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2021年11月05日
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カテゴリ:武田信玄資料室

武田信玄 生誕・卒去及び遺骸の所在地の謎

 









 武田信玄の父信虎が福島氏を破ったのは、妙法寺記にある永正十七年が正確で、甲陽軍鑑の大永元年は誤謬であるとは言うまでもない。それ故、信玄の生誕も永正十七年とするのが正当であるが、未だ信玄の享年について確証を得ないから、即断を下すことは出来ぬ。但し、友仙本といふ高野山過去帳に行年五十三歳の文があるが、友仙本には疑問の箇所が多いので、またこれも信じ難い。 

また恵林寺所蔵の天正玄公佛事法語といふ書物は、信玄葬送当日の諸名僧の香語を載録しているものであるが、その中にも亦享齢に言及しているものが無い。その他の諸書に五十三とあるのは、みな軍鑑に依って推算したに過ぎぬ。そして永正・大永の両説があって一致せぬのに苦心して、大永元年信玄生誕の日は、たまたま永正十七年福島戦勝の月日にあたっているのだと推断したものであろう。この説は非常に巧であるが、畢竟臆測に過ぎない。要するに、その享年の確証を得ぬ上は、容易に臆断することは出来ない。(田中義成博士。史學雑誌第四編による。)

武田信玄の幼名

武田信玄の幼名は、妙法寺記に依れば「太郎」となっているが、甲陽軍鑑には勝千代とあって、その生日に父信虎が駿河の福島と戦ったのでこう名づけたとある。しかし勝千代は穴山梅雪父子の幼名である。

甲州南巨摩郡副居村内藤憲學所蔵の文書に。

    袖判(穴山信友の花押)

勝千代きとうとして、ゆわま(岩間)の惣領分の内の手作を、田貳たん神田につけ候、能々まつりいたすべき者也、依如件

    天文十一年正口刀一日 下山二之宮へ

右の勝千代は即ち梅雪信君の幼名であって、信友は信君の父である。また信君の子は武田勝千代と称したが、(勝頼滅亡した後、信君は武田氏を称した。それは自ら武田の正統を承けるといふ趣意らしい。)

その天正十一年より十五年に至るまでの文書は、南巨摩郡の諸村に多く傅わっている。また勝千代は天文十五年に死んだ。(星野恒博士史學夥誌第貳拾八号より)

信玄の死

信玄の死は倣砲傷のためであるといふ。常時の正確な史料と信ぜられている松平記にもこう記してある。この鉄砲に撃たれたという説にも二つある。

一は、野田城中に笛に巧みな伊勢芳林という者があって毎夜笛を吹いていたがその調べが絶妙であったので、また笛を好んでいた信玄が城近くに来てその吹奏を聞いていた。城兵がこれ窺って狙撃したという(文武茶談・武徳編年集成)。

一は、野田の城兵が信玄の許を得て開散する時に、信玄に向って登砲したといふ(松平記)。両説とも常時の傅説であるが、すぐには否定出来ないが、武事記所載の御宿大監物の書中に、

元来玄公懸望于天下一、

胸呑於四海

舌於九河

家名於海内

肋名於後代

襟懐徹骨髄

肺肝

病患忽萌復心不安切也。

是盡倉公華佗術

君臣佐使之薬

業病更不愈追日沈病枕

 

とある。この方がより正確であると思われる。

即ち、信玄は野田の陣中で病にかゝったので、山縣昌景を後にとゞめて退き、病が重って来たので甲州へ戻ろうとして、信州駒場まで来て遂に霞斃れたのである。

時に、外敵ますます威あり、信玄の臨終は懊惱憂悶の中にあった。

また後世、その人物を欽慕の余り、信玄のために多くの墓碑が諸方に建てられているが、その中で最も世に知られているのは、甲斐の恵林寺の墓である。次に大泉寺、京都の妙心寺及び高野山などにある墓である。また甲陽軍鑑などには、信玄の遺骸を諏訪湖底に埋めたと伝える。このように信玄の墳墓も一定せず、遺骸の所在についても諸説ある。

これ等に関して、渡辺世裕博士の考証がある。遺骸を諏訪湖に埋めたという説などは、常時の記録に徴すれば一顧の價値もない。妙心寺や高野山の墳墓はそれを作った理山も自ら明かで、即ち、妙心寺の方は、南化玄興の語録である虚白録及び鉄山宗鈍の法語鉄山録に、信玄の分骨を埋めてこれを祭ったことが見え、また高野山の墓も、金剛峯寺の支院である持明院の古文書によると由来は明らかで、共に供養塔であることが分る。

問題は大泉寺の墓と恵林寺の墓である。

大泉寺は西山梨郡藍沢村岩窪(現甲府市)に在って曹洞宗の禅刹で、信玄の父信虎が大永年中に創建したものである。天桂が開山、二世は信虎の弟の吸江英心であって、その後、歴代の住僧はみな武田氏と縁故のる人であった。寺内に、五輪の石塔が三基ある内、信玄の墓は寺域の北の田圃中に数株の老松欝然たるところにあって、高さ一丈詮の美事な碑石が立てられ、法性院機山信玄之墓と刻してある。

伝説によれば、信玄は天正元年四月十二日、信州駒場野で哭くなった、遺命によって喪を秘し、輛かに土屋右衛門尉の邸中に送り、荼毘に附し、その舊趾に立てたのがこの墓であるといい。甲斐ではこれを遺骨の存在地として今日も信じている人が多い。しかしこれは研究を要する。

信玄は天正元年の初め三河の陣中に病を得て鳳来寺山に引揚げて病を養つたのであるが、漸く日に革らんとしたので、一旦、自身だけ甲斐に引揚げようとして信濃駒場野に至って遂に起たず、卒去したのである。

これを『諸家文書簒』に載せた御宿大監物友綱の筆記したものによると、信玄には敵が多かったので卒去のことが世間に知れると、直に四周の敵が攻めて来ることを恐れたので、卒去に先立って、子勝頼に遺命して三年問は喪を秘せしめ、領内の備を堅固にし防備を最にし、士卒を撫育して一度は遺志を継いで勝頼の上洛せんことを説き諭した。

勝頼は遺命を奉じて、遺骸を密かに甲斐へ送り、躑躅ヶ崎の城中即ち今の武田神社の鎮座の場所にあった一室の塗龍内に納め残したのであると書かれてある。

然るに、信玄卒去の事は早くも上杉謙信、織田信長、徳川家康等の諸将の間には知れ亘ったことは、上杉古文書、吉江文書、赤見文書等によって明らかである。

然し尚信疑半ばしていたので強く甲斐に迫ることもなし得なかった。たとえこれ等が無理押しに追って来たとしても、常時甲斐の勢力は、可なりに強かったので、容易に攻め破ることは出来なかったと思はれる。

かくて先ず無事に三年は経過し、三回忌に当って残してあった塗籠を開いたことは大監物の筆記の内にある。これによって、信玄の遺骸を容れた塗能の内の甕は、春日虎綱、跡部勝資、及びその子美作守によって開かれ、取出されて別に厚い棺に収めて葬儀を営んだことが分る。それで信玄の遺骸を密かに十屋の邸内に送って茶毘に附したという傅説は成立ない筈である。

然るにこの墓について、甲州閻魔塚縁起というものに説明がしてある。それによれば、この塚は、閻魔塚と称してこれを侵すものあれば祟りをなすと永く傅えられて居る。

ところが、安永年中に甲府の代官中井清太夫という者がこれを発掘したが、二三丈の深さの處に石棺があって、その蓋に銘があった。その銘を写し取って後、また元の如くに埋め、江戸幕府に申請して、この地を信玄の墳墓と定めて石を建てたというのである。

しかし、その文詞及び字形から考へてこれは全く後世の偽作であることは明かである。 

なお甲斐國志によれば、慶長、元和の頃小畠勘兵衛景憲が甲斐に来て、諸所に武田家由緒の碑を建てたのであるが、或はこの碑もその時のものでもなからうかと説いている。

景憲は武田家の舊臣で、甲州流の軍学を説き、武田氏の偽書を作ったのは有名なことであるので、更にこの墓に対する懐疑を一層深くせざるを得ない。

また黒川春村はその並山日記に、その墓は好事家の作ったものと断じて居るが尤もな話と思はれる。

恵林寺は有名なる古刹で、臨済宗の専門道場であり、夢窓國師以来由緒深き處である。五山の學僧龍湫周澤、絶海中津、曇芳周應、策彦周良、惟高妙安等の學僧の住んだ寺であって、信玄はこれを妙心寺派の寺と定めて、有名なる彼の快川紹喜を住わした。快川は信玄の尊敬を受け、師と仰がれたのであって、信玄とは親しみが深かった。信玄は存生中に自己の像を作らせてこれを不動尊に擬して寺内に納めしめたが、その像は今なお存在している。

大監物の筆記によれば、天正四年四月十六日、信玄の葬儀を行った時、その下火は実に快川であった。恵林寺に蔵する天正玄公佛事法語によれば、信玄の佛事は、初七日より始めて七廻忌に至るまで、主として快川がこれを営んだのである。また法語の七周忌散説の中に

『奇哉大居士在日、自号恵林寺殿、不歴五十六億七千萬歳、坐龍樹下成等正覚、直為彌勒大士、呼応機山居士即是、彌勒大士即是、彌勒誰辨端的、恵林即是卒陀宮也』

とある。これ等で遺骸は快川によって荼毘にせられ恵林寺に埋葬せられたものと考へるのが妥当であると思はれる。

但し現在信玄の墓である五輪塔は天正九年の兵火に焼けたので常時のものでなくその後に建てたものである。要するに、不動尊を造った信玄の志などに考え合わせると、恵林寺が信玄の墳墓で、遺骸を埋葬した場所であると思う)(中央史壇第拾巻)

 

 






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最終更新日  2021年11月05日 14時35分18秒
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