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2021年10月31日
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カテゴリ:武田信玄資料室

「信玄逝去につき御遺言」 (「甲陽軍艦」品第三十九)

 

箇条書き

31、 

勝頼は前のよう大文字の小旗を持ち、

差物、法華経の母衣は典厩(信豊)に譲ること。

32、 

諏訪法性の冑は勝頼が斎用し、そののちに信勝に譲ること。

33、 

典厩信豊・穴山信君の二人は、

信玄が頼りにしていることゆえ、

四郎を屋形のようにもり立てて

万事につきとりおこなってもらいたい。

34、 

勝頼の倅で七歳となった信勝を信玄のように重んじて、

十六歳となったとき家督にすえてほしいのだ。

35、 

なお、自分の葬儀は無用である。

遺体はいまから一二年後の亥年四月十二日に、

諏訪湖へ甲冑を着せて沈めてもらいたい。

36、 

信玄の望みは天下に旗をたて号令することであった。

が、

このように死するからは、

つまるところ都に上りながらも

支配を固めることができぬままで果てるより、

いっそいまのままならば、

世の人々は、信玄は命を永らえれぼ、

都に上ったであろうにと評価するだろうから、

大慶というものである。

37、 

なんとしても、

戦いの面で信長・家康のように幸運に恵まれたものたちと

戦いを重ねたために、

信玄は、いっそう命を縮めてしまったものと考える。

38、 

たとえていえば、

矢勢が盛んな時は何でも射ぬくものだ。

矢の勢いが盛りを過ぎた頃には浅く射るようになり、

さらに過ぎれば白然に矢は地におちる。

そのように

人の連勢も長くよいことばかりは続かぬものだ。

幸運な勢いが過ぎぬうちに盛んに戦勝して

領土をひろげはじめたが、

今天道から見放されようとしているのだ。

39、 

信玄が信長・家康との戦いで一対一だったならば

これほど早く命を縮めることもなかったのだが

逆に、戦いでは信長・家康は二人がかりでも

信玄に匹敵しないのだから、

やはり(実力でなく天道が運命を決められたので、

天が先に信玄を召すのだ。

40、 

その証拠に輝虎も三年の間に病死なされるはずだ。

そうなれば信玄の次には輝虎が実力者であったのだから、

信長を踏みつけ破る者はいなくなると、仰せられる。

41、 

次に勝頼のとるべき戦略として、

まず謙信輝虎とは和議を結ばれよ。

謙信は男らしい武将であるから、

若い四郎を苦しめるような行いはするまい。

まして和議を結んで頼るといえば、

決して終始約束を破ることはすまい。

信玄は、大人気なくも謙信に頼るということを

最後までいわなかったために、

ついに和議を結ぶことがなかった。

42、 

勝頼は必ず謙信に敬意を表して頼りとするのがよい。

謙信はそのように評してよい人物である。

43、 

次に、

信長が侵攻してきた際には、

難所に陣をはって持久戦に持ちこむこと。

そうすれば、敵は大軍で、遠路の戦いであるから、

五畿内、近江、伊勢の部隊は疲労し、

無謀な戦いをいどむであろう。

その機会に一撃を加えて破れば、

相手は立直ることはできまい。

44、 

家康は信玄が死んだと聞けば、

駿河にまで侵入してくるであろうから、

駿河の国内に引き込んでから討ち取ることとせよ。

小田原(北条氏政)は、

強引に攻めて押しつぶすのに手間どることはないであろう。

45、 

氏政はきっと信玄が死んだと聞けば、

必ずや人質をも捨てて裏切り、

敵となるであろうからその覚悟をしておくように、

と御一族や家老の大将に言い渡された。

46、 

弟の逍遥軒(信廉)は、

今夜、甲府に使いに行くといって、

心安い従者四人を連れ、出るふりをして、

従者たちを土屋右衛門尉のところに預けよ。

そして明日の早暁、輿に逍遥軒を乗せ、

信玄公は御病気のため甲府に御帰陣になるといえば、

我ら(信玄)と逍遥軒とを見分ける者はあるまい。

永年見てきたところ

信玄の顔を誰もがしかと見た者はないということになると、

逍遥軒を見た者が

必ずや信玄は生きていると思うのは確実である。

47、 

四郎は、

くれぐれも好戦的にふるまうことがあってはならぬ。

そして信長・家康の運の尽きることを待つことが肝要である。

48、 

運命を哀えさせるもの、

それは身を飾り、ぜいたくにふけり、心おごること、

この三つである。

はじめに信玄が

信長・家康の運の尽きるのを待てといったのは、

勝頼への注意でもあるのだ。

49、 

その道理は、

信長は信玄よりも十三歳若く、家康は二十一歳若く、

謙信は九歳、氏政は十七歳若い。

そのため彼らは、信玄の末路を待っていたのである。






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最終更新日  2021年10月31日 15時32分08秒
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