カテゴリ:甲斐武田資料室
長篠合戦 高坂の異見 甲陽軍艦 品第五十二 (『武田流軍学』吉田豊氏著 『甲陽軍艦』原本現代訳 発行者 高森圭介氏) 高坂弾正は、謙信勢をよく牽制しておいて、八千をひきいて駒場まで御迎えに出た。三年前に信玄公が御他界なされたおりもこのようだった、と高坂弾正は想いかえす。 信玄公の青貝で飾った御持鑓に、小熊の垂れの鑓印二十本、亀の甲の御鑓二本と合せて二十二本、鑓持の羽織まで段子にして慎重に支度をし、あちこちに伏兵を二人、三人と二日にわたって出し、甲府へ勝頼公が御到着になるまでは、少しも御旗本に支障がないように勝利したようにとりはからったのも、高坂弾正のやさしさと、信玄公から受けた御工夫の教訓の深さを身につけていたから、このようなことができたのだ。 以上のようなわけだったけれども、都の町人その他諸国の商人は甲府にもいたから、落書を札に書いて言ったものだ。 〃信玄の後をやうやう四郎殿、敵のかつより名をばながしの〃 (信玄公の後を「枕草子」の冒頭、春はあけぼの、やうやう白う----というように、四郎殿も明るく継ぐかと思ったが、敵が勝つことにより、勝頼公は長篠で名声を流してしまったことだよ。) ◇高坂弾正は勝頼公へ五ケ条にわたり意見を申した。 ◇駿河・遠州は氏政へさしあげて、北条氏政の幕下におなりになり、勝頼公は甲州・信州・上野の三カ国を統治して氏政の御先をつとめなさることで交渉なさるのが妥当であること。 ◇右に関して氏康は御娘子がおられるから、むかえて勝頼公が氏政公の御妹智におなりになるのが穏当であること。 ◇木曾(木曾義昌)を上野小幡へさしむけ、小幡上総を信州の木曽(福島城)へ配備なさるのが適当であること。 ◇ただ今まで足軽大将衆に皆兵を持たせられてきたが、馬場、内藤、山県の三人の子供をはじめ、皆同心をとりあげて、(固定的な関係でない)奥近習とし、小身として召しつかわれることです。明日にも我らの命はてたならば、我らが子息、源五郎も小身の地位になされて我らの同心、被官の誰にでも御配置いたされるのが妥当であること。 ◇典厩・穴山殿には腹を御切らせなさるべきです。穴山殿を典厩に仰せつけられ、典厩を我らに御命じになられるのがもっともだと申し上げたけれども、勝頼公が御承諾なされず、五ケ条のうち小田原北条氏政の御妹聲におたりになったことだけが、配慮された唯一の点だった。 あとは、真田源太左衛門のあとに弟の喜兵衛(真田昌幸)を任命されたことくらいである。 ◆信長、家康はこの合戦に勝ち、めでたいとよろこび、信長が家康に向かって言った。 ◆その方に駿河の国をさし出そう。三河、遠州については異議なく城を明け渡すものだ。駿河は家康自身で統治できかねるなら加勢いたすが、というのである。 ◆家康は答えて言った。 我ら一身を投げうつ覚悟であるから手こずるようなことはまずあるまいと言うと、信長は機嫌よく、では我れらは東美濃の岩村(聰那)を攻め、秋山伯耆、座光寺そのほかの武田勢を討ちとるというので、三年のうちには信州へとりかかるつもりで、まず岩村へ軍を寄せていく。秋山伯書は軍を出し、信長の軍とにらみあったままで、そこはそのままで押えおき、越前へと進攻し、その年七月には朝倉(義景)を倒す。 ◆一方家康の方は、長篠の合戦の勢いをかりて、駿河の油井、倉沢まで攻略し、引き返して遠州二俣を攻めたが、芦田は少しも弱気を見せない。そこで家康は三河侍を皆石集し、猿楽をあつめて一日能を演じさせる。次の日に懸川へ軍を進め、その次は諏訪ノ原へ攻めかかり、六月七月八月まで攻め続けたので諏訪の原城は家康に明け渡される。 ◆家康の家老の酒井左衛門(忠次)という侍大将は言った。甲州方の城はすでに攻め落したのも同然、以後次第に落城していくはず。一気に攻めかかりなされと申す。 ◆家康はしかしそれを聞き入れず、小山の城を攻めよと命令する。 ◆酒井左衛門は申す。信玄の武道は古今例のないほどだったから、その跡つぎの勝頼はすぐに後陣をしいて支援するだろうと言う。 ◆松平左近という家康の家老は、やはり小山城に攻めかかりなされと申す。勝頼公は、五年や三年の間は出動不可能である。理由は、すぐれた武将をはじめ大小の兵を多く討死させ、そのうえ越後の謙信に信濃をとられない様にと努めねばならないからです。どうしてこちらまで出動する余裕などあり得よう。今のうちに小山城を攻め落しなされば、高天神・二俣の両城も難なく攻め取りなさることもできます。と婆言したこともあって、左衛門尉もそれに賛同し、小山城へ攻め寄せた。小山城には駿河の先方侍大将が五頭たてこもって守っていた。 ◇こうして八月に入ると勝頼公は甲州・信濃・上野勢で、名の通った者の子孫や、若い者で出家になったり、町人になっている者を皆召集して二万あまりの軍をしたてて、八月中旬.に遠州小山の支援をした。家康勢はこの様子をみて、小山城をとりまいた軍をといて立退いたのだった。駿河の先方衆は城からも出て、その後退を妨害した。酒井左衝門尉衆の中の戸田左門が、大津土左衛門と名乗っていたが、その者がしんがりをつとめた。高坂弾正はこの時も御意見を申し上げ、勝頼公がこの際に有無をいわず決戦をと言われたのを、引きとめたのだった。というのも、負けて以降、百日たらずで出陣したのだから、敵は勝ちほこった勢いがあり、とりまいた城をとかせて圧倒しただけでも、武田の武威がまだ衰えていない証拠だと弾正がしきりに力説申し上げ、引きとめ申したため合戦にはならず、互いに軍を引いたのだった。 ◇勝頼公は、小山の城に逗留なされて、小身なのに小山城に籠城してよく堅固に維持し活躍し、功あったとて御感状を下された。その御感状を受けた衆は、蒲原小兵衛・鳥井長太夫.朝倉六兵衛・朝比奈金兵衛・村松藤左衛門・望且七郎左衛門・岡部忠次郎・・鈴木弥次右衝門・末高・杉山。以上であった。
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最終更新日
2021年11月02日 19時07分14秒
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