2293582 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2021年11月03日
XML
カテゴリ:武田信玄資料室

武田信玄 遺骨発掘の顛末 

 

武田信玄御遺骨顕彰について

 

佐久 太田山 龍雲寺

  長野県老人大学院レポート集 別冊

  十番 小川延雄氏著

  一部加筆 山梨県歴史文学館

 

昭和六年五月二十九日寺男野田宗太郎(六十二才)が墓域の塀を直そうと、控木を埋めるため穴を掘ったら亀の甲型の石の下から、尾林焼の茶釜と三十二センチ位の小刀、布が腐ったものとみえて象牙の袈裟の環が出土した。

寺男の知らせでかけつけた住職夫人と二男の宮下峰雄(中学二年生)、東京へ嫁いだ姉が立合って木の下に並べてあった瓶を、壊さないように蓋を開けたところプウと臭いガスが出て、中の人骨は大気の圧力のせいか、グヅと崩れてしまった。

住職夫人は畑伝いに檀家総代の一人中沢宇肋さんの台所口から

「宇助さん、今骨の入った瓶と、袈裟の環を野田ぢいさんが掘り出したから末ておくれ」

と告げた。宇助さんはすぐ羽織をひっかけてとんできた。そして袈裟の環に何やら文字が彫ってあるのを見て、これは借りていって調べるからと言って持ち帰った。炬燵の上で紙をあてて鉛筆でなぞったところ文字が現われた。

その時そばにいた孫の光太郎さんに最近聞いたところによると、宇助じいさんは「あっ、これは信玄様らしいな……あ、信玄様だ」

といった。

当日、住職様宮下雷音和尚は末寺伍賀梨沢の成穏寺の桜井様道和尚と用事があって上京中であったので翌日電報で急いで帰り、その足で警察署へ埋蔵物発掘許可願に行った。その時これは宮様の御骨かもしれないと言った。それは庫裡の土蔵の二階に明治前に伏見宮十九代貞敬親王がおいでになったためであった。何故居られたか判らないが、安政四年(1857)に宮家から「従来御由諸有之尊牌一基納める」という書状と御位牌が来て居りそれには、「伏見兵部郷貞敬親王御事天保十二年一月二日」(1841)と記入してある。

警察では県を通して宮内省へ照会したところ、発裾物全部を帝室博物館へ提出するようにと通告してきた。

宇助さんの話で武田信玄公の遺骨と知った雷音和尚はまた警察へいって宮様でなく龍雲寺中興の開基武田信玄公の御遺骨であるから差し出す訳にはいかないと預り証を入れて持ち帰り本堂へ祀った。

 

⑺ 渡辺世祐博士の鑑定と霊廟建立。

 

その年の七月十七日当時武田信玄研究の第一人者渡辺世祐博士を小石川の自邸に訪ね、骨壺以外の発裾物や代々の住職から引継いできた埋骨に関係ある古文書等を示して鑑定を求めた。

そのとき博士は「新聞で知っておられて、信玄と北高禅師の間からみて、遺骨を龍雲寺へ持ち帰ることはあり得ることと思っていた。」

とおっしゃった。

持参の関係文書を読まれて、「ああ間違いない」と口にされた。

 そこで和尚と同行の佐々木鉄之助(佐藤寅太郎氏弟で 「北高禅師」の著者)は異口同音に「先生これを世間に発表してよろし

うございますか」と聞くと、「よろしい1‐‐‐と答えられ、また「駅の名所案内に書いてもよろしいですか」と言うと、

「それもよろしい……。但し甲州の恵林寺はそのままとすること、岩村田龍雲寺として発表すること」

と付け加えられた。地元岩村田では機山電光会を組織して顕彰にのりだした。その『信玄公霊廟建設会趣意書』にまず政界史学界の名士の賛同を求めて署名を得た。 

田中舎身、頭山満、小川平吉、植原悦二郎、小坂順造、田辺宗英、吉田敬直、

富田敬純、山本恒平、井上一次、尾藤知勝、大庭二郎、菊地武夫、田辺治通、

本間和雄、渡辺千冬、内田良平、小山邦太郎、福田虎雄、中野正剛、徳富猪一郎、

名和長憲、渡辺世祐、井上清純、丸山秀夫、比田井元太郎、小林立延、

小久保喜七、清瀬一郎、安達謙蔵、松田仲民、松本忠雄、百瀬 渡、山本壮一郎、

下口素四郎、加賀美国光、有馬浅雄、宮沢胤衛、板垣守正、立川進平、中島口吉、

上杉家、近藤 親、十枝 勝、久保田外治、浅川敏口、堀内文次郎、柳生俊久、 

中山久四郎、提康次郎、中島正勝、井出弥門、舟橋伝夫等

が名をつらねた。

この趣意書の文中に帝国大学史料編纂所所長 辻喜之助博士 及渡辺世祐博士等によって掘り出された人骨は信玄公の遺骨に相違ないという確固たる折紙を付けられたとあるが、それに渡辺世祐博士が著名しており、国史の大家 徳富猪一郎氏の名もある。

昭和六年、七年は銀行の取付があった不況時代であったため募金は思うように進まず関係者一同困っていた時、南佐久郡川上村金峰山の探鉱を行って、成功した。

東京の有吉喜兵衛氏は信玄公遺骨発掘と同時に堂宇建立を念願しつづけて九年、遂に昭和十四年五月三十日(旧暦四月十二日信玄公命日)を期して落成式を挙げた。 

設計は東京歌舞伎座設計者として名ある内藤寿三郎氏に依頼し純日本式権現造りの考案で桧材は東京より栂材は川上より松材は北佐久地元より、石材は茨城県より調達して、工費弐万五千円で見事に竣工した。

以来四十五年、だいぶ痛んできたので五十九年春大修理を加えた。

山梨県、東京、関東方面からの参拝者多く、古文書が多いので説明を加えないとよくわからないので、私(小川)がその役をかっている。

 

 8、史跡実地調査請求上申。昭和六年十月五日、

 

住職宮下雷音和尚は長野県石垣倉治知事宛上申書を提出した。

 

 9、「武田信玄に関する史跡編入指定願」

 

次いで昭和七年一月十一日、文部大臣への

「武田信玄に関する史跡編入指定願」を提出した。

 

 10、龍雲寺 信玄遺骨否定論の続出。

 

昭和八年三月頃より、中央史学界等が盛んに、龍雲寺信玄遺骨否定論がおこり、

特に昭和八年三月十五日発行の史学誌「信濃」註:(この復刻版が五十八年信毎から発行された)がまづ飛将謙信を書いた、長野県史跡調査委員、信濃資料生みの親と称された、栗岩英治氏は「郷土史の病気」と題した論文をのせた。これは読んでみると論文などと言えるものではない。昔の赤新聞の記事のような文章である。全部書くのは煩わしいのでここには書かないが、各市町村の図書館に備えつけてあると思うのでご覧願いたい。

 

11、反論

 

これに対して私(小川延雄)は地元の郷土史研究会で反論を述べたところ、当時小諸の火山博物館長で佐久史談会長であった、白倉先生から

「素人の小川さんが研究してこれだけの意見を発表されたのを聞くだけではもったいない。広告の紙へでも鉛筆書でお書きなさい。私が正式の原稿に清書してあげますから」

と勧められた。

「私の信玄研究は言うならば門前の小僧習わぬ経を読む的のものですから、」

と遠慮したが、たってのおすすめに原稿が書けないとは言えないので、曲りなりに書きあげて佐久史読会の会誌「佐久」三十二号にのせて頂いた。この反論はそのままこれに続けてあるからお読み下さい。

 「龍雲寺信玄遺骨問題について 小川延雄」 

佐久第三十二号記事 (二十五頁参照)

 そのほか私は自分の集めた資料によって、これを一冊の本にまとめようと思ったが、信州で出した本に甲州から反対意見が出てもその対応に困ることを考慮して、甲州で書いてくれる郷土史家はないものかと、私の店の取引先の長谷部林造氏が来訪の折龍雲寺の信玄公霊廟に案内してこの話をしたところ、いま「新武田三代記」を執車中の弁護士税理士で郷土史家の林貞夫先生をおつれ下さった。

林先生は「惜しかった、『新武田三代記』の最後の分か脱稿していま長野の第一法規で印刷中である。しかしこれは別に単行本で発表しようというので私の資料を全部提供した。

 それが新人物往来社から発行された「信玄遺骨物語」である。

資料の読み違いや甲州に居て信州を書いたので、地名、東信を南信と書くなどの誤りがあり、また栗岩英治氏の意見に対して真向から厳しく反論したりしたので、甲州からの反論を懸念したのに、佐久市野沢の平林富三先生から対論がでるなど、しばらくの間新人物注来社の「歴史研究」誌上で論戦が続いた。そこへ私の反論も加わり漸く昨今下火になった。林貞夫先生は一昨年散歩中武田勝頼公ゆかりの寺の前で脳出血で倒れられ、入院加療中も無意識の中でペンと紙を求められながら八月二日遂に逝去された。

 先生の最後の作は、明治大学出版部発行『新修甲州法制史全五巻』がある。私の元へも武田信玄遺骨についての原稿が届いているが、後日折をみて発表したいと思っている。

 

 12、否定しようとした原因

 

 近頃ようやく否定論も下火になってきたので、改めてなぜ否定しようとしたかを研究してみたら、否定しようとした人達はいずれも龍雲寺信玄遺骨は間違いなく本物であることを関係文書によって認めているのである。

認めているから否定しようと努力したのだ。それは否定しなければならない事情があったからである。

その事情とは、天正三年(1914)十一月十日大正天皇が、御即位なさった。

その折従来国家に功績のあった人達に叙位があった。

信玄は従三位追贈の御沙汰を賜わり、翌大正五年四月十二日新暦ではあるが、信玄の命日に時の添田山梨県知事が策命使として恵林寺の墓所に於て恩命を伝えられた。

 

信玄 従三位追贈 御沙汰

 

大正三年(1914)十一月十日

贈 従三位(さんみ) 故 従五位下

     武田晴信墓前策命

天皇の大命に座し 大膳大夫従五位下

武田晴信の墓前に

宣給(のりたま)はくと宣(のたまは)る       

汝命は元亀 天正頃 甲斐国にうしわきて

物部の道に猛き名を挙げましのみなは

其領知れる国内の政(まつりごと)に心を深めて

産業の道を彌奨(いやすゝめ)に奨め

或は河川に 堤防を築きて水の害を除き

後世に至るまで人民をして

その恩恵を蒙らしめし事をうむかしく思し召し

其の功績を褒め給ふと為(し)て 

今回特に従三位を贈らせ給ひ 位記を授け給ふ。

大将五年四月十二日    

 

 その後十六年たって龍雲寺に信玄公の遺骨が発掘、世に出ても、当時は天皇至上時代のため、いかに正しい証拠の古文書があっても、これを真とすれば恵林寺は偽となるので天皇陛下に嘘を申し上げられない、という誤った忠義観から官界政界史学界こぞって否定論を唱え、いかにも正しい論のようにみせかけ、その実、証拠になる重要な古文書を改ざんして長野県の史学上正しかるべき信濃資料に発表したり、栗岩氏の論文の中に歪めた解釈をしたりして証拠の抹殺をはかった。そして出土した袈裟の環の刻字だけに総攻撃を加えたのである。

その論旨をよく研究すると、かなり考えてやったようでも史学者ならぬ素人の私でさえ判る、誤りがあったのである。

栗岩氏の論文中に次の文句がある。

 

  且又其寺に所有の関係文書だというものさえ、

何等無因縁のものであって、

言わば滑稽以上に出でないものであったのである。

 

という一文が、何だか龍霊寺の全古文書が無価値であるとても言ったようにとられているとのことであったが、もし、そうだとすれば筆者不文の罪に外ならぬ。筆者が指して「関係文書というものさえ」は掘り出した骨を、信玄の遺骨であるとの証明に充ててあった文書の事を指しているのであって、大体から、龍雲寺文書が、武田氏遺文の最多量なものであり、且又史的にもそれぞれ相当の価値のある文書である事は、改めて論ずる迄もない処である。昨年暮北佐久古文書の第一乗が発行され、筆者は其選択を嘱せられたのであるが、其第一集を見て貰っても、龍雲寺文書を決して粗略に取扱っていないかの了解がある筈と思う。

但し其れは、帝大史料によったものである事は断っておく。

 註……

小川-北佐久郡古文書集の凡例の部には帝大史料によることは勿論である。と

あり前記の帝大史料によったものであることは断っておく。後記の帝大史料による事は勿論である。この場合普通に書けば帝大史料による。で、よいものをなぜ断ったり、勿論であるというのか? 私はこれは臭いと思った。今の東大その頃の帝国大学の史料編場所は権威のあるものであるから、帝大史料といえば何人も疑をもつ者はいない。よって帝大史料という隠れ蓑に隠れて何かやっているな、と直感して専らこの方面に向かって取調べを続行し、最後は東大史料編纂所へ宮下忠雄住職と共に出向いて調査したところ、昭和八年頃の人達は栗岩氏が言うような別の読方を古文書に朱書したりしていたことを発見したので前にも増して信濃史料龍雲寺古文書を検討してみた。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021年11月03日 06時16分34秒
コメント(0) | コメントを書く
[武田信玄資料室] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

9/28(土)メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X