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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年11月03日
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カテゴリ:武田信玄資料室

 武田信玄御遺骨顕彰について

 

佐久 太田山 龍雲寺

  長野県老人大学院レポート集 別冊

  十番 小川延雄氏著

  一部加筆 山梨県歴史文学館

 

序 文 郷土史研究の一里塚

 

全佐久史談会長

 浅間郷土誌研究会副会長  白倉盛男

 

余命が延び物と余暇に恵まれた中流意識の生活を如何に充実したものにするかは現実には多くの問題がある。公民館の学習活動や各種教室の流行のみでは解決は難しい。各個人が意欲と興味を持ち自ら問題に立ち向い主体的に求める心と実践があってこそ仕合せな人生が創造できる。

 今回上田老人大学大学院を卒業する機会に永年テーマ解決に取組み、終始一貫研究を続けて、

「佐久市岩村田大田山龍雲寺武田信玄公遺骨顕彰に関しての考察」

を精果として纏めてレポートとして公表し、大学院当局はもとより広く世の批判を得たいとその原稿を示され一読の機会を与えられ検討を托された。

 筆者の小川延雄氏はわが佐久史談会・浅間郷土誌研究会の同志であり、昭和初期からの同学の友の高齢八十一才記憶力優れ北高禅師語録を暗誦している程の永年の研究を讃えその幸福を祝う責任を感じ力不足を恥じ入りながら読後感を誌す次第である。

 佐久史談会の創立は昭和八年でその前々年発見された龍霊寺武田信玄公遺骨問題の研究を中心として当時の岩村田女学校長・史学研究の大先達岩崎長思先生を核に南北佐久郡一円郷土研究者の集りであった。遺骨問題の研究と顕彰に総力をあげたのであるが戦時中に突入し地方の一問題として片寄せられ、願う進捗を見ない中に有力な研究者・理解者学者が次々と物故なされ、戦後漸く郷土史研究に眼を向けようとした時にはこの研究に最初から関与した者は小川延雄氏のみとなってしまった。

小川氏はその中で家業の傍この研究に「徹底と終始一貫」今日まで涙ぐましい取組みと犠牲を払ってきた。信玄公の甲州に・終焉の伊那駒場に・東大史料編墓

所にも何度も足を運び、古文献仏典の研究には高僧や各地の図書館に日時を惜しまなかった。

 歴史事象には種々の観方と解釈の多様性が成立する。龍雲寺の夥しい責重な古文書を資料遺物に最も精通し今日も尚研究に精魂を傾けているその成果の要約がこのレポートである。

 近く龍雲寺史が壇信徒の協力のもと中央の専門家、早稲田大学の文学博士・柴辻俊六氏等によって編纂が進められ刊行が予定されていると聞いている。郷土の埋れていた歴史事象が多くの協力によって明かにされることはこの上もない喜びであり感謝に堪えない。

郷土の歴史発掘は郷土の研究者の協力なくしては立派な成果は挙げ得ない事は最近に確認された事実である。

 小川延雄氏の永年の研究もその一里塚であり敬意を表するものである。             (昭和六十年一月十八日)

 

私の信条 徹底と終始一貫について″小川延雄

 

  附 佐久市岩村田太田山龍雲寺

武田信玄公遺骨顕彰に関しての考察

                                            

私は少年期を米沢ですごした。米沢は上杉の城下町である。なんの因縁か壮・老年期にいまの佐久市岩村田住み、家の前にある龍雲寺に杷られた武田信玄公にとりつかれて四十年間上杉謙信と対照的な武田信玄の遺骨顕彰ととりくんでいる。

米沢でも家の前に三軒のお寺があって、そのうちの曹洞宗の寺で夏安居があり、座禅のあと「トキワダイジョウ」という仏教学者の法話を聞いた。落語の家ほめを引用して、頭の少したりない息子が父の代理で新築祝にやらされた。父親からお祝の言葉を教えられ、「柱に節穴があっても上手にほめるんだよ」と教わり、言われたようにやってのけたので、これは無事にすんだ。その息子がこんどは馬

をほめる段になって、一応頭の方から順にほめあげて、うしろへ廻って尻の穴をみて、住の節穴をほめたと同じ句調ではじめたので、みんなから笑われた。これは物に対する認識にかけたからである。即ち物の徹底を欠いたためで、すべて徹底には時と物と相手に応じた話をしないと徹底しないという意味であった。幼い時に頭にきざみこまれたことは、なかなか消えないもので、それ以来私は徹底を信条としている。とは言ってもなかなか言行一致といかないが、つとめて徹底を期している。

次に終始一貫については。

 「武田信玄公の遺骨が偽せものあつかいされているものの解明に長年の間取組んで、他人がみれば無駄骨をおって今日に及んでいると思うであろう。

さてその経緯を語れば三時間はたっぷりかかるので、次に項目別にあげて解説を加えることにする。

 

 龍雲寺と武田信虎及信玄との関係。

 

寺伝によれば、昔、岩村田端下平にあって、寺名を大智山龍雲寺といい住職がつづいた。その頃は臨済宗であった。その後曹洞開祖天英詳貞禅師より四世徳翁祖昌禅師大永年中(152128)武田信虎に謁を取る。寺に信虎の書あり。天文(1532)のはじめ甲州事あり、佐久郡また背く、天文一三年武田晴信御出馬によりて又佐久郡通ず、弘治年中(155558)晴信、当山を過給へり、時に、六世 桂室清瀬嬾和尚 巾を戴酒掃寛々たり。武田は無礼を咎めて師を追うといえり、是に於いて、北高禅師をして住職たらしめ、山をあらたにす。前代の基始を廃する事たりしとかや、前書伝えす。

 中興の開山北高全祝禅師。羽州の人也、父は北殿と号し、奥州の国司北畠頭家郷の裔なり。一二才にして父を失い羽州の廣碩禅師に師事す。成長するに従って東関西海の耆宿について牧として学び、越後の雪洞庵不黙禅師をたずねたところ一見して器の重きを見ぬいて入室を許可され、朝に昏に参究法源を深く徹された。北高禅師は上杉謙信の親族であったという。春日山城で、謙信から栗を十里にたべ法如何と問われ、皮をむいて五里五里たべると答えたという。話のあと武田と上杉と和儀の話が軍記にあるという。

永禄四年(1561)武田信玄龍雲寺に寺領五百貫文を興え使者跡部又三郎泰之云々とあり。信玄がなぜ北高を召したかは、定かではない。

これより先北高禅師は京に在ること二十年、甲府の大泉寺に二十年位住居し北条と武田と仲たがいした折、仲裁話をした。また甲府の積水寺にも数年居住。信玄と長男義信と親子仲たがいの折も仲栽に入っており、上杉との和義にも使をしている等、身内や重臣以上に信玄と心をわっての交りをもっていた。信州の御手のとどく所に龍雲寺が建ってあったので、これを北高に給ったのである。

 入室当時の寺の記録に、

「信玄御位牌並黄梅院御位牌立置かれ、今日に至るも霊供供奉り候又龍雲寺へ入院中候時、佐久士衆へ条書を以て、北高に仕えるには信玄に仕えると同様に仕えよ。もしたがえる者あらば、分国を追放するものなり。」

ときびしい命令を出している。これらによっても、信玄が如何に北高禅師を信頼崇敬したかがわかるのである。

 特に図阪(1)田に示す、信玄が北高を分国曹洞宗の僧録司に任命した時の文書に

「それ北高和尚は洞上の門の嫡家を相続、来世の首魁として仰ぐなり。

と述べており、信玄は自己を拙夫とへり下っていることは注目すべき事である。

 

3、信玄はなぜ北高禅師を龍雲寺に招いたかについて、

寺にはその理由を示す文書はない。しかし信玄はかなり計画的に行ったと推察できる。信玄は三十一才で出家している。その理由は甲陽軍艦品四によると、三十一才を迎えた晴信は、かねて幼少の頃から帰依していた臨済宗妙心寺派の名僧・岐秀元伯のもと、仏門にはいって機山信玄となる。禅文化へのあこがれと父・信虎を追放したことに対する自責の念とがからみ合って、この行動をとらせたのであろう。しかし信玄の心の師となった高僧たちは、彼が禅の世界に沈潜して、人世の無常を感じることをおそれ、信玄の求道心にブレーキをかけて俗世の任務を強調していることは、当時において禅思想と禅僧がはたしていた役割を語っていておもしろい。(注:この甲陽軍鑑編集訳文は徳間書店発行吉田豊氏)

 

天文二十辛亥年、武田信濃守大膳大夫晴信発心なされ、

法性院機山信玄と申。其意趣は、

第一に武田は新羅三郎公より信玄公まで二十七代にて、

しかも代々弓矢を取って、其誉有をもっての故か、

公方御代官として、御同座の折々、再度に至て、

御陣所に直し置き給うに付て、武田殿居住の所は

今に至て御所と申ても、くるしからず。

然れば晴信公代に、家を破ては、

跡二十六代に対し、晴信公面目なき次第なり。

つらつら世間の体をみるに、久敷家共皆やぶれ、

漸はや武田の家など、破るゝ時刻に廻来ると、

おぼしめして、信玄公御諚(仰せ)に、

むかし平の清盛は、其身命をおしみて、法体になり。

我は先代のためとて如件。

第二は晴信公の、本卦豊也といふ。

豊の卦に日中の後、みちかけ有ということ是也。

人間は六十定命なれば、日中の後は、

後の三十が昼ならんと仰せられ、

みちかけには、かしらをそりて、みちかけのこと也。

 

第三には、我住所遠国にて、

禁中へ奉公可中様これなければ、位を進むべき事、

奏聞中様なし。出家になりては、

大憎正迄にも、罷成べきこと、

訴訟中上能と、此三ケ条の御心中をもって、

法体と成給ふ。

院号は法性院、遠号は機山、諱は信玄、

三十一才の春薙染にて法性院機山信玄と成給ふ。

右三ケ条とは申せ共御父を追出され候間、

信虎公への礼儀と極意は聞へ候。(中略)

さて又前にかき申、唯高和尚、策諺和尚、

両長老上洛の時、御暇乞に御館に御座候て、

信玄公へ仰あるは、宗旨の儀は、

妙心寺派に御究尤に候。

さ候はば、長禅寺岐秀へ参学なさるべし。

参禅なされ候とても、

それをば、本来のごとく思召、

武士は愚に帰り、現在の名利が本にて候。

出家は現世をば、捨に仕、

是さえ名を得たがる者なり。

まして俗家と申せ共、中にも侍は、

ほまれを本になさるゝが、

家にてあり。愚に帰り、軍配を専ら御用候へ。

弓矢は魔法にて候故、軍配を御用なければ、

勝負の儀胡乱に御座候旗色を御覧にて、

雲気煙気を見分け、すだ・ゑき・さでの飛様、

そなへをたて、人数ぐみ陣取のなされ様、

皆是愚痴成様に、思召べく候間、

悟をば、未来の事になされ、

愚痴にても勝利を得、国をとりひろげ給ひ、

そこにてよき長老衆を召し集め、

仏法を興し候へば、御自分の愚痴なることをば、

世間には申さずして、

源の晴信公は、仏法者かなと、

諸人より沙汰申べく候。

又仏法を御取立候はば、

諸宗を悪しく成されざるが、

大慈大悲の名大将也。

我宗旨ばかりとあるは、旁なる分別にて候、

いづれも釈迦より此方へ立来候。

さりながら、仏心宗と申は、禅宗のことなり。

迦葉粘華微笑の後、阿南門前倒却より、

わずかに言句にわたる、

文字にあらずば、もって伝ることなしと、

血脈相伝の達磨大師、教外別伝と申は、

この禅宗なり。

これより後のことは、岐秀和尚へ、御参得有べし

両和尚御座敷を立給ひ、御暇乞ありて、帰洛なり。

(品第四)

 小川註……

思うに武田信玄公は、この時すでにかなり、参禅されていた。同じ仏道を学んだ公が桂室清嬾和尚が頭布をかぶって酒掃(そうし)をしていて、信玄公が来たのを気づかずにいたかもしれない。

それを怒り咎めて追放したということは考え方によっては信玄公が、唯高 策諺両和尚から忠告を受けたことを実行するために甲州では、いろいろの宗旨があり、また甲州上州の交通の要である岩村田、そこに古くから在る名刹龍雲寺を選んだ。と考えられる。しかも長年の間親交あり。図版1に示すように北高禅師に対し僧録司任命の文書は「来世の首魁として仰ぐ也」と敬い心服している。そして越後の好敵将上杉家の菩提寺の十代目住職を迎えることは何人も出来ることではない。これをやった信玄公に対して甲州の偉い僧侶、重臣といえども異議を称えることはできなかったであろう。また幼少のときから師事した岐秀禅師には相談したものと考えられる。

ここで執行した元亀三年の千人法幢も予定にいれての信玄公の深い計画にもとづいたものと考えられる。その後北高禅師に千人法輪に対する書状に

「越の主に御披露尤に候」

とあり、同じ僧籍にある謙信公も心中信玄の行った、このことに好意をもっていたと思われる。両長老からの忠言のなかに最後に、「よき長老衆を召し集め、仏法をおこし候へ」とある。この言葉が北高禅師を招き後、元亀三年二月には岩村田宿中に屋根の葺茅の寄進を命じ、同三月中に修繕を終り、四月十四日~七月十七日までの一夏の間、北高が龍雲寺に千人法幛を行った。

集り来る僧、堂頭和尚(北高)、甲州永昌院大益和尚を首座とし、甲・信・駿・上越の曹洞宗の僧侶実数五四五人、寺だけでは収容できないので、湯川の河原へ仮家を建てたことから寺へ通ったと思われる。今途中に精道場の地名残れり。千人法瞳の奉行小宮山丹後守昌友、執事荻原弥右衛門、記録によれば関東にあって、その後当郡までに候とあり、一大盛儀であった。

千人法憧は信玄生前に行った自分の葬儀ではなかったか。然し、この頃の甲州の諸情勢と信玄の病状等を考え合せ、且つ元亀三年二月末日信玄が北高禅師を僧録司に任命した書状等から推測するに、信玄公は御自分の死期近しと考えられ、長年思いつめていた。

京へ上る西土作戦を決意されて病中ではあるが、万難を排して行けるところまで行き、倒れて後に止めるの重大決心のもとに、生きながら御自分の葬儀の法要を実行された。これが千人法輪であると感じられるのである。されば北高和尚もその意を察して壮途空しくこの世を去られた暁は龍雲寺へ葬り、愚老が終世菩提を葬うと誓われたのであろう。

死後三年間喪を秘せの遺言も北高禅師の献言ではないだろうか。されば「没倒者前々御存迄候」となるのである。当時の甲州の情勢。龍雲寺の概況については後述する。

 ⑶ 武田信玄の西土作戦。壮途半ばにして元亀四年四月十二日(一五七三)伊那駒場に卒す。北高禅師はそれを茶毘に付し遺骨は北高禅師が持ち帰って、龍雲寺に秘かに保管護持された。

 ⑷ 北高禅師は信玄の菩提を弔うため別に一寺を建立して信玄の霊を慰めようと、自分がこの匝を去る天正十四年十二月二日まで苦心されたと確信する。そして最後におよんだ。

天正十三年(一五八五)穏居する頃骨瓶を包んだ袈裟の環に次の言葉を刻り込んで土中に埋めた。

 

大檀越信玄 于時天正元四年四月十二日

於駒場率戦時為舎利納茲 北高和尚頂礼百拝

一面にはく

即今神霊 今日作歴生 是安身立命処 

擲火云 三世諸仏 向火炎裏転大法論 

西春念十八日 全祝六十九才 

 

小川註……

 

昭和六年五月二十九日、遺骨発掘後信玄が亡くなった直後で、まだ改元にならない時、天正元年と書くのは不合理だと事実を否定しようとする史学者達が主張したが、大正十三年頃になって天正元年と呼んでもさしつかえないと思うし、むしろ妥当である。






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最終更新日  2021年11月03日 06時11分55秒
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