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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年11月07日
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カテゴリ:甲斐武田資料室

信玄 死因は肺病の悪化。

 

風林火山の栄光と悲惨 南条範夫氏著

  『文芸春秋デラックス』文芸春秋社

「乱世の人間像 戦国日本合戦譚」

昭和49年刊

   一部加筆 山梨県歴史文学館

 

別郭滞在中から、病臥していたと思われるふしもある。大した用もないのに別邸に永く止まっていたのは病のためだと思われるのだ。

 

信玄の死因について、『菅沼家譜』には、次のように述べている。

 

……野田の城中に笛の名人で村松芳休という者がおり、毎夜笛を吹いた。敵も味方もその妙なる音に聞き惚れた。信玄もそれを聞きに堀端まできていたらしい。鳥居三左衛門という鉄砲の名手、が、毎夜堀端に現われる人物を敵将の一人と見て、鉄砲を射った。すると、武田陣営で、大将が射たれたと叫ぶものがあり、動揺がつづいた。この時、信玄は弾丸に当たったのであり、その傷がもとで死んだのである。……

 はなはだドラマチックな英雄の最期だが、これはあまり信用できない。前から肺を患っていたのが、悪化して死んだと見るほうが自然であろう。

 

 信玄の後は勝頼が嗣いだ。二十八歳である。勝頼はしばらくは大きな動きを見せなかったが、翌天正二年二月、美濃に兵を出し、明智域を陥し、五月下旬、高天神域を囲んだ。城将小笠原長忠は、家康に救援を乞うたが、家康が信長の援軍の来るのを待っている間に、力尽きて城を開いた。

 父の死後、明智城、高天神域と相次いで攻略した勝頼は、すっかり気をよくして、

 ……みなが亡父・信玄の優れた武略を賞めるが、おれだってこのとおり。

 と、大いに自信を持ったようである。そしてこの自信が、老巧な前代からの部将たちの意見を軽視させるようになっていった。

 

長篠の戦い

 

天正三年四月、勝頼は大兵を率いて、長篠城を囲んだ。

 長篠城を守っていたのは奥平貞昌である。貞昌は作手城主として武田氏に属していたが、信玄の死後、家康に通じ、父・貞能とともに作干城を脱出して家康に帰属した。

 家康はこの貞昌の武略を高く買っていたので、長篠城の守備を委ねたのである。

 長篠城は豊川の上流で、寒狭川と大野川とが合流する地点にある。両川

とも川幅は五、六十メートルで、現在は上流にダムができたため、大した水量はないが、当時は相当なものであったらしいことは、後に述べるように鳥屈強右衛門が水中深く潜って脱出したということからでも推察できよう。

 本丸は寒狭川に臨む高さ五十メートルの岸上にあり、北は二の丸に、東は野牛曲輪につづいている。野牛曲輪は大野川・寒狭川の合流点に突出していた。

 三の丸・服部曲輪・瓢丸などの全域城を合せても、大して大きな域ではない。

 勝頼はこの小城を一万五千の兵をもって囲み、五月八日攻撃を開始した。

城兵はわずか五百である。だが将士奥平貞昌は、さきに武田に背いて家康のもとに奔った身であるから、今更再び武田に降伏するわけにはゆかない。死守する以外にないのだ。

 十三日夜、武田勢は瓢(ふくべ)丸を強襲して奪取しようとした。この曲輪は東は大野川の絶壁に面しているが、北は岩上に塀をめぐらせているだけである。武田勢は多くの死傷者を出しながらもこの塀壁を破壊してしまったので、貞昌は守兵を三の丸に引揚げさせた。

 翌十四日、武田勢は野牛曲輪を攻めたが、城兵は勇敢に戦って退ける。

 寄せ手はその後も攻撃を続行し、本丸の西隅に追って、土居に金掘り人夫を入れて大石を掘りくずしたりする。

 城は日に日に危うくなっていく。

 貞昌が、城の囲まれる前から家康に救援を乞うていたことはもちろんだが、家康は例によって信長に出陣を乞うていた。徳川氏独力ではとうてい武田勢に敵しがたいことは明らかであった。

 信長は五月十三日になってやっと岐阜を発し、十四日岡崎に至って家康と会見して軍議をおこなった。

 このころ、長篠城中では、最後の決意が固められていた。城士は、援兵がやってこないことに絶望し、いっそ飛び出して一同華々しく戦死しようと言い出す者もいたが、貞昌は賛成しない。

 ……そのくらいならば城を開き、自分一人が切腹して、城兵の命を助ける。と覚悟しているのだ。

 ……ともかく家康の援軍がどうなっているのか知りたい。数日のうちにでもやってくるものなら、どんなことをしても城を守りつづけよう。援軍の望みがないならば、切腹開城。と決めたが、城を出て岡崎に赴き、家康

のもとに連絡することは容易ではない。城は完全に包囲されているのだ。

 この至難の連絡任務を買って出だのが、鳥居強右衛門である。

 十四日夜半、野牛門を出て急流の中に潜り、渡合から広瀬に達した。ここで川から上がり、雁峰山に登って、無事脱出を報せる合図の狼煙をあげた。

 十五日、岡崎に辿りついて家康と信長とに会い、城中の状況を報せ、一日も早く救援軍を出してもらいたいと訴える。

 信長は承諾した。家康は強右衛門に向かって、自分の軍勢について来るようにと言ったが、強右衛門は早くこの吉報を城中に伝えたいからと、ただちにとって返した。

 その日のうちに、再び雁峰山に行って狼煙を上げて合図した上、城の対岸の篠場野までやってきた時、武田勢に捕えられてしまった。

 勝頼はその勇気に感心して、自分に仕えれば重く用いてやると言い、

……夜があけたら城際に行って城兵を呼び、信長・家康の援軍は来ないと言え。褒賞は望み次第。と訓す。

 強右衛門は一応これを承諾したように見せ、十六日朝、武田勢十名に囲まれて城際に近づいたが、城兵が姿を現わすと、大声をはり上げて、

 ……援軍は、二、三日中に必ず来るぞ、あくまで城を死守せよ。

 と呼ばわった。

 武田勢大いに怒って、城の対岸、川から百メートルばかりの有海原というところで磔にかけて殺した。

 

  ●設楽ケ原

 

九月十八日、信長は野田の原から進んで、設楽郷の極楽寺山に陣を据え、嫡子・信忠はその北方の新御堂山に陣をとる。

 家康は「ころみつ坂」を上って、極楽寺山からニキロの弾正山(高松山)に陣取った。

 信長のこの時の戦略は見事なものである。彼は城を包囲している武田勢を、設楽ケ原におびき出して、ここで決戦をしようとした。

 味方の陣地前面、川路村の連子橋から、森長・浜田まで二十四町(二・五キロ)にわたって、馬防ぎのための防楯をこしらえることを、信長は命じた。

 これはその場で考えついたのではない。始めからそのつもりで、出陣に当って、各兵一入ごとに樹木一本、繩一把を持ってゆくことを命じている。武田の精鋭を誇る騎馬隊の猛撃に対する防衛策として考え出したのであろうが、こうしたところが信長の天才的な点であろう。この楯も二重三重に

構え、ところどころに間を空けて味方の出撃が容易にできるようにしておいた。

 勝頼は信長・家康の大軍来たると知って、十九日、麿下の諸将を集めて軍議を重ねたが、馬場信房、内藤昌豊、山県昌景、穴山信君らはいずれも口を揃えて。

 ……敵は四万に近く、味方は一万五千、このたびは軍を退くが得策。

 と主張した。これに対して跡部大炊劫らは、武田勢はいまだかつて敵を見て逃げたことはない、今退却などすれば天下のそしりを受けるだろう、一戦して勝敗を決すべきだと反対し、若い勝頼はむろん、この積極策に賛成した。

 馬場美濃守信房は最後の案として。

 ……退却が不面目とあれば、遮二無二に攻めて城を陥すがよい。城中の鉄砲は五百にすぎまい。その第一射撃がことごとく命中しても死傷者は五百。第二射以後の乱射を考えても、一千人の兵を損ずるつもりならば城は陥せる。城を陥した上で勝頼様以下の一門が誠に立てこもり、われらは川を渡って敵と対峙して戦い、日を稼ぐならば、信長は軍を撤するほかなくなるであろう。

 と進言したが、勝頼は承知しない。あくまでも決戦をすると主張してゆずらず、馬場以下の老将もやむなくこれに従うことになった。主将と座下の将との意見がまったく相反したまま決戦に移ったことは、何と言っても武田方の士気に好ましからぬ影響を与えたことは否めない。

 五月二十日、明日に予想される決戦を控えての軍議の席上、家康の老臣酒井忠次が、鳶巣山の武田方砦を急襲して、敵の後方撹乱を図ることを建議した。

 信長は、

 -大決戦に左様な小細工は無用。と一蹴したが、軍議終った後、酒井を呼戻し、

 ……おまえの謀はすこぶる妙案だ。皆の前で叱ったのは謀が洩れるのを怖れたからだ。すぐにもおまえの考えどおり奇襲作戦をやれ。

 と命じ、信長の馬廻りの鉄砲隊五百を分ち与えた。酒井は大いに悦び、四千の兵を率いて大野川を渡り、南の深山を迂廻して、二十一日午後八時、鳶巣山の砦を不意打ちした。

 鳶巣砦では守将武田信実以下よく戦い、三たびまで砦を取りつとられつしたが、ついに信実は討死し、武田勢は敗走して行った。砦を占領した酒井勢は、長篠城兵と呼応して、武田方の陣を襲い、大いに苦しめる。

 このころにはすでに、設楽ケ原の主戦場でも、織田・徳川連合軍は、右翼を家康が受持でも、織田・徳川両軍と武田軍の間にすさまじい血戦が行われていた。

 

●連子橋

 

 設楽が原は、二十一日午前六時ごろ、武田方の山縣三郎兵衛昌景の攻撃によって火蓋を着られているが、その時の両者の布陣を見てみると、次の如くである。織田・徳川連合軍は、右翼を家康が受け持ち、大久保忠世、大須賀康高、榊原康正、本多恵勝、石川数正、鳥居元忠らが前面を固める。中央に織田軍。滝川一益、丹羽長秀、羽柴秀吉が第一線に出て、信長は弾正山北部に陣取る。左翼は織田軍の佐久間信盛、水野信元ら、予備隊として織田信忠が御堂山に控えた。織田軍三万、徳川軍八千と言う。

 これに対して武田方は、右翼が馬場信房、土屋昌続(まさつぐ)、一条信龍。中央が武田信豊、小幡信貞、武田信廉、そしてその背後に勝頼。左翼は内藤昌豊で、原昌胤、山縣昌景。予備隊として穴山信君。この布陣は、旧参謀本部の『日本戦史……長篠役」に記すところとは、かなり違うが、高柳光叔寿氏が詳細な考証によって「長篠之戦}に記述されていて、払はこのほうを信頼したい。なお、同書には、当日設楽ケ原の決戦に参加した実際の兵数を、織田勢一万二、三千、徳川勢四、五千、合計一万七、八千、武田方は六千ぐらいだろうと試算している。

 武田方の山県昌景の攻撃開始に対して、連合軍の右翼、すなわち家康の軍が鉄砲を以て防戦して退けた。

 続いて武田勢は連合軍に向かって総攻撃をかけたが、その最も頼みとする騎馬隊は、木柵にはばまれて敵の前線を突破できないし馬が柵の前で右往左往するところを、織田の鉄砲隊が狙い討ちにする。

 豪勇を誇る武田の将たちは、相ついで名もなき足軒の鉄砲に射たれて命を落した。

 信長の鉄砲隊がこの時に見せた速射法もまた、信長の天才的発想によるものであった。

当時の火縄銃は一発射つと、次の玉を打つまでにかなりの時間を必要とする。その間に敵が殺到してくれば二発目は射てなくなる。ところが、信長は三千の鉄砲隊を三組に分ち、第一隊が打ち終わると、第二隊がつづいて発射し、さらに第三隊が発射する。この間に第一隊が二発目の発射準備を完了して、すぐに続けて射つというふうにした。いわば初歩的ながら機関銃的速射を可能ならしめたのだ。

 武田勢はこの鉄砲隊のために、さんざんに苦しめられた。連子橋の南方、柵のないところから突入して、連合軍の側面を衝こうとした山県昌景も、大久保隊の鉄砲にうちすくめられてしまったらしい。

 こうした中にあって馬場信房は、異様な行動をとった。佐久間隊と衝突して、丸山という陣地を占領すると、そこに兵をとどめて木柵の前まで進まなかったのである。

自分は考えるところがあるから、ここに止まる。君たちは進んで手柄を立てよ。と、真田・土屋の諸隊の進むに委せた。

 これは、馬場がこの戦いが敗北に成ることを予想し、自己の部下を温存して、最後の時に出動せしめて主君勝頼の後退を援護しようとしたのだと言われている。

 ともあれ、武田方は相ついで鉄砲の餌食となり、柵を突破することができない。午前六時から午後二時ごろまで、強襲また強襲、将士の死者数を知らず、武田方はついに総崩れとなり、鳳来寺方面に向かって敗走を始めた。

 信長は全軍に総進撃を命ずる。諸隊一斉に柵を出て、敗走する武田勢を追撃する。

満を持していた馬場信房は、決死の兵を率いて戦いに加わり、勝頼の退去を援護したが、勝頼が遠く走り去るのを見届けると、力戦して討死した。

 内藤昌豊もまた、勝頼の退去を見て、討死。山県昌景は、大久保隊と戦って一番先に討死している。武出方の名だたる勇将は、ほとんどこの戦場で命を落した。

勝頼はこの大きな犠牲の下に、わずか数騎を伴って、辛うじて信濃へ脱出し得たのである。

 長篠の役はこうして武田方の惨敗に終っ当然であろう。それはまた、個人の武勇を基礎とする旧式戦法が、集団のチーム・ワークによる新式戦法に敗れたことをも意昧する。古来の東国的武勇を誇る武田騎兵隊は、南蛮の新兵器を用いた足軽隊に翻弄されてしまったのである。

 

  ●天目山

 

天正九年三月二十三日、家康は高天神城を陥した。

 勝報はこれを救援することなく見殺しにした。勝算がなかったからである。わずかに、残っていた武田家の武威に対する畏怖の念は、これでまったく消滅した。領内の部将の離叛の兆候はもはや顕著である。

 

 勝頼はこの年九月、韮崎西北の地に新しく城を築き、これを新府と称して、十二月ここに移った。

 亡き信玄は城砦を構えず、館に住んでいた。戦いは因境の外でおこなうのだから、城を構えて己れを守る必要なしという強烈な自信をもっていたからだ。そしてその一代、まったくその信念どおり、敵を国内に入れなかった。勝頼が城を築いたのは、それだけの自信がなくなったことを示している。

 天正十年二月、信州の木曾義昌が信長に通じて勝頼に叛した。勝頼は二月二日、一万五千の兵を率いて、これを討伐するため諏訪の上原に出陣する。義昌はこれを迎え撃って撃退した。

 信長はただちに武田征伐の軍を発し、連盟者である徳川家康と北条氏政とに援軍の出動を要請する。

 伊奈口から信長・信忠、飛騨口から金森五郎八、関東口から北条氏政、駿河口から徳川家康が、一斉に甲州に向かって進軍を開始した。信長は総大将であるが、督軍の実際は伜・信恵に委ねていたのは、すでに十分の勝算をもっていたからであろう。

 信忠が二月十四日岩村に着陣すると、武田方の支城で降を乞うもの続出する。抵抗も受けることなく進撃して行った。

 この武田家浮沈の大事の時に、武田一族の見せた醜態は、史上あまり類例がない。

 穴山信君は信玄の弟・信玄の子で、勝頼の妹婿であり、駿河江尻城を預けられていたが、いち早く家康に通じ、織田方に内応した。

 武田信豊は信玄の弟・信繁の子で、その子は勝頼の女を貰っているのだが、虚病を構えて軍議に列席せず、信州に逃げていって空しく死んだ。

 武田信綱は信玄の弟、勝頼の叔父であり、防禦の第一線である伊奈郡大高城を守っていたが、織田軍来たるとみるや、諏訪に滞陣中の勝頼に何の挨拶もなく甲州に逃げ還った。

 勝頼は穴山の裏切りを知ると愕いて、諏訪から新府に還ったが、諸将の離叛相次ぐので、ただ唖然とするばかりであった。

 僅かに信州高遠を守る、勝頼の弟、仁科五郎信盛だけは、信忠の開城勧告を一蹴して、大軍を引受けて、三月三日、最後の一兵まで戦って全滅し、武田氏の最後を飾った。

 信忠の軍は諏訪に進んで神社を焼き、高島城、深志城を屠(ほふ)った。

 家康は、裏切者の穴山を案内者として、 三月九日には身延から甲州に入った。

 勝頼は新府の誠に還ったものの、この城はまだ完全に出来上がっていない。ここで 防戦することは不可能と考え、三月三日、城を焼いて、新府を去って行った。

 勝頼の新府減退城の様を、『信長公記』は次のように述べている。

 

三月三日卯の刻(午前六時)、新府の館に火をかけ、近辺の人質がたくさんいたのを焼き殺して退いてゆく。人質たちの泣き叫ぶ声は天にもひびくばかりで、その哀れさは言葉では言いつくせぬほどだ。

去年十二月二十四日古府中(躑躅ケ崎屋形)から新府誠へ、勝頼や簾中御一門が移った時は、金銀をちりばめた輿や馬の鞍も美々しく、隣国の諸将も騎馬をうたせて崇敬し、見物の衆が群をなした。その栄華をほこり日頃簾中深くこもって仮にも人に会うこともなくかしずかれ寵愛された上臈たち、それからいく日も経たないのに、今や同じこの上驀たち。

勝頼の正室、側上臈高畠のおあい、勝頼の伯母、信玄末子の娘、信虎の京上臈の娘、そのほか一門親類の上臈、つきびと、従者すべて二百余人の

うち、馬に乗ったのは二十騎ぐらい。歴々の上臈子供がふみ習わぬ山路を徒歩はだしで、足を紅に染めてゆく落人の哀れさ。目も当てられぬ次第である、云々。

……これからいずこへ、となった時、真田昌幸は上州吾妻へ退去することをすすめ、小山田信茂は郡内岩殿の己れの城に赴いて龍城することをすすめた。勝報が牛山田の意見を採用すると、小山田は、七日、

 ……では、一足先に帰って準備をととのえてお迎えに上がります。と言って去っていったが、九日になっても何の報せもない。人をやって様子をうかがわせると、小山田は笹子峠に兵を配して勝頼が来たら討ちとろうとしているらしい。

 新府を出た時には持分五、六百人もつき従っていたが、こうなるとちりぢりに逃げ去って、残ったものはわずか四十一名と、五十名の女子供ばかりである。

 天目山の田野と言う所の平屋敷に柵をめぐらして、仮の陣屋とした。

 滝川一益がこれを探知して包囲する。

 ・……今はこれまで。と覚悟を決めた勝頼は、五十人の上蔦や子供たちを引寄せて一々剌殺した上、最後勝頼の墓のある景徳院山門の一戦を試みた。

 勝頼の伜・信勝は生年十六歳の美少年であったが、目醒ましく戦って討死、上屋右衛門尉は弓の名手であったが、さんざんに矢を射て敵を爽して戦死。

 勝頼自身も戦いつかれて腹を切り、四十一名ことごとくこれに殉じた。

 勝頼時に三十七歳。

 最期はさすがに立派であったとは言え、強豪一世に鳴った武田氏の最後としては、あまりにも悲惨であったと言わねばなるまい。

 






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最終更新日  2021年11月07日 13時25分03秒
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