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2021年10月31日
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カテゴリ:武田信玄資料室

「信玄逝去につき御遺言」 (「甲陽軍艦」品第三十九)

 

40、 

その証拠に輝虎も三年の間に病死なされるはずだ。

そうなれば信玄の次には輝虎が実力者であったのだから、

信長を踏みつけ破る者はいなくなると、仰せられる。

41、 

次に勝頼のとるべき戦略として、

まず謙信輝虎とは和議を結ばれよ。

謙信は男らしい武将であるから、

若い四郎を苦しめるような行いはするまい。

まして和議を結んで頼るといえば、

決して終始約束を破ることはすまい。

信玄は、大人気なくも謙信に頼るということを

最後までいわなかったために、

ついに和議を結ぶことがなかった。

42、 

勝頼は必ず謙信に敬意を表して頼りとするのがよい。

謙信はそのように評してよい人物である。

43、 

次に、

信長が侵攻してきた際には、

難所に陣をはって持久戦に持ちこむこと。

そうすれば、敵は大軍で、遠路の戦いであるから、

五畿内、近江、伊勢の部隊は疲労し、

無謀な戦いをいどむであろう。

その機会に一撃を加えて破れば、

相手は立直ることはできまい。

44、 

家康は信玄が死んだと聞けば、

駿河にまで侵入してくるであろうから、

駿河の国内に引き込んでから討ち取ることとせよ。

小田原(北条氏政)は、

強引に攻めて押しつぶすのに手間どることはないであろう。

45、 

氏政はきっと信玄が死んだと聞けば、

必ずや人質をも捨てて裏切り、

敵となるであろうからその覚悟をしておくように、

と御一族や家老の大将に言い渡された。

46、 

弟の逍遥軒(信廉)は、

今夜、甲府に使いに行くといって、

心安い従者四人を連れ、出るふりをして、

従者たちを土屋右衛門尉のところに預けよ。

そして明日の早暁、輿に逍遥軒を乗せ、

信玄公は御病気のため甲府に御帰陣になるといえば、

我ら(信玄)と逍遥軒とを見分ける者はあるまい。

永年見てきたところ

信玄の顔を誰もがしかと見た者はないということになると、

逍遥軒を見た者が

必ずや信玄は生きていると思うのは確実である。

47、 

四郎は、

くれぐれも好戦的にふるまうことがあってはならぬ。

そして信長・家康の運の尽きることを待つことが肝要である。

48、 

運命を哀えさせるもの、

それは身を飾り、ぜいたくにふけり、心おごること、

この三つである。

はじめに信玄が

信長・家康の運の尽きるのを待てといったのは、

勝頼への注意でもあるのだ。

49、 

その道理は、

信長は信玄よりも十三歳若く、家康は二十一歳若く、

謙信は九歳、氏政は十七歳若い。

そのため彼らは、信玄の末路を待っていたのである。

50、 

一方勝頼は、謙信より十六歳、

信長より十二歳、氏政より八歳、家康より四歳、

いずれにもまして若いのであるから、

彼らのような年長の考どもに負けぬようにし、

これまでに信玄が取って渡した国々を

危げなく持ちこたえることである。

51、 

そして、

もしも敵どもが無碑な戦いを仕かけてきたならば、

わが領国の中に引き入れ、必勝の決戦をいどむことだ。

52、 

そのときに、信玄が使ってきた大身、小身、

下々の者までが一体となって奮闘するならば、

信長・家康・氏政の三人が連合してこようとも、

こちらの勝利は疑いあるまい。

53、 

輝虎(謙信)については、

他と共謀して四郎を苦しめることはあるまい。

武勇においては信玄が死んだのちは、謙信である。

54、 

天下を手にした信長と、

武勇日本一の謙信との運命、

この両人の運が尽きるのを待ち受けよ。

55、 

万事について思慮判断、将来への見とおしは、

信玄の十倍も心するように、と仰せられる。

ただし、

敵がそのほうをあなどっていどんできたならば、

甲斐の領内まで引き入れ、

耐えぬいたうえで合戦をとげるならば、

大勝利を得ることができよう。

決して軽率な戦さはしてはならぬ。

と、馬場美濃守・内藤修理・山県昌景に

くわしく御指示なされた。

56、 

その次に信玄が生きている間は、

氏康父子も謙信も信長、家康も

みな国を取られぬようにと

用心をしていたにもかかわらず、

北条は深沢、足柄地方を、

家康は二俣、三河の宮崎・野田、

信長は岩村・堪の大寺・瀬戸・恵那までを

信玄に取られている。

57、 

謙信の領地の越後だけは、

こちらに奪い取ることはなかった。

高坂弾正の部隊だけの力で越後に侵入し、

謙信の居城春日山から

東道六十里のところまで入って放火、掠奪を働き、

女子供を奪って無事に帰還したのであるから、

我ら信玄と肩を並べるというわけにはいくまい。

58、 

信玄病中とはいえ、

生きている問は、

わが領国に手出しをする者はおらぬはずである。

三年問は深く慎め、といわれて御目を閉じられた。

59、 

また山県三郎兵衛を呼び、

「明日はそのほうが旗を瀬田に旗を立てよ」、

と仰せられたのは、御心が乱れたためであろう。

しかし、しばらくして目を開かれて仰せられる。

「大底還他肌骨好不。塗紅粉白風流』

と遺作の詩句を残され、

惜しいことに、誠に惜しいことに御歳五十三歳にして、

朝の露と消えられたのである。

60、 

御家中各右、御遺言のとおりに取り計らったが、

家老衆が相談の上遺体を諏訪湖にお沈めすることだけは

取りやめることになった。

61、

三年後の四月十二日、

長篠合戦の一月前に、七仏による御葬を営んだ。

62、

信玄公御一代の御武勇、

御勝利のほどは、三十八年間、

一度も敵に背を見せられたことはなかったのである。

以上

 

《註》「大底還他肌骨好不。塗紅粉白風流」

不朽の本質的なすこやかな人カの全身に伝えよう。

それは少しも飾気がなく、自然に風流なのだから

 

◎天正五年(1576)丙子正月吉日 高坂弾正これを記す。

 






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最終更新日  2021年10月31日 15時34分43秒
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