政務は前将軍家なおこれをつとめたもう。このころ管領晴元は堺に在住し、五畿内日々の戦に京都物愈なるをもって、坂本にて執行したもう。
丁未二十六年(天文十六年 1547)
〇春王二月、大内義隆使人をして明に碑せしむ。三好長慶、之康師を帥いて原田城、三宅城(傾州)を攻め、城陥つ。
〇三月、公および義輝卿北白川娩に遷る。夏四月、細川晴元師を帥いて北白川辺に放火す。
〇五月、細川晴元、三好長慶師を帥いて芥川城(摂津国)を攻む。城陥ち、薬師寺(与一)逃奔す。
〇秋七月、細川晴元師を帥いて京師にゆき、相国寺に次す。佐々木定頼兵を帥いて北白川城を囲む。公および義輝卿坂本に遜る。晴元、定頼坂本にゆきて成を乞う。三好之康、畠山政国と天王寺に戦う。
●❖八月、村上義清師を帥いて武田晴信と上田原に戦う。義清大いに潰え、ついに越国に出奔す。
〇神君(六歳)尾張国にゆく。今川義元の師織田信秀の兵と小豆坂(三州)
に戦う。
〇冬十月、の兵、細川晴元の兵と京師に戦う。
●❖長尾景虎、を納るるが為に師を帥いて武田晴信と海野平(信州)に戦う。〇十一月、斎藤正利および佐々木義賢、大垣城(美濃国、織田播磨守これを守る)を囲む。織田信秀師を廻して稲葉山下を襲う。
〇春二月、大内義隆船を仕立て、大明につかわす。鹿苑院殿以来、大内代々異国の往来をつかさどり、勘合の印をあずかれり。
〇同月、晴元方の軍勢三万余、摂州原田城を攻む。これは去年、讃岐より三好豊前守之康(剃髪して実休と号す)四国の兵をあつめ、堺に至って河内に手つかい、これによって三好方ならびに畠山政国軍勢を以てこれを攻む。ついに和平す。すなわち、三宅城を攻落し、芥川城も明わたす。
〇三月、北白川に城をかまえ、公および義輝脚入御。.
〇夏四月、細川晴元兵をひきいて、北白川辺を放火す。
〇五月五日、細川晴元および三好長慶、畠山総州以下、摂州芥川城をとりまき、これを攻め、六月二十六日あつかいになって、城主薬師寺与一出奔す。すなわち城を芥川孫十郎にわたす。孫十郎うけとり、入城す。しかして足利義晴
七月五日、細川晴元と上洛し、細川讃岐守は難波へ下向し、三好之康尼崎にいたり。その外、三好二党十七ケ処に陣取る。
〇秋七月、細川晴元、京都へ出勢して相国寺に陣どり、江州佐々木と示合す。佐々木定頼出勢して、北白河をかこむ。これによって、公および義輝卿ともに江州坂本へ引退きたまう。その後、晴元頼和談を入れてことすみ、両人坂本にいたる。
〇同月二十日、摂州天王寺、舎利寺において、三好之康、畠山政国と戦う。
❖八月、武田晴信、信州へ出勢し、佐久郡志賀城をせむ。この城には笠原新三郎在城して、村上義痛が旗本たり。城落ちて笠原打死す。村上義清このよしをきいて、無二の一戦と心あて、逞兵七千を率いて、同国上田原に出張。
❖二十四日、武田方より軍はじまり、互いに力戦す。軍なかばにして村上義清、武田晴信が旗本におし入り、みずから晴信と刃を交うの処、養清落馬に付き、村上方悉く敗北し、この戦言に五度の戦なり。村上義清戦場より直ちに越後へ逃れて、長尾景虎により、信州還住のことをたのむなり。これによって、武田晴信、信州奥四郡小県手嚢に入るなり。
〇源広忠卿岡崎に還住のこと、松平蔵人がはからいによることなれば広忠卿細還住の後、蔵人権威を専らにして、一族の領地を押領し、奢をきわむ。これによって、岡崎勢一味せしめ、松平蔵人が広忠卿名代として駿府へ年始の礼にゆきけるあとに、蔵人が領分をおさえ、所帯を没収す。蔵人かえって大いにいかり、罪を陳謝すといえどもさらに用いず。これによって、今川義元をたのみ、
このことを訴う。義元より酒井雅楽助、石川安芸守、阿部大蔵、植村新六郎を招いてこれを問う。各蔵人を憎んでこれをこばむ。しかれば、義元の口入もならざるに付いて、松平三左衛門尉をたのんで、田弾正忠信秀の旗下となり、三州岡城に楯籠る(広忠にそむいて織田に属す)。広忠卿ひそかに寛平二(三)郎(後、図書と号す)を上和田へ入おき、三左衛門尉につかえしめて、今年
冬、三左衛門尉をころさしむ。広忠卿すなわち感書を与ゆ。しかして織田信秀岡城加勢として、上和田に取出をかまえ、三州安城(織田孫三郎かつてこれを取る)へ兵を入れ、岡崎をせめんとす。これによって広忠卿、今川義元へ加勢を請い、義元人質を来らしめんことを云う。ゆえに、竹千代君今年六歳にして、駿府へ人質のために出御。石川与七郎(後、伯番守に任ず)、天野三介、上田宗慶そのほか二十八人供奉す。陸路は敵地ゆえ、西部より船にて田原へ御こし、田原より駿府へ御越のはずなり。駿河より飯尾勘介御迎として来る。田原の城主戸田弾正少弼は広忠卿の舅なり。源君の御ためには継祖父なり。これによって心易く駿府へおくり奉るべきの処、少弼が子戸田五郎兵衛、ひそかに織田信秀に内通して、塩見坂にてこれを奪い、船にのせて尾州熱田へおくり奉
る。信秀大いに悦び、加藤図書が宅に入置き、戸田五郎兵衛尉に永楽百貫を与ゆ。信秀このことを岡崎に告げて、今川と絶交して織田に属せんことを云う。広忠卿そむかず、信秀怒って源君を万松寺天王坊におしこめ艱難(かんなん)せしむ。今川義元、広忠卿より人質来らずといえども、広忠卿の志、人質来れる同意とあって、すなわち雪斎和尚を大将として、南朝比奈、岡部五郎兵衛尉等二万の兵を率いて、八月二日、遠州今切、本坂、両所へ人をわかち、同八日、三州山中、藤川に降して、矢矯の下の瀬をこし上和田に陣取り、十日に小豆坂に至る。
織田信秀が弟孫三郎も清洲より出張して、安城に至り、上和田の砦にうつり、孫三郎信光大将として(信秀は盗本に陣どる)
小豆坂において、八月十日両軍の先勢出合い大いに戦う。尾州勢追立てられて信秀が本陣まで敗北す。孫三郎引かえし下知し、織田造酒丞(菅屋九右衛門尉父)、岡田助右衛門尉(長門守父)、佐々隼人正、同孫助(二人内蔵助成政兄)、下方弥三郎(後、左近と改む。十六歳)、中野又兵衛、以上孫三郎信光と七人立留って、今川勢を追崩す。これを世に小豆坂の七本鎗と云うなり。山口平兵衛尉盛政、高木主水正晴秀戦功あり。信秀碁石金を与ゆ。今川兵、朝比奈藤三郎先陣灯すすんで戦功あり。岡部五郎兵衛尉が手にて、林藤五郎、小林源壷等打死。岡部横鎗(やり)を入れて、またかえし合す。織田兵鎗三位を、今川兵小倉与助と組打にす。しかして日くれければ、双方兵を引き、尾州勢は上和田に入り、今川の兵は藤川に降す。その後、信秀安祥に織田三郎五郎信広を入置いて、清洲に還るなり。この戦に岡部五郎兵尉、横鎗を入れて二度尾
州勢を追崩す。この時、岡部筋馬鎗に緒の立物な巧。これによって、義元が兵、この出立仕るべからざるの旨、岡部に感書を与う。およそ小豆坂の戦、織田家には信秀勝利と云い、今川家には義元勝利と云う。信秀は二度追立てられたりといえども小勢なり。今川は一度敗すといえども大軍なり(信長記云わく、小豆坂合戦、天文十一年王寅八月十一日。今案ずるに、信秀三州に出勢するは松平内膳正安祥を攻取るの後にあり、松平内膳正卒去は天文十一年の後に
在るなり。今、三州記説による)。
 冬十月、細川氏綱が兵、細川晴元が兵と山城国内野西京にて相戦い、氏綱が兵敗北す。晴元方江州佐々木京極が兵利あり、多賀豊後守高忠戦功あり。
●村上義清、上田原敗北の後、越後へゆき、日ごろ取って持つところの越後一郡を景虎に与え、信州更級へ還住のことを頼む。景虎は上杉の家臣長尾信膿守為景が子なり、今年十八歳、近国に武威をふるう。すでに越中、能登へうちこえんとするの処、村上にたのまれ、景虎年にもたらぬものを老功の村上にたのみにいたさるることを歎じ、すなわち、村上を信州更級に還住の催によって、
●十月、長尾景虎七千の兵を以て信州海野平に出張す。
❖●同月十九日、武田晴信一万五千を以て出張す。景虎若しといえども(晴信二十七歳)、武勇に名をえたる大将なれば、晴信戦をつつしみ、小幡山城守、原美濃守、山本勘介三人を斥候に出し、景虎が軍勢の多少、備立て合戦のもち
ようを考う。
●❖しかして、戦はじまり、景虎先手の左、二町ほど退かば、晴信の左、小山田左兵衛尉備、二町ばかり退く。いまだ惣軍打合わざる内に、景虎が旗本貝をふきたて、景虎と宇佐見駿河守二人まっ先へのり出して備をあくる。晴信勢つけんとするを、山本勘介下知して付けさせず、これによって双方相引きに引き、景虎が兵を討取ること二百六十余、武田方百余人打死す。これにより以後毎年、長尾と武田対陣合戦やまず。
戊中二十七年(天文十七年 1548)
〇春王正月、公坂本に在り。細川晴元、遊佐長教と成らぐ。三月、朝倉孝景卒す。
〇夏五月細川晴元、池田某(筑後守)を殺す。
●六月、長尾景虎師を帥いて小児(信州)に次す。
❖武田晴信師を帥いて蒞んで降す。
〇公および義輝卿坂本よりかえる。
〇秋八月、三好長慶師を帥いて三好宗三を伐つ。宗三江波城(摂津国)に逃奔る。
〇冬十月、三好長慶、細川晴元に背く。大内義隆従二位に叙す。
〇戊中二十七年(天文十七年)春、細川晴元と河内衆和談になれり。およそ晴元、河内衆と相戦うこと今年まで三年なり。
〇三月二十二日、朝倉孝景頓死、孝景は義景が父、天沢寺貞景が嫡子なり。英林寺孝景より四代目なり(朝倉孝景二人とれあり)。
●同月十九日、三州小豆坂において、織田信秀(弾正忠)と今川義元と相戦う。この戦に朝比奈三郎最前に馬を入れ、太刀討戟功あり、義元感書を与う。
夏五月、池田筑後守、細川晴元へ降参す。
〇五日、池田出京の処、晴元これを殺害せしむ。池田は代々細川へ忠勤をつくすといえども、こたび筑後守、晴元をそむき、細川氏綱にしたがう。不義に付いてかくのごとし。しかれども筑後守は三好宗三が婿なるをもって、筑後守子、相違なく池田を賜るなり。
●❖六月、長尾景虎、信州小県へ出張し、武田晴信と対陣。四日より十六日まで在陣し、景虎引きとるなり。
〇細川晴元、河内衆と和睦の上、世間静謐に属しければ、六月、公および義輝卿、江州坂本より帰京したまう。上方すでに静譜におよぶ処、八月三好筑前守長慶、同名宗三を課すべきになれり。宗三は三好神五郎政長なり。この者讒候を以て、先年晴元長慶が父基長を誅す。長慶止むをえずこの十余年憤をおさえて晴元にしたがい、宗三にしたしめり。長慶このころ武威さかんにして、ことに豊前守之康、安宅摂津守冬康、十河讃岐守一存は長慶が弟にて、いずれも勇武抜群のものどもなり。宗三は父の仇同意なれば、宗三ならびに子息右衛門大夫政勝ともに死罪に行うべし、しからざれば晴元にも恨を云って、氏綱を取立つべきと結構す。これによって宗三は千石衛大夫政勝が榎並城に入る。
 冬十月、三好長慶と宗三と、互いに闘争におよぶ処、細川晴元、三好宗三を授け、河原林対馬守を榎並の城へ加勢あり。これによって三好長慶、晴元をそむき、氏綱を家督たらしめんと遊佐河内守長教に相談す。遊佐これにしたがう。
●今年、大内義隆従二位に叙す。
己酉二十八年(天文十八1549)
〇春王二月、三好長慶師を帥いて、遊佐長教に会し、尼崎に次す。
●三月、織田平信秀卒す。源広忠脚卒す。
●三好長慶師を帥いて三好宗三と中島(摂津国)に戦う。宗三の師敗れて中島城陥る。長慶江披城を攻む。
●今川義元、憎雪斎(臨済寺長老)、朝比奈泰能(備中守)をして隙をついて安城(三河国、信長庶兄三郎五郎信広、安城を守る)を攻めしむ。城堅守す。❖夏四月、武田晴信の兵小笠原長暗が兵を伐つ。
❖五月、自気天にわたる(旗雲と曰う)
●❖長尾景虎、師を帥いて武田晴信と海野平(信州)に対陣す。
〇六月、細川晴元、佐々木義賢に会して師を帥いて三好宗三を救う。晴元三宅城に次し、義賢山崎に次し、三好長慶師を帥いて宗三と江口(摂津)に戦う。宗三戦死す。
●晴元京師にゆき、公、義輝と坂本に遜る。
●秋七月、三好長慶京師にゆく。八月、長慶、伊丹城(伊丹大和守親興これを守る)を攻む。
❖九月、武田晴信、上州の諸将を三寺尾(上州)に破る。冬十月、中尾山に築く。
●十一月、神君(徳川家康)駿河国にゆく。
〇春王正月十一目より、三好長歴と同宗三と両方の軍勢戦はじまれり。長慶方は河内一国摂州、三宅出羽守、芥川孫十郎、入江、茨木孫二郎、安威弥四郎、四郡には池甲原田、河原林孫四郎、有馬西の岡の鶏冠出(かいで)、同物集女(もすめ)、丹波の内藤備前守、播州に衣笠兄弟、泉州に松浦肥前守、阿波、讃岐、淡路なり。三好長慶越水より兵を出して伊丹を放火(伊丹大和守親興、細川晴元にしたがう)。
●二月、宗三方より池田を放火。
●同十八日、三好長慶堺に至って遊佐河内守長教と示合せ、中島、榎並両城を攻むべきの相談あり。しかして二十六日尼崎に出張す。
●三月三日、織田弾正忠信秀病死。歳四十二、桃厳と号す。子息信長相続す。父信秀より平手中務大輔清秀を傳とす。三月六日、増大納言源広忠脚病死、二十四歳。その歳、片目八弥と云うもの広忠卿をついて(村正脇指)逃ぐを、植村新六郎家政引くんで堀へころび、ついにこれを仕とむるなり(新六郎、父新六郎清康を阿部弥七郎突殺し退くを、十六歳にて打留るなり)。
●同月、三好長慶が兵中島に出張し、宗三が兵と戦う。宗三兵敗れて三好加介、河原林又兵衛尉戦死す。これによって中島城をあけのく。三好長慶中島を攻とり、直ちに榎並へおしよするなり。
●同月今川義元、雪斎和尚、朝比奈備中守泰熊を大将として、三州安城を攻め、城主織田五郎三郎信広かたく守る。かつ、尾州より後攻あるときこえければ、雪斎下如して、城をば今川方の加勢せしめ、三州勢は後ぜめをふせがしむ。城堅く守りけるゆえ、今川が勢岡崎へ引入る。
❖夏四月、武田晴信、信州伊奈に出勢し、保科弾正降参す。しかして、木曾筋島井峠まで放火す。松本筋より小笠原が兵千五百余出騙し、武田晴信が兵と戦って、長時が兵敗北す。
●❖五月三日、幡雲立つ。旗の本南なれば、細川氏綱方勝利あるべしと云う。同月、長尾景虎信州海野平へ出張して、武田晴信と対陣し、景虎軍使を以て戦を請う。晴信云わく、景虎村上にたのまれ出勢のことなれば、その方より合戦をはじめらるべしと返答なり。しかして景虎兵を入る。
●細川晴元、三好宗三をたすけんため、江州佐々木義賢を示合せ、六月摂州に下向す。佐々木義賢も山崎に陣をはる。
六月十七旦二好宗三、三宅城(香西与四郎在城、五月晴元この城忙入る)より中島の江口ヘ出張し、三好長慶三宅と江口の通路をとめよとて、十河民部大輔一存、安宅摂津守冬康兵を率して、別府の川ばたに陣をはって通路をとむ。
二十四日一戦におよばずして宗三方敗北。三好宗三をはじめ八百余人戦死し、榎並城もこたえずして明退く。細川晴元三宅城をおちて丹波路より京に入り、佐々木が兵山崎より江州へ引入るなり。晴元京都にもたまりがたく、すなわち公および義輝卿をともないまいらせ、江州坂本にのがるるなり。細川右馬頭晴賢、同播磨守元常および佐々木義賢供奉す。
二十八日、常在寺を御旅館とす。
●秋七月、三好長慶上洛して、京都を取かため、松永弾正久秀を京都にのこし、それより摂州にこえ、八月四日より伊丹の城をとりまき、向城をかまえこれをせむ。城かたく守る。
❖八月、武田晴信上州出勢す。上野の諸将安中越前以下九頭、六千の兵を以て三寺尾にて九月三日戦をはじむ。上州勢悉く敗北す。
〇冬十月、公中尾山に要害をかまえしめたまう。十一月今川義元兵を発して、三州安城を攻めしむ。寄手大いに力戦し、尾州の加勢平手が陣やぶれてければ、八日城の二の郭せめやぶられ、本城ばかりになって、城主織田三郎五郎信広なお堅く守る。平手和を乞うて、三郎五郎と源君(家康)と人質がえにせんことを云う。これによって同九日城をあけ、三州衆うけとり、源君はすなわち駿河へ人質として出御すなり。天野三郎兵衛等供奉す(源君時忙八歳)。
〇十二月公御不例、上池院紹胤御薬を献ず。
庚戌二十九年(天文十九年 1566)
〇春王正月、公坂本に在り。
三好長慶師を帥いて伊丹城を攻む。二月、如意嶽に築く。三月、公穴太に遣る。伊丹雅興(大和守)、三好長慶と成らぐ。
〇夏五月、公穴太に薨ず。天王、左大臣従一位を贈る。義輝卿比叡辻宝泉寺に透る。
●長尾景虎師を帥いて、武田晴信と佐久県(信州)に対陣す。
〇六月、遺物を禁中に献ず。天王、清原枝賢(大外記)をして穴太に喭(とむら)わしめ、除服の宣旨を義輝卿に賜う。
●秋八月大水。
●❖九月、武田晴信師を帥いて小笠原長時を伐つ、長時の師敗る。
●❖長尾景虎師を帥いて武田晴信と海野平に対陣す。
〇冬十月、陶晴賢(尾張守)富田を以て、其の君大内義隆に叛く。
〇春王正月、御不例、次第に重くして、佐々木弾正少弼定頼等叡山において御所福を修す。
〇二月、三好長慶伊丹を攻むべきため諸勢を催すの処、遊佐河内守長教あつかいのことあって攻撃におよばざるなり。同月、公御不例不快に付き、諸医御脈をこころみる。祐乗三位法印端兆、竹田瑞竹軒定栄、宮内卿侍従浄忠、祐乗、泊部卿誘存等なり。みな験なく、半井宮内大夫明菜、上池院紹胤と他心なきよし誓書をなして、相談の上薬を献ず。
〇細川晴元、佐々木定頼公の仰によって城を如意嶽に築き、石がきをつき、堀をほり、要害をかまえしむ。三月、如意嶽の城にうつらせたまわんとて、六大の山中まで出御ありけれども、不例はなはだ重くして山中にとどまらせたまう。
〇二十七日、少々快気に付いて、新城に入りたまわんとする処に、伊丹大和守雅興、三好長慶と和睦して晴元をそむく。これによって細川晴元、公に乞う
てまず六大に滞留ましますなり。すなわち城兵どもに、法令三十余条を示したまう。
〇同二十八日、伊丹大和守雅興、三好と和して尼崎本興寺へ出合い、長慶に参会す。これによって二十九日諸勢みな引はらう。
〇夏四月、公御家人、上野民部大輔信孝、伊勢守貞孝、三淵掃部頭晴貞、飯川山城守信堅、大館左衛門佐暗光、摂津守元道等に、義輝卿輔佐の義を遺命あり。
〇五月三日、土佐刑部少輔光茂をめして御影をうつさしむ。同四日、江州穴太の山中に薨したまう。歳四十、法名道照、道号嘩山、万松院と号す。征夷大将軍大納言兼右近衛大将なり。
同七日、左大臣従一位を贈らる。すなわち、棺を洛東慈照寺に移し、鹿苑院にて仏事あり。大館晴光剃髪して叡山に入る。御台所慶寿院落飾。
二十一日、葬礼、松田対馬守盛秀奉行す。
二十六日、中陰の仏事結願に勅使来り、法華妙典一部を贈らる。義輝卿は佐々木定頼子義賢、細川暗元がすすめによって、比叡辻の宝泉寺にうつりたまう。
●❖同月、長尾景虎信州佐久郡に出張す。武田晴信対陣、すでに相戦うべきの処、景虎みずから出て、さいはいを取り引入るなり。
〇閏五月四日、義輝卿和歌を詠め亡考を悼み、
二十三日四十九日の結願おわり、魚味をこころむ。高和泉守名代として北野の石の鳥居に参詣。
六月二十一日、義晴公の遺物を禁中に奉らる。伊勢守貞孝使者たり。諸公家各宝泉寺に至って拝礼あり。
二十六日、除服の宣旨あり。大外記清原の枝賢、宝泉寺へ持参す。刑部卿阿倍有春参上して、吉服に改め奉る。
〇秋七月二日、義輝卿御沙汰初め、松田丹後入道宗禅等奉行す。
❖●九月、武田晴信、信州に出張して小笠原長時と戦う。長時敗北す。
同月、長尾景虎信州海野平に出張、武田晴信と九月二十八日より十月十日まで対陣し、景虎兵を入る。
〇大内義隆、酒色にふけり、詩歌を弄び、武義政道をわする。近年京都兵乱によって、公家門跡そのほか舞楽にはまれあるもの悉く山口にあつまる。義隆いよいよ奢りをきわめ、遊興をこととす。家臣陶尾張守晴賢しばしば譲れども用いず、晴賢所労と称し開田の郷引込り、嫡子阿波守をのみ出仕せしむ。今年九月十五日、義隆八幡へ参詣の催あり。用意もっとも壮観たり。しかるに、相良
遠江守と云う近臣、暗賢謀叛を企て、義隆を途中にてはからうべきよしを告ぐ。これによって、義隆にわかに参詣をやめ名代として古田右京売参詣。ことおわりぬ。晴賢、相良が謹言をきき、こと延引せば捕にせられんとておそれ、同十月、富田に楯籠る。その後、晴賢若山を城にかまえ、山口より襲来るときの要害とす。義隆なお酒色にふけり、遊覧をこととして、晴賢謀叛のことをことトせず。
〇十一月十九日、三好長慶摂州より上洛して、東山を放火す。
二十三日、大津松本を放火す。
二十三日、長慶下国す。





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最終更新日  2021年10月31日 12時07分38秒
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