2296906 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2021年11月11日
XML
カテゴリ:甲斐武田資料室

武田信玄と騎馬軍団

 

 この記事は、ある月刊雑誌に投稿されたもので、著名な方の寄稿である。

 しかし誤ったり確認されていない記事が多く、小説的内容であり、山梨県の史実とはかけ離れていることを承知していただいて読んでいただきたい・。

 

  風の如く 火の如く

  馬蹄の響きも高らかに

  怒涛の信玄気をつづけた騎馬軍団

  そのヒミツを探れば

  馬産地に適した風土と

馬を愛する人々の姿が浮かびあがる

  

  その濫觴(らんしょう)

 戦国最強と自他ともに認められた、武田騎馬隊の秘密というのは、まずその濫觴から説き起こさねば理解しにくいものがある。

 すなわち、まづ第一に上げられる特色は、甲斐が古代からずば抜けた名馬の産地だったということである。『延喜式』という平安時代の書物をみると、馬を産する紋には、御牧(勅旨牧)と、諸国紋、近都紋の三種があって、そのうち御牧は左右馬寮の直轄のもと、筆頭が甲斐の国で三、次が武蔵で四、その次が信濃で十六、その次が上野で九となり、四力国合わせて三十二ヵ所に置かれていた。

 この御牧から毎年朝廷に納める貢馬は、甲斐六十疋、武蔵五十疋、信濃八十疋、上野五十疋となっている。

 甲斐三御牧というのは

穂坂牧(穂坂・小笠原・上手・朝神)の旧村にまたがり、主として茅ケ岳山麓に展開する)。

柏前牧(高根町内・旧樫山地区にある。地名として柏前牧・南牧ヨセ・北牧ヨセ・野馬平・掛札などがある)。【この記述は、殆ど推測】

真衣野牧(武川村地内・旧牧原村といった)の三ヵ所で、すべて北巨摩郡下に集中している。

このうち穂坂牧がのちに小笠原牧に移行している。

 そもそも御牧というのは、『続日本紀』文武天皇四年三月十七日の条に、

「諸国をして牧地を定め、牛馬を放たしむ」

とあるのが初見であるが、これは馬の貴重性が国家統一が進む過程のなかで、交通と軍事の必然的な需要をうながし、官給の宝として重要視され、その結果は官設の校の整備拡充となり、御牧から貢馬としての駒牽が年中行事化していったのである。

 しかも御紋の筆頭に、甲斐が置かれているというのは、王朝時代、甲斐が大変な名馬の産地としてその名が謳われていたからである。

  甲斐の黒駒井ノ上そだち

    羽は無けれど日に千里

 と、江戸時代にまで民謡に歌われるほど、甲斐の黒駒は一浪千里の名馬としてその名を馳せてきた。

 黒駒が文献に登場するのは、『日本書紀』雄略天皇十三年九月の記録である。木工猪名部真根という者が罪に問われて、まさに死刑に処せられようとしたとき、赦免の勅使が疾風のような甲斐の黒駒に鞍をもつけずに鞭打って刑場にかけつけ、危うく刑の執行をまぬがれたと書かれている。

 この黒駒はさらに聖徳太子の伝説に結びつき、『扶桑略記』に次のように見えている。

三十三代推盾天皇のとき、太子が臣下に命じて善き馬を求めたところ、

甲斐から烏駒といって、体が黒く、四本の足が白い馬が貢献されてきた。

太子は大いに喜び、この烏駒に乗ったところ、

たちまち雲に浮かんで富士山に至り、

信濃にまわって帰ってきたと見えている。

 

 さらに『続日本紀』をみると、

天平三年(七三一)またまた甲斐にすばらしい神馬が誕生した。

甲斐の国司、田辺史広足から聖武天皇に、「黒身にして白き鷲尾……」の神馬が献ぜられたのである。

 これが具体的な甲斐の神馬黒駒である。この伝説の背景には、貢馬をめぐる古代の竜馬思想が色濃く漂っているけれども、しかしこれを度外視しては、甲斐が御牧の筆頭に位置づけられている意味も解けないのである。

 また甲斐源氏の発生も、単なる系図からだけでは理解できない内容である。つまりこの名馬を産する伝統の山岳と、丘陵地帯が平安時代の中頃から、武士団が次第に頭角を現わしてくる強力な母体となった。

 要するに、甲斐源氏の祖、新羅三郎義光の前に、その祖父源頼信や、同頼義が甲斐国司に任じられて下向し【実際は、積み犯して配流された】、そのころすでに八ケ岳や茅ケ岳山麓の御牧を傘下に加えはじめていた現実を、考えてみなければならないのである。

 その上に立って、その子義光や義清、清光らが、その地盤の上に立って、次第に御牧を横領、庄園を立て、私牧を経営して意馬の利益を独占していった様子【史実ではない】を読み取る必要がある。

 

武田信玄と騎馬軍団

 こうして鎌倉時代の初頭ころ、その系統をひく安田義定の経営する中牧、小笠原長清の経営する小笠原牧・ハ田牧、加賀美遠光-光朝らによって拓かれた鷹津名牧・岩間牧、南部光行によって拓かれた南部牧・飯野牧など、すべて御牧の流れをうけた牧経営であって、【ここも史料を持たない説】

 

このうち小笠原長清は信濃に、南部先行は奥羽にそれぞれ新天地の私牧を興して、子孫を繁栄させている。

 

馬性を知ること

 

武田信玄の強力な騎馬軍団は、まずこうした甲斐駒や、木曾駒、南部駒などの優秀な駿馬というものが、甲斐源氏五百年の伝統の上に立って、生産され、産馬・育成・調教・乗馬と、夫馬の選別・軍事編制にいたるまで、こと細かに馬の知識を血や肉として日常生活のなかに溶けこませて、生活が成り立っていたところに、まずその価値があることを、知っていてもらわねばならない。

 

 これは明治ころの、山梨県下一の名馬の産地であった、増富村(現須玉町)の古老の回顧談であるが、家々ではかならず馬を飼育していた。それも家の中でである。昔の家は玄関を入ると、どこの家にも馬屋が付設してあった。人間は馬と共同生活で、土間には一斗樽くらいの馬桶がかならず置いてある。大きい家では二

頭は飼っていた。年に一回仔馬(トウネ)をとった。

 当然馬の病気も多かったし、第一に家中に蝿が多くて、よく人間が病気にならなかったものと思うという。それに馬にとっては日常激しい労働が続くのであるから、病死や不慮の怪我などで死ぬ馬も多かった。第一に山の中では峻険な崖道が多かったから、足を踏みはずして、谷へ転落する馬も多かったのだという。

 乗馬はともかく、夫馬は大変な重労働で、よく馬の足が腫れ上がってしまうことがあった。そんなときの治療には、山にはスイカツラ、セキショウという二つの薬草があった。その草を煎じて馬の足を洗ってやったり、冷やしてやるのである。その仕事はたいてい女衆の仕事であった。

セキショウはイチョウランに似ており、またスイカツラは蔓性であるが、煎じると、臭い匂いがあたりに漂った。 これが日常の生活である。

 馬が重い病気に罹ったときは、伯楽(馬医者)を呼び手当てをしてもらった。そのための『馬性の本』などという珍書もあった。馬の病気が怪異な姿で描かれている。たとえば頭・胸・背中・腹・足などの病気で、みんな魔性が取り憑いたと思っている。それで御幣を切って馬の患部をみんなでなでてやったり、その年の干支の方向に祀って難をのがれようとした。それを村人は「送り出す」と呼んでいた。

 また春と秋には「馬ぶせ」という行事もあった。それでどこの村落にも共有の 「馬ぶせ場」という施設があった。馬の四ツ足をしばって、馬をねかせて馬の毒血を採るのである。労働がすぎると、馬の足が腫れ上がってどうにも動かなくなってしまう。そこで静脈から上手に毒血を絞り出す。これは経験豊から伯楽でなければできないが、明治ころからは、注射針で抜きとるようになった。

 

合戦場では、馬の気つけ薬に「馬の息合」というものがあった。戦闘につづく戦闘で、へばった馬の息を整えさせるために呑ませたのである。これにはいろいろの秘伝があったが、米の粉に梅干しと、氷砂糖を粉末にして練り、丸薬にして呑ませるのが広く知られていた。

 『甲陽軍鑑』などにみると、人間の傷の治療に馬の糞を水にとかして、それを煎じて呑ませるといった治療法がのせられている。こういった日常生活の常識が、すくなくとも昭和初年まで、馬を飼育する農村には深く浸透していたのである。

 戦国の馬との共同生活は、このように昭和初年までその風習が伝統となっていた。いまは昔語りとなってしまったが、旧家の庭先や常口に、踏石もしくは乗石と呼ばれる、ひと抱えほどの自然石が据えられているのをよく見かけた。完全軍装の武士が乗馬のとき、その石を踏台にしたのである。

 こういうなに気ない風景が、ごく自然にいとなまれ、戦国を支えていたのである。だから馬体の匂い、草いきれ、奔馬の群が怒濤となって疾駆し、敵に襲いかかることばかり想像して、戦国のロマンを掻き立てられても、現実はそんな甘いものではないのである。

 「おのおの馬を飼いたるや……」の心境の中に、万感の思いがあることを知ってもらわねばならないのである。

 

乗馬の割り当て

 

戦国時代に入って武田騎馬隊の組織は、武田信虎の率いる軍団が濫觴(らんしょう)である。

ただ注意しなければならないのは、信虎の時代はまだ出陣兵力の一騎というのは、信玄時代の複数(四人から五人)と違って、あくまで軍役を課した知行取りの一騎(一人)だけの集計人数であったことである。

 つまり、旗本の編制もまだ小規模で、地方武士は衆あるいは党と呼ばれ、地域ごとにまとまった集団の武士がおり、その丁人一入を、つまり騎馬武者といったのである。

 津金党(津金衆)、小尾党(小尾衆)、大村党(大村衆)、辻党(辻衆)、野呂党(野呂衆)、駒井党(駒井衆)など、一騎合衆として党を結成していた。やや時代が経って、武川衆とか九一色衆とか御岳衆などといった、新しい編制も生まれてきた。

 旗本(足軽隊)を意味するものに、足白とか、足衆という表現があった。『妙法寺記』永正十七年(一五二〇)六月の条に、「上意ノ足衆」という表現がみられる。つまり武田信虎直属の足軽隊とみてよいであろう。(中略)

  馬を使っての合戦の方法も、仕組みも、武田信虎の時代と信玄の時代では、ずいぷんと大きな開きがあった。信虎が甲斐の有力国人層を武力で従えていたころ、永正年間(一五〇四~二七)、西郡大井信達を上野の椿城に攻めたときがあった。このとき信虎の騎馬隊が、城の外濠にあたる深田(泥田)に馬が足をとられて、信虎軍が苦戦におちいったと見えている。

 同じころ、油川信恵の拠点となった中道往還の勝山城をみても、そのまわりは堀というよりも泥田で、こういう泥田で騎馬武者が足をとられて立往生してしまう姿が多かったのである。また馬が足をとられるのは、冬の降雪とか、深霜などでも同じような結果となった。八ヶ岳から北信濃に向かう軍道は霜柱が深く、信じられないくらい、馬の足が地中にめりこむ。

 こういう経験の積み重ねと、失敗、基礎条件の検討などから、足白は足軽として再編制され、騎馬隊もまた再編をうけて、次第に陣備の形がととのえられていった。

 

『甲陽軍鑑』品第十七をみると、信玄最盛期の武田家臣団の総人数、いわゆる可動兵力が、次のようにつけたてられている。

  騎兵数あわせて   九千百二十一騎

  信玄直属の旗本足軽 八百八十四人

  寄親に属する足軽  五千四百八十九人

   合計総兵力    五万一千九百七十八入

 

この場合一騎の人数というのは、三人もしくは四人で見積る場合があるが、これによれば、信玄は約三万三千から五万二千人くらいの動員態勢をとることができた。

 このうち騎兵、旗本、寄親というのが、知行地をもらって軍役を奉仕する人々で、旗本の足軽と寄親に属する足軽は、給米(現代の給料にあたる)をもらっている、小者、中間、悴者、徒若党たちの群である。

 

長野県の『陽霊寺文書』によると、武田兵庫助信実にあたえた元亀二年(一五七一)の軍役状をみると、三百九十七貫三百五十文の知行地に対して、軍役奉仕の割り当ては二十八人、そのうち乗馬三騎、長柄の槍三本、持槍五木、鉄砲五挺、弓三張、旗三本となっている。これを知行高で割ると、知行十貫につき、〇・七人の割合となる。

 

騎馬隊の役目

 

 さて、いざ出陣命令が出ると、知行者は軍役をつとめるために、あらかじめ課せられた右の人数を引き連れて参陣するのである。とくに騎馬武者の場合は、いわゆる綺羅を飾るといって、甲立者、具足、面頬、手蓋、咽輪、脛楯、指物をかならず着けるよう軍法で定められていた。  

軍役者はまた、馬の食糧も割当てで持っていかねばならない。百貨の知行にヌカ二十俵、ワラ二十把が規準である。だが、この馬の飼料をいちいち自家から運搬していたのでは、わずらわしいし、且つワラなどはかさばる。そこで戦場の沿道で買い調えるが、沿道の農村地帯でも需要が大きいから、道端にヌカやワラを

積み上げて売りさばく光景もみられた。

 そんなところから、軍道というものも専用の道が必要になってくる。より遠く、最短距離というだけではない。道幅も馬三頭が並んで疾駆できるだけの幅が必要である。しかも車道の要所、要所には、路次のいたるところに、竹藪とか、かくし牧とか、鍛冶屋、武具職人などが配されていて、現代風にいうなれば、軍事用高遠道のパーキングエリアが設置されていたのである。

 つまり「いざ、出陣……」の号令が出て、甲府を発った信玄の軍団が、この棒道を通過するたびに、その路次に配されていた村人達により、非常用の竹槍とか、鉄砲の玉よけの竹束などがつくられて、差し出されたり、あるいは急病の馬の交換やら、武具の応急修理までして、軍団の通過に支障のないよう心が配られていたわけである。

 とくに馬の場合は非常にデリケートな動物で、病気になったり、調子をこわす馬も多い。そのため兵姑基地はその配盧には充分意がつくされていた。

 疾風怒濤の武田軍団の底知れない強さの秘密は、実はその辺にあったといえよう。

 

 騎馬軍団の一騎というのは、前出のように信虎の時代までは、単騎を標準とするが、信玄の時代は三人かち四人の小者、悴者が付くのが普通となる。それがさらに采配をまかされた士隊将の下に配属されるので、陣備はより合理的に、且つ複雑になった。

 それを示す比較的古い史料に、にしむら博物館の「川中島合戦図・布陣図」というのがある。江戸初期の作例であるので、厳密な意味での高い史料とはいえないが、とくに陣備(布陣図)の方は史料的に価値が高い。

いわゆる前備、中備、本陣、後備が明瞭に描かれていて、徒武者は長柄の槍(約五・四m)、短柄の槍、弓、鉄砲を横一列に並べて、その仕組みは充分に訓練された足軽隊であることがわかる。

 『甲陽軍鑑』などによると、武田軍団の戦法は、騎馬隊の突撃の前に足軽が石礫をさかんに投げると書かれているが、おそらく川中島での野戦の経験を積うちに、弓、鉄砲をまじえたこういう陣形が、戦端を開く基礎になっていったのであろう。

 

 さて問題の騎馬隊の配置であるが、主力はやはり、足軽隊の後方に横一列から両端が前方に向かって湾曲し、突撃にあたって敵を押しつつむ陣形をとっている。中備も後備も大体同じで、本陣だけが旗本隊の槍を主力に布陣し、弓、鉄砲、騎馬武者が入り組んで配されている。この布陣の基本形は、一般に鵬翼の陣形と

呼ばれるものである。

 信玄の戦法はこの絵屏風のようなものばかりではない。敵の陣形に応じていろいろに形を変えている。要するに戦場の地形、気候の状態まで鋭敏に判断して、敵の裏をかく戦術を取るのである。

たとえば陣形には、魚鱗の陣形、蜂矢の陣形、雁行の陣形、長蛇の陣形、督月の陣形、こうやくの陣形など代表的であるが、謙信がこころみた車懸りの陣形というのも有名である。ただ車懸りは捨て身の戦法で、本陣の謙信も単騎で斬り込んでくるほど、家臣団の犠牲をしいるが、武田軍団はどんなに乱れても本陣体勢を崩さないのが本領で、また特色の一つであった。

 そこへいくと織田信長は、敗軍となるとあとさきかまわず、自分だけ逃げ帰ってしまった例があり、総大将の意識が信玄とでは雲泥の差があった。

 信玄は上田原や、戸石崩れの敗け軍でも、本陣をくずさず、陣備を立て直すことに面目をかけており、そこから有名な五分勝ちの理念が生まれているのである。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021年11月11日 18時46分35秒
コメント(0) | コメントを書く
[甲斐武田資料室] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

9/28(土)メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X