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2021年11月06日
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カテゴリ:甲斐武田資料室

巨星墜つ……信玄の死と武田家滅亡

 

『歴史研究』武田信玄の謎 8 第447

川口素生氏著(東京都会員)

 一部加筆 山口素堂資料室

 

 元亀三年(一五七二)暮、遠江(静岡県西部)に進撃した信玄は、三方ケ原(浜松市)で徳川・織田の連合軍の一蹴。同国刑部〔おさかべ=静岡県引佐(いなさ)町〕で年を越した。

元亀四年(天正元年)の初め、信玄の本隊は三河野田城(新城市)

に襲い掛かった。やがて、この城を抜いたが、この頃、既に信玄は宿病(しゅくあ)に苛(さいな)まれていた。

元亀三年秋、信玄は宿病の為に吐血。宿病とは「隔(かく、癌か?)」、

「肺肝(はいかん=肺結核)」などと喧伝されるが定かでは無い。

 そして、吐血の事は緘口令(かんこうれい)を敷いたものの、家臣団内に動揺が拡がったらしく、信玄自ら筆を取って完全治癒を公言したが、実際には病状は悪化の一途を辿っていた。

士気、精神的な面でも、越前の朝倉義景が撤兵を開始し、織田信長包囲網の一角が崩れたことに信玄はかつて無い程、落胆していたようである。それを窺わせる手紙が伝えられている。

 人口に膾炙(かいしゃ)している説では、信玄が城方の村松芳林の奏でる笛の音につられて城に接近したところを、鳥井(鳥居)半四郎が狙撃。弾丸を身に受けた信玄は本隊を甲斐に向けて後退させたが、信濃駒場(長野県阿智村駒場)で遂に帰らぬ人となった。駒場の長岳寺には江戸時代に建立された宝箇印塔があり、同寺には信玄に関する展示物もある。

狙撃説の真偽はともかく、信玄の場合、宿病に影武者譚、狙撃譚が絡むのであるから、その死因は曖昧模糊としているというほかはない。さらに、遺骸の埋葬地についても長岳寺、諏訪湖、佐久市の龍雲寺、甲斐の岩窪町、恵林寺、京都の妙心寺などの説が主張されている。

 信玄の死は遺言により三年間、伏せられ、この間は弟の逍逞軒信廉らが影武者をつとめたという。影武者が小田原の北条家からの使者と御簾(みす)越しに対面し、遂にこれを欺き通した話が『甲陽軍鑑』に記されている。

それから九年後の天正十年(一五八二)の年初、信玄の女婿・木曽義昌の離反を皮切りに、織田信長は本格的な甲州征伐、武田攻めを敢行。

 この間、勝頼は対外戦線を縮小し、国力の増強に努め、甲斐武田氏所縁の韮崎の地に新府城を構築して迎撃体勢を整えた。

だが、打ち続く敗報の中で勝頼は城を自焼の上、家族や近臣を伴って東方を目指したが、田野(山梨県大和村)付近で織田方の滝川一益らに捕捉された。抗戦の無益を悟った勝頼や正室(北条氏康の娘)、嫡子・信勝ら家族、近臣はこぞって自刃。ここに新羅三郎義光以来の甲斐武田氏は滅亡を遂げた。

勝頼主従の自刃地には景徳院が建立された。近年は地元の方々の手で供養・顕彰活動が展開されている。

 

武田家再興運動と徳川時代の一族

 

 天正十年の武田家滅亡後、一族・旧臣の中には新しく甲斐の領主となった徳川家康に仕える者があった。信玄の甥で、女婿でもある穴山信君(梅雪)は、系図上のポジションもさることながら、甲斐河内(かわうち)地方に隠然たる勢力を有していたことから、かつての武田家臣団を再編成するには最適任者と目された。しかし、六月の本能寺の変後に発生した一揆のために山城の木津川付近(京田辺市)で落命。家康は武田の名跡が絶えることを惜しみ、その子・勝千代信治(母は信玄の娘・見性院)に武田姓を名乗らせたが、信治も天正十五年に病没。次いで、家康は側室・下山殿に生ませた五男・信吉 (のぶよし)に武田姓を名乗らせ、名跡の再興を企図した。

下山殿は武田一族の秋山虎泰の娘で、この名跡再興は見性院らの支持も得ていたと喧伝されている。武田信吉は常陸水戸藩主(十五万石)に抜擢されたが、二十一歳で無嗣のまま病死。

一族の悲願であった武田家の名跡再興は一旦、ここで頓挫する。

 ところで、信玄の次男・信親(龍宝)は生来盲目であったことから半僧半俗の生活を送っていたが、大正十年の武田家滅亡を耳にして自刃。その遺児・悟道(道快)は大久保長安事件に連座して不遇な時代を経験したが、子孫は元禄時代に武田旧臣筋に当たる幕府側用人(大老格)・柳沢吉保の推薦により高家・旗本に登用された。

ここに武田勝頼主従の自刃から一世紀を経て、武田宗家の名跡が再興されたことになる。他方、信玄の弟・悟実にはじまる川窪家、信玄の子・仁科盛悟の子孫で一時、浦川姓を名乗った武田家、一族の今井家などは旗本に登用され、分家もあって繁栄。さらに、信玄の末子・悟清は姉・お菊御料人(上杉景勝正室)の勧めで米沢藩に仕えた。これら武田一族の各家は、現在まで連綿と続き、御子孫は繁栄されている。

『別冊歴史読本・一族シリーズ』〔特集/武田一族のすべて〕には、御子孫の武田昌悟(高家)、武田茂(米沢藩古、武田忠夫、川窪敬子、今井百合子(以上、旗本)の各氏が、他に得難い一族の秘話を寄稿されている。

 〔付記〕

取材に際して次の方々にお世話になった。記して謝意を表る次第である。

上松町教育委員会・山下生六教育長、浄興寺・月下部裕丈師、大和町教育委員会・太田隆夫教育長、臨川寺・見浦宗山師

 

 

○特集/武田信玄の謎 武田信玄公

 

山田武雄氏著(山梨県会員)

 

『歴史研究』武田信玄の謎 8 第447

 

 一部加筆 山口素堂資料室

 

 武田信玄公は山梨県民追慕の巨樹である。父は武田信虎だが、信虎の治政に怨嵯の声が国中の郷村に溢れてしまった。それまでに信虎には晴信(信玄公)廃嫡の露骨な行動があった。信玄の現実に根ざした堅実な行動は驚異の信州攻略にはじまる。しかも武田信玄は負け戦(いくさ)も教訓として生かすというふうであった。武田信玄は民心にそう国づくりを目ざした。信玄は父との葛藤のなかで人生にもがいた。

 また「五事の備え」を完璧にした。五事とは孫子がいう道・天・地・将・法・の五つである。

すなわち道とは民と上とが心を一にして、道義をもって結び合うこと、

天とは 心陰陽、寒暑などの時を適当に利用すること。

地とは遠近・険易・広狭などの地勢を判断してよくこれを利用し、拠り所とすること。

将とは智・仁・勇・信・厳の五徳兼備の名将賢臣をあげて用いること。

法とは民をして公明正大に法規を遵法させること(上野晴朗氏)。

『甲陽軍艦』を読んでもわかるように信玄はあふれる壮大なロマンとたかい理想をかかげていた。そして自分の行動を天地の心としており、″五分勝ち″を最上とした。

 具体的な業績として軍事専用の道路として棒道(ぼうみち)を整備した。筆者もこの武田の軍道棒道を先年実際歩いてみた。この武田の軍用道路「棒道」は戦国史にあまりにも有名なものである。

 次に武田信玄は甲斐一国全体を城とみなし、狼煙台・山城・軍道などセットで設置した。また厳重な国境警備の古道、九日を置いた。すでに触れたが信玄は民政にすべてをかけ、〈甲州法度之次第〉に着手した。そして目をみはる

大規模な開発事業をおこした。軍事力を支えた背景には田地集中をさける税法が考えられたのである。信玄は水を治むる者は天下を治むと考えた。

 まさに戦国に光る、信玄の遠大な治水策と構想は、今に冠たる信玄堤にみることができる。さらに永正年間から山金採取が本格的におこなわれた。信玄の北信攻略の大動脈は大門嶺口であり、ここから川中島へと進駐する。たがいにメンツをかけての決戦が繰り返された。川中島の原頭に五度も会し、前後十二年間も戦いつづけた両雄が、ついに優劣がつけられなかったというのは、いったいどういうことなのであろう。

 

 上野晴朗氏は次のようにそれを分析している。

 

「戦術的には上杉謙信のほうがはるかに押し気味であったけれども、しかし結果的にみると、武田信玄の政治、外交、民政などの手腕によって、この十二年のあいだに、北信濃のほとんどすべてが、信玄の領国に組みこまれてしまった ところに、この戦いの性格が強くにじんでいるのである」

 

すなわち両雄の考え=信玄、謙信の思想、哲学の違いと分析する。かくて信玄は外交戦で領土を着々広げる。さらに武田太郎義信はついに謀反の企てにはしる。その後信玄はついに戦国最強の軍団をつくり出す。信玄は天下掌握をなかばにして、「三年秘喪」の遺言をのこし墜ちたのである。

 






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最終更新日  2021年11月06日 15時14分03秒
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