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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年11月03日
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カテゴリ:甲斐武田資料室

-旧武田家臣についての考察-井伊家に拾われた旧武田家臣

 

○特別寄稿 井伊家「侍中由緒帳」今川徳三氏著(作家)

 

『歴史研究』『特集 武田信玄の謎』

平成10年 8 第447

一部加筆 山梨県歴史文学館

 

 武田氏の滅亡はいろいろな形で、書き継がれてきているが、四散した家臣について書かれることはまずない。

最近必要があって山本勘介について調べているうちに、井伊家の「侍中由緒帳」中、武田家臣五十一名余の「由緒書」の中に、勘介の末流山本元叔の提出したものが含まれていることを知った。

 井伊家の知行取りは元禄四年(一六九一)四百五十二名であったが、初代直政から百年の余の間に、家臣も子から孫と代が替わり、新参も入るなどして、直興はじめ藩の重役にも家臣の氏素姓や、召し抱えの経緯などが分からなくなってきている者が多いので、家臣に祖先伝来の「由緒書」を提出させ、全七十五冊にまとめ「侍中由緒帳」と題したものである。

 天正十年(一五八三)二月、織田信長は甲斐へ攻め入るに先だって、武田の侍大将らに、

「無駄な抵抗はせず城を明け、お礼言上にまかり出れば、それそれに所領を安堵する」

と、名指しの連名の回文を出した。

 織田軍が攻め入ると、信濃伊那(長野県上・下伊那郡)の諸城の守りについていた、高遠(上伊那郡高遠町)の仁科五郎盛信以外の、信玄の実弟信廉(のぶかど)はじめ侍大将らは、一戦も交えず城を放棄して逃げ散った。

 

三月十一日、勝頼主従四十余名が田野(山梨県大和村)で自決すると、身を隠していた信廉らは織田軍の仮本陣へ出向き、信長父子の戦勝を祝い臣従を誓えば、所領は安堵してくれるものと思い、それぞれに出頭した。

ところが信長は、

「のこのこと出頭してくる奴は気が許せぬ、首をはねよ、」

と指示を出していた。

 跡部大炊介(あとべおおいのすけ)は信濃諏訪(長野県諏訪市)で、

武田信廉・長坂長閑(ながさかちょうかん)父子・小山田信茂らは甲府で、一 

一條右衛門は甲斐市川(市川大門町)で、

秋山内記は信濃伊那高遠で、

武田信豊は信濃小諸(小諸市)で、

大熊長秀は信濃伊那(伊那市)でそれぞれ酋をはねられた。

これに驚いた足軽大将らは残党狩りの尹をのがれて、山野に身を隠した。

 

信長が本能弁で明智光秀のために討たれたのは、武田を滅亡させて三カ月‥たらずの六目二目のことであった。

 堺(大阪府堺巾)にいたため難を逃れた家康は、命からがら岡崎城(愛知県岡崎市)へ帰ると、七月、信濃・甲斐の領民の鎮撫のため甲斐へ向かったが、その際大久保忠世(ただよ)は、

「武田家臣の命を助け、当家の家臣として召し抱え、徳川家のために役立たせたほうが、得策でござる」

と進言。家康も大久保の勧めにしたがって、帰順の呼びかけをした。はじめは信長の二の舞いではと警戒していたが、そうでないとわかると続々と帰順してきた。

 家康は面接の上、旗本に組み入れる者と、目をかけている井伊万千代(直政)につける者と分けたが、万千代には天正三年五月、長篠の合戦で壊滅した山県昌景の「赤備へ」を復活させた。

足軽大将広瀬郷左衛門ら七十四人と、「上野小幡(こうずけおばだ)の赤備へ」として勇名を馳せた、上野国峯城(群馬県甘楽郡甘楽町)小幡信実(のぶざね)の家臣四十三人をつけた。

「赤備へ」とは武具はじめ旗差し物、馬具すべてを赤一色に統一した部隊で、井伊の家臣団に組み込まれると、「井伊の赤備へ」といわれ、豊臣相手の合戦では異彩を放ちつねに先陣をきり、暴れ回って豊臣方を畏怖させた。

 直政はこの他のちに縁故をたよってきた、旧武田家臣を召し抱えているが、その数は百二、三十人以上になっていたようである。

慶長十二年(一六〇七)になると井伊家の家臣は三百二名にふくれあがった。

 直政につけられたときの知行は、勝頼時代の身分と知行を基準にしてあてがわれ、その後井伊家の石高が上がるにつれ、加増があり優遇されていた。それが百年の聞に新家になったり、何かの事情で追放になったり、百姓・町人になったりで、旧武田家臣の後裔の数は六十数名に半減していた。

 

優遇者の筆頭は広瀬郷左衛門

 

広瀬は甲斐小石和(こいさわ)筋の広瀬(山梨県石和町)の出といわれ、板垣信方隊に同心頭として配されたが、塩山(山梨県塩山市)で、山本勘介から兵法の伝授を受けたという。

板垣が天文十七年(一五四八)二月、信濃上田原(長野県上田市)の合戦で戦

死すると、山県昌景隊に配属になった。

 天正三年(一五七四)五月の長篠の合戦の前哨戦で、山県隊は吉田城(愛知県豊橋市)に押し寄せ、山県昌景は城主の酒井忠次と槍を合わせ、攻防三度に及んだが横槍が入り、昌景は攻めあぐねて兵を追いた。酒井らが追尾すると殿(しんかり)を買って出た広瀬は馬を縦横に走り回らせて追尾を遮断し、昌景が無事引き上げるのを確認し、敵を尻目に悠然と立ち去った、という豪胆な人物で、戦場の槍合わせは六度、首級は五十九という。

 妻は信玄・勝頼を支えた軍師の一人小幡昌盛の娘。その三人目の実弟が『甲陽軍艦』の編者で、軍学『甲州流兵法』「信玄流兵法」を編み出した小幡助兵衛景憲(かげのり)である。

 広瀬は天正十年の時点で五十六歳。妻は二十四歳。二人の年がかけ離れていたのは、後添えであったのであろう。広瀬は井伊につけられるとき、家康から美濃守と改めよ、と言いつけられた。

 天正十八年七月、小田原の北条征伐のあと、家康は関八州を与えられ、江戸入りすると井伊直政は高崎(群馬県高崎市)で十二万石を与えられ、広瀬は千五百石取りの身分になった。

男子に恵まれず、中野助大夫の二男左馬助(さまのすけ)を養子にもらい、娘と一緒にさせた。

 直政は慶長五年(一八〇〇)九月の関ケ原の役の戦功で、加増六万石、計十八万石で近江佐和山城(滋賀県彦根市)へ入った。

 中一年おいた七年、直政は関ケ原の役で受けた鉄砲疵がもとで亡くなり、長男の直滋が跡を継ぎ、直滋は八年八月、彦根城の築城にとりかかった。

 慶長十九年(1642)と、翌元和元年の冬・夏の大坂の役では、その前に郷左衛門は病死しており、跡を継いだ左馬助が御旗奉行として、病弱の直滋に代わって出馬した庶弟の直孝に従がって出陣した。左馬前は夏の陣で戦死し、直政はのちに遺児に五百石の加増を与え、家禄は二千石となった。「家伝書」を提出したのは、郷左衛門の曾孫の主殿であった。

 

家老に出世した足軽大将

 

 二千石取りは広瀬の他。脇 内記と西山隼人の二人で、ついで内藤五郎左衛門の千五百石。大久保新右衛門の千四百石。以ドは五百石、四百石、三百石、最低は三人扶持であった。

 脇 内記の祖父叉市郎は甲州中尾村(山梨県一宮町)の出身で、

叔母は足軽大将本郷八郎右衛門の妻であった。本郷は板垣信方(のぶかた)の子で信濃(長野県)諏訪郡代であった弥次郎が、軍令を無視したことで信玄の怒りをかい、呼び戻されて府中の長延寺(ちょうえんじ)に幽閉されると、独断で斬ってすて板垣を断家にした人物。

 

叉市郎は駿河先方衆の脇善兵衛の養子に出され脇を名乗ったが、天目山{山梨県大和村}で勝頼とともに戦って戦死した、片手千人斬りで勇名を馳せた土屋惣三の配下であった。惣三の妻は駿河先方衆の岡部丹波守の嬢で惣三は、勝頼にしたがって落ち延びる際、妻と二歳の平八郎を叉市郎に預け、駿河の実家へ行かせた。その後惣三の妻は再婚したが、平八郎は岡郡家で育てられた。

ある日家康が鷹狩りの帰り、清見寺(せいけんじ=静岡県清水市)で休息したとき、平八郎は岡部のはからいで、茶を運ぶ役をつとめた。子供ながら礼儀正しい立ち居振舞いが家康の目にとまり、惣三の遺児と知ると家康は甲州出身の側室阿茶の局に養育させ、成人すると取り立てた。

 のちの四万五千石土浦藩主(茨城県土浦市)で、寛文五年(二八

六万ト二月から、延宝七年(二八七九)四月まで、約十四年間具申を務めた止屋数直である。

 

話を戻すと叉市郎ははじめ、七百二十石をあてがわれ高崎では足軽大将に取り立てられた。長久手・小田原・関ケ原・大坂冬・夏の陣の諸戦で、目覚ましい働きを見せた。

 直孝は元和三年に二十五万石の大名に出世すると、四年、五年と続けて家臣の加増を行った。叉市郎も五百石の加増が二年続けてあり二千石となり、家老と御旗奉行を命じられた。

叉市郎は武田旧臣の出世頭の一人であった。

 

直孝お気に入りの西山内蔵丞

 

西山内蔵承。の曾祖父、祖父の一門は西山党といわれた竜王(現、甲斐市)の豪族であった。

 一族の筆頭は西山重右衛門で、西山宗蔵と西山八兵衛とともに、武田直参衆(使番)を務め、西山金蔵と西山市介は、足軽大将横田備中守の配下であった。

 重右衛門は旗本に取り立てられ、信玄流兵法を家康に伝授、慶長十九年、七十七歳で亡くなった。

 内蔵丞は、元和四年(一六一八)十七歳の時、直孝の小姓に取り立てられ四百石を給された。参勤交代の都度御小納戸役をつとめ、寛永四年(一六二七)、二百石の加増があり、その後御用人役になり千石となった。

 直孝は万治二年(一六五九)亡くなったが、その前直澄(三代)に、内蔵丞に千石加増するように、と遺言したので家禄は二千石となり、内蔵丞の没後は子の隼人が継ぎ、隼人は御歩行支配となっている。

 

山本勘介の末流は医者

 

 山本勘介の末流であると申し立てた、山本元叔の曾祖父は山本閑斎といい、天正四年(一五七六)生まれで、寛文三年(一六六三)八十八歳で亡くなった。医者の施薬院三雲宗伯に弟子入りし、外科はオランダ人の医師から伝授されたという。

 京都で医者をやっていたが亡くなり、子の元叔が跡を継ぎ医者をやっていたが、縁戚の内藤五郎左衛門を頼って彦根へやってきた。

 五郎左衛門の父は保科筑前守といい、信玄・勝頼に仕えた上野箕輪城主(群馬県箕郷町)内藤修理亮昌豊の養子になり、内藤を名乗った。

昌豊は長篠の合戦で戦死し、子の昌月が跡を継いだ。天正十年、武田が滅亡すると昌月は北条氏邦に従った。五郎左衛門は牢人となり諸国を放浪していたが、大坂冬の陣が起こると大坂へ駆けつけ、直孝に目通りを願い、陣借りを願い出た。

 陣借りとは井伊の陣の一つを借りて、合戦をすることである。五郎左衛門は夏の陣にも駆けつけ、冬・夏ともに目覚ましい働きを見せたので、直孝は元和二年(一六一六)、牢人分として千石で召し抱えた。ついで五百石の加増があり家臣の列に加えられた。五郎左衛門が直孝に元叔のことを耳にいれると、七十俵六人扶持で召し抱えになった。

 時代は下がり、明暦二年(一六五六)かねてから病弱であった直滋は、熱海(静岡県熱海市)へ湯治に行くことになり、元叔が主治医として御供を命じられた。十二月、元叔は加増があり百石となった。中一年おいて万治元年(一六五八)閏十二月、直滋は藩主を返上、出家して愛知郡百済寺へ入った。

 翌二年、直孝が亡くなり直滋の弟の直澄が跡を繕いだ。直澄が出府すると元叔も御供を命じられ、五十石の加増があり二百石となった。子の元能は寛文十二年(一六七二)二十俵を与えられた。

 延宝四年(一六七六)正月、直澄は亡くなり、甥の直興が二月、四代藩主となると、延宝七年(一六七六)元能は江戸上屋敷詰めを命じられ、七十俵六人扶持となった。

 天和元年(一六八一)十二月、駿河田中城主(静岡県藤枝市)の酒井忠能(ただやす)が甥の酒井忠挙(ただたか)の事件にからみ、籠居の身でありながら、勝手に江戸へ出府した罪を問われ改易、井伊家へお預けとなった際、元叔は一行の列の医師として加わり、甲州街道を西へ中山道と合流する、信濃下諏訪(長野県下諏訪町)まで送って江戸へ戻り、江戸詰めとなった。

 翌二年、元叔は病死し二百石は元能に与えられた。ところが不幸は重なり、元能は翌三年九月病死した。山本家は元他の弟の元真が繕ぐことになったが、家禄は御合力米二十俵に減額された。

 それから五年後の元禄元年(一六八八)し、長男は祖父の元叔を襲名、山本家をついだが、その年九月、三人扶持を給する沙汰があった。一人扶持は一日五合の割で米を下さるということである。元叔は家を繕いだが、年少であったので医師としては認められず、三人扶持に減額されたのであろう。

 百年の聞に武田家臣の末裔たちに浮沈はあったが、家康から広瀬左馬之肋と石原主膳とともに、武田百十四人の取り締りに当るように、と申しつけられた孕石(はらみいし)備前守は、千石を与えられた。その後家督を総領(氏名欠)に譲り隠居する

と、隠居料として五百石与えられ、御旗奉行を命じられた。

大坂夏の陣の五月七日の激戦で討ち死にした。

 備前守の隠居料五百石は次男の叉七郎に与えられ、承応三年(一六五四)十月、鉄砲足軽三十人組頭を命じられたが、叉七郎は四年後の万治元年(一六五八)に病死した。長男は九歳であった。少年ではあるが、十一月相続を認められ、父の名を襲名して、子孫は存続した。他は省略するが、武田家臣の後裔は団結心に富み、高禄取りも多く家臣団の中でも勢力は強かったようである。

 元禄の末といわれているが、彦根城の廊下橋ですれ違った、武田家臣の後裔の藤田某と、近江出身の内山某が、ささいなことから目論となり、双方加勢が出て刃傷騒ぎになり、関東出身の家老木俣清左衛門と、関西出身の家老沢村角左衛門が駆けつけ止めに入ったが、二人は絶命した。喧嘩両成敗で断

家となるところだが、幕府から家中取り締りよろしからず、とにらまれるのを恐れ内山だけ追放、藤田はなんのおとがめもなく、内々に処理されたという。不公平な裁きだが、武田方の勢力が強かった顕れであろうといわれている。

 






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最終更新日  2021年11月03日 17時30分08秒
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