2294753 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2021年11月07日
XML
カテゴリ:甲斐武田資料室

  風林火山の栄光と悲惨

 

南条範夫氏著

  『文芸春秋デラックス』文芸春秋社

「乱世の人間像 戦国日本合戦譚」

昭和49年刊

   一部加筆 山梨県歴史文学館

 

元亀三年(一五七二年)十月三日、武田信玄は三万足らずの兵を率いて甲府から出陣した。十日、青崩峠を越えて、信濃から遠江に侵入する。この出陣の目的については、一般に、旗を京師に立てて天下に覇を剔えるため昇あったと解釈されている。

 この時、信玄はその得意とする外交戦略を縦横に駆使して、一応、後顧の憂いをなくし、織田信長包囲の態勢を整えていたようにも見える。

  

  ●三方ケ原

 

彼は、前年の冬、ながらく敵対関係にあった北条氏政と同盟を結び、常陸の佐竹義重とも結んで上杉謙信の動きを抑え、石山の本願寺光佐と連絡して能登・越中・加賀の一向宗徒を動かして上杉を牽制した。

さらに浅井・朝倉両氏と手を握って、信長に対抗させ、京の足利将軍義昭ともひそかに密約を結んで反信長の地盤を固めていたのである。上洛の下拵えは一応充分なようだ。

 だが、はたしてこれで一路上洛が可能であるかと考えてみると、必ずしも然りという答は出てこない。

 第一に、三万足らずの兵力で、これよりはるかに大きい動員力を拵つ信長の反撃を打ち破ることができるかどうか、大きな疑問がある。

 さらに、仮に信長を破って京に入ったとしても、そこに腰を据えて天下に号令できるであろうか。

 上杉勢は必ず、国境を越えて甲州へなだれ込むであろう。北条も指をくわえてそれを見ているはずはない。この当時の同盟などは、いつでも破棄されるものなのだ。

 おそらく、ただちに軍を返して甲州へ戻るほかはなくなるであろう。蔭実に上洛制覇の目的を達するためには、まだまだ準備は不充分であったと見なければなるまい。

 信玄は漸進主義の男である。まず遠江を勢力圏内に収め、三河を跳躍し、その上で織田勢と雌雄を決して、美濃・尾張を手に入れてから、堂々と旗を京にすすめる……という方策をとるであろう。

 として見れば、この元亀三年の出陣は、そのままただちに上洛を意図したものではなく、まず遠江に侵入して、信長の最も有力な一翼である徳川家康に痛打を与え、旧今川領を完全に奪取することを狙ったものと考えるほうが、より妥当ではなかろうか。

 三方ケ原戦後の信玄の行動は、彼の発病とこれにつづく死によって中断されたが、その死に至るまでの行動も、上洛を前提とすると、解しがたい消極性を持っているように見える。

 ともあれ、信玄は袋井・見付に進出し、浜松から出馬してきた家康の前軍を一言坂で打ち破った。家康はただちに浜松城に引揚げている。これは独力で武田勢と戦うことの不利を覚り、信長の援軍を待つつもりだったのだろう。

 信玄はさらに合代島に進み、伜の勝頼を大将として二俣城を攻めさせた。これは浜松の北方二十キロ、天龍川に臨む堅城である。

 徳川方の城将中根正照は力戦し、誠は容易に陥ちなかったが、水の元を断つことによって開城させてしまったので、遠江の地侍の中には、早くも信玄に帰属を申し出るものが相次いだ。

 信玄は二俣城の修築を命じ、依田信守に守らせておいて、十二月二十二日、神増(かんぞう)のあたりで天龍川を渡り、秋葉街道に出て、南の方、浜松に向かった。

 有玉付近で進路を西に転じ、大菩薩から三方ケ原の台地に上り、追分から祝田に向かう。有玉は浜松から約五キロの地点である。なぜそのまま浜根城を攻撃せずに、城から十二キロも離れた祝田に出かのか。

 浜松城は、当時としては非常によく出来た堅城である。これを力攻めにしても容易に抜くことはできない。攻囲長期にわたった時、背後から織田勢に後詰めをされたら、危ないことになるだろう。むしろ、家康を城からおびき出して、野戦を挑んで壊滅させたほうが有利であるーと、信玄は判断したに違いない。

 家康のほうは、二俣誠陥落後、兵力を浜松城に集中し、信長の援軍を待った。 

信長の派遣した援軍、平手沢秀、佐久間信盛は十二月中旬浜松城に入り、水野信之も近く到着の予定である。

 信玄の軍勢が、浜松城を横目に睨んで、追分から祝田へ向かったと分ると、家康は諸将を集めて会議を開いた。

 佐久間・平手ら援軍の将たちは、……信玄は老巧の将であり、兵数はわれをはるかに上廻る。敵が攻撃をしかけてこぬ以上、みだりに戦うべきではない。と論じたが、家康は反対した。

 -先年、信玄が小田原を攻めた時、北条氏政は信玄勢を蓮池門まで乱入さた、ほしいままに武威をふるわせた。これは武門の恥だと世間では言っている。自分は微力だが、敵が城外を揉腐してわがもの顔に踏み通ってゆくのをそのまま黙って見過ごすわけにはゆかない。勝敗は運に任せて、断乎戦うべきだ。

 城内の若い三河武士たちは、主将の説を支持した。

 出陣決定。 家康座下の軍兵八千、援軍三千、合せて一万一千、武田勢の三分の一強である。

圧勝はもとより期待できないが、縦列を作って進む武田勢の中間に楔びを打込んで、痛撃を与えれば、充分に面目は保ち得る。

 

 信玄は、祝田の坂上まで来て停止していた。家康が追尾してくるのを予期してのことである。厚い魚鱗の構えをとる。

 家康は松田近くまで進んでいったが、午後四時ごろになって鵬翼の陣形をとり、一斉に進撃を命じた。

 これは注目すべきことである。

 夕刻近くなって攻撃を始めたのは、戦闘時間をなるべく短くしようとしたのであろう。層の薄い鵬翼の陣形をとったのも、長時間繰返される戦闘を考えず、短時間の急襲決戦を意図したからに違いない。

 戦場となった三方ケ原台地は、浜松の北方にあり、南北十二キロ、東西八キロ、北から南にかけてゆるい傾斜をなしている。その北端で、戦闘が開始された。

 徳川軍の隊形は、右翼が酒井恵次、中央が石川数正、左翼が本多忠勝と平手・佐久間らの援軍、そして後方に家康とその旗本。

 武田方の陣形は、右翼が山県昌景、中央が小山田信茂、左翼が馬場信房、予備隊として武田勝頼と内藤昌豊、その背後に信玄、そして後備が穴山信君(梅雪)。あきらかに徳川方よりも層が厚い。

 戦闘はまず武田方の小山田隊三千と、徳川方の石川隊一千二百との間に開始された。ついで武田の右翼山県隊が加わり、家康の旗本の一部が突出してこれに当り、ついで馬場隊と酒井隊とが衝突して、全面的家康の軍は、城を出て、武田勢の後を追った。全面的な戦いとなった。

『三河物語』や『信長記』によると、武田方では初め足軽に礫(つぶて)を投げさせたと言う。

これは、武田勢に鉄砲がきわめて少なかったことを示している。徳川方にも大した数はなかったらしい。後に記すが、この夜浜松城から武田陣営に夜襲をかけた時、わずか十六挺の鉄砲を持って行ったということが伝えられている。

 三十一歳の青年武将家康は、みすから鞍壷を叩いて呶号(どごう)し命令しながら、戦場を駆けめぐって、勇敢に戦った。

 初めのうちは徳川勢のほうが優勢で、山県隊も小山田隊も三丁余も退却していったほどであったが、勝頼が横合から家康の旗本を切崩したため、全軍混乱に陥った。

 この間、五十二歳の信玄は戦を観望しているのみで泰然として動かず、その旗本も後備隊もまったく動いていない。兵力の差は大きくものを言ったのである。

 家康は旗本を切崩され、敗軍と見ると、馬を紘横に騎り退却を命じた。 総軍、浜松城に向かって走る。

 『改正三河後風土記』は、正確な史料としての価値はあまりないと思われるが、この敗戦の状況を記している部分は面白い。

 

……家康が敗軍の士卒に引揚げを命じていると、馬場隊が横合から突っかかってきた。水野左近とって返して追い払う。左近危うしとみて家康が馬を返して救う。この時、浜松誠から留守役を承っていた夏目正吉が二十五騎ひきつれて馳せつけ、「私が代りに討死しますから、とくとく御縁城あれ」と呼ばわる。

家康が、「おまえを捨て殺しにはできぬ、いっしょに討死しよう」と答えると、夏目は眼を怒らせ、「情なきことを言わるる、大将たる者は後図を策するのが肝要、葉武者同様に働いて討死して何になろうぞ」と、馬の轡をとって城の方に向け、槍の柄で馬の尻を叩けば、馬は一散に浜松城に向かって走る。夏目は十文字の槍をふるって死闘し、部下二十五騎とともに討死、家康はわずか五騎ばかりで敵を追い払いつつ逃げる。

敵一騎、近く狙いって家康を射ようとしたが、天野康景が蹴り落した。さらに、一騎二騎と追いかけてきたが、家康はみすがら矢を放ってその一騎を射落した。高木九助といった者が、法師武者の首を討ちとったのを見ると、家康は、

「なんじは早くその首を浜松の城門へ持ってゆき、信玄の首を討取ったと呼ばわれ」

と言う。九助は馳せて城門に至り、首を高く掲げて、その旨を叫ぶと、敗軍と聞いて動顛していた城中は歓呼の声をあげた。間もなく畔柳門に家康が帰りついた。家康は城門を大きく闘かせ、篝火をたかせ、奥に入って湯漬を三椀まで喰い終ると、高齢をかいて眠ってしまった、云々。

 

家康をあまりに英雄に仕立て上げているが、青年武将の敗軍にもめげない剛気な姿は躍如としている。

 援軍の将平手汎秀も戦死した。

 佐久間信盛は戦いが始まると戦場から離れている。水野信之は戦いに間に合わず、敗戦を知ると岡崎まで逃げた。織田の援軍は、平手以外まったく役に立たなかったのだ。

 家康配下の死者一千余、死者は、頭を武田方に向けて倒れている者はすべてうつむきになっており、浜松城の方を向いて倒れている者はすべて仰向けになっていたと言う。最後まで頑強に戦った証拠である。

 山県・馬場らの隊は浜松城の玄黙口まで攻めてきたが、城門の聞かれているのを見ても、中へは突入しなかった。

 これは当然である。隊を乱して追跡してきたものが、そのまま乱入すれば、皆殺しにあうであろう。

 信玄は城の北方一キロの犀ケ崖の近くまで来て、夜営の陣を張った。犀

ケ崖は三方ケ原台地が水蝕によって亀裂陥没したもので、東西約一キロ、深さ七、八メートルの断崖をなしていた(その一部は今も浜松市内に残って、当時の名残を示している)。

 この夜、大胆にも徳川方の大久保忠世と天野康景とが、銃手十六名を率いて、信玄の本営に夜襲をかけた。

 まさか敗戦の敵が夜襲をかけてくるとは思わなかった。武田方は暗夜に敵の兵力が分らず、大騒動し、犀ケ崖に落ち込んで死傷するもの数を知らずと伝えられているが、これはかなり誇張されたも、のであろう。それに

しても、しぶとい三河武士の闘志には、さすが剛強をもって知られた武田勢も、舌を捲いたに違いない。

 翌朝も城兵の一部が打って出て、小ぜり合いがおこなわれた。

 勝頼を始め、山県・馬場の諸将は、戦勝に乗じて一挙に浜松城を葬り去ることを主張したが、信玄はうなずかなかった。

……この城を落すには少なくとも二十日はかかる。その間に信長が大軍を率いて後詰めをしたら、味方は補給がつづかず苦しくなる。老巧な武将はそう判断し、その日のうちに全軍北へ進み、別邸に移った。信玄は刑邸で年を越した。

 

 翌天正元年(一五七三年)一月、信玄は刑邸を出発して三河に入り、野田城を囲んだ。野田城は豊川の上流、右岸の台地にある小さな城である。城の規模は小さかったが、南北に渓谷を控え、要害堅固であった。守将菅沼定盈はわずか四百の城兵を率いて善戦し、容易に崩しない。

 信玄は本丸と二の丸の間に、西南の方から金掘り人夫を入れて切岸や塀をこわした。甲州の鉱掘技術を利用したのである。二の丸・三の丸の兵は、本丸に遁げ込んだが、抵抗はやまない。

 信玄はさらに東北から本丸の下に金掘り人夫を入れて用水道を断ち切った。水がなくては戦えない。二月十日、菅沼は降伏した。

 二月十六日、信玄は野田から長篠を経て鳳末寺に移った。

 鳳末寺にいつまでいたか、正確には分らない。田口から浪合を経て駒場に移り、四月十二日、ここで死んだ。

 もっとも、これには異論があって、田口で死んだとも、浪合で死んだとも言う。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021年11月07日 13時26分01秒
コメント(0) | コメントを書く
[甲斐武田資料室] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

9/28(土)メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X