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2021年11月13日
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カテゴリ:松尾芭蕉資料室

 シリ-ズ 俳諧雑学講座&芭蕉
引用 『日本随筆』   〔年代不順〕

 蓼太(りょうた)  【大田南畝集】 
 杉田望一(ぼういち)  【大田南畝集】 

 はせを  【改元旅行】
 北村季吟
 芭蕉庵桃青翁賛  【大田南畝集】
 誹諧の誹の字  【田宮仲宣 東子】
 誹諧の発句  【田宮仲宣 東子】
 俳言  【鳴呼矣草】
 俳諧の体  【鳴呼矣草】
 選  【鳴呼矣草】

 蓼太(りょうた)  【大田南畝集】 


 (雅量) 雪中庵蓼太といえる誹諧師は、横山町に住めり。明和九年(1772)二月
の江戸大火に、薬鑵(やかん)に白湯(さゆ)を入れて、文台一つ持ちて、深川の六間堀要津寺の中の庵にのがれて、
   緋桜をわすれて青き柳かな 緋桜(ひざくら)
 という発句をなし、火事羽織着て見舞い来し人に句を乞いて、百韻を満てて夜をあかせしとぞ。この蓼太、かって酒徳利を携えてわが牛込の宿りを訪いし時、高き名の響きは四方にわきいでて赤ら赤らと子供まで知るといえる戯歌(ざれうた)を添えたりき。

 杉田望一(ぼういち)  【大田南畝集】 

 (賞誉補) 杉本(田)望一は、勢州山田の人にて、誹諧をよくす。望一臨終の遺書とて、山田中村忠太夫の家に蔵す。その筆のはこびなかな盲人とは見えず、かた小俣何がしの君の家に、短冊一葉あり。是またその筆意、盲人の手跡とはかって見えずとなん。

 はせを (幻住庵) 【改元旅行】

 (略) 膳所の城のき壁遙に見えしが、ようようちかくなりもて行くに、左の方の野道に「兼平塚へ三丁」と記(しる)せり。今井四郎が、粟津の原にて戦い死せしもこの所なりと思うに、涙もとどまらず。また国分寺薬師道あり。芭蕉の翁がすみし幻住庵もこのほとりならんとゆかしく、行く行く膳所の城門を入れば、右に湖水見え渡りて、江戸高縄(高輪)の大木戸にうち出でたらん心地ぞする。ここにも八大龍王の宮あり。左のかたに義仲寺あり、聞きしにも似ずあさまなる所にして、門を入れば左の堂あり。木曾殿の像を安置す。堂の前に墓あり「木曾義仲墓」と彫りて、前なる石燈に「奉寄進徳音院殿墓前」としるせり。この墓の右に芭蕉墓並び立てり。石燈に「元禄十三庚辰正月十二日崎陽素行敬立」と彫りしは、翁の七回忌の年立てしなるべし。
 その墓の後ろに幻住庵をうつして、庭に一もとの椎の木あり。その向かいに芭蕉堂あり。翁の像を置けり。門の内の右の方に草庵の如きもの、是れ義仲寺なり。この寺はもと巴御前の結べ庵なれば、古へは戸巴寺といひしが、弘安(1278~1288)ころより義仲寺と呼べり。縁起には記せり。義仲墓の傍らに松あり。兼平手向けの花松という。なべて墓には樒(しきみ)手向くれど、ここには松を手向くるとなん。これは木曾殿の遺骸(なきがら)を松のもとに埋めて、その松の枝を手向け兼平が事によれるなりとぞ。
 木曾殿の位牌には「徳音院殿義山宣公大居士」としるし、その傍らに兼平の位牌をならべて、「岸照道大居士、元暦元年辰朱正月二十一日」と記せりとなん。この寺の縁に、其角が書ける「芭蕉庵終焉記または手向けの発句集など出して置きて、人の求むる便とす。
 すべてこのさま、大磯の鴨立庵に似通いて、かれはこゆるぎの磯を後ろにし、これは丸鳰(にお)の海を前にす。云々

 北村季吟

 北村季吟の墓は、池の端茅町正慶寺にあり。昔年ゆきてみし事あり。素の墓に、
花もみつほととぎすをもまちいでつこの世後の世おもふこよなき
  宝永二年六月十五日 八十二歳卒
 と彫り付けたり。このうた辞世の歌にはあらず。しかれども、季吟翁『疏儀荘の記』の末に、
 なお日ながき折は、鬼子母のおはす曹司谷(雑司ヶ谷)も遠からず、護国寺の大非者(だいひざ)のみまへにも、ただはひわたるほどなれど、老のあゆみのなおちかければ、新長谷寺にもうでて、不動尊の堂下より、西南にかたぶく日影に杖たてて、時知らぬ富士の白雪をながめ、千町(ちまち)田面(たのま)のみどりになびく風に涼みて、しばらくいきをのべつ。かくて、

 八十年来筆硯間 逍遥歌苑老心閑
 一望士嶺千秋雪 雲帯清風往又還
初かりのいなばにおつる声はあれどうれし田面になき郭公
花もみつほととぎすをも待ちいでつこの世の世思に事なき

 となんよみて疏儀荘に帰れば、日くれぬ。宵過ぎて月松の上にさし出てあきらけく、ここにはきょうみし花の色もみえず。鳥の声聞こえず。かの桐火桶の余薫、あるかなきかにものの端にとどまれり。宝永二年五月初(はじめ)つかた法印希吟口にまかせふんでにまます(以上文)

 芭蕉庵桃青翁賛  【大田南畝集】

 身は芭蕉葉のひろきに居て、風流の細きにたどり、心は風雲の思ひたちて、花鳥の情けうかる、僧歟俗歟 はた隠者歟 このこの一箇の俳諧師。

 誹諧の誹の字  【田宮仲宣 東子】

 誹諧の誹の字、人篇の俳の字を書事、甚可然(しかるべ)からずと。夫誹諧の字は、随書の侯白伝に見へたり。今おしなべて明板の史漢を伝へ読んで、なまこざかしき者、俳の字に改めたり。盖歴史は皆明朝にて改めしに、随書ばかりは改ざりしと也。既にぞ随唐の頃、遣唐使または遊学の往来有て、稍字法(ややじほう)も彼の国の例を用らるる事多し。
 古今集の誹諧と云に、言篇を書れしこと斯くのごとし。唐朝には正字、俗字、通字の三を混じ用ひらたり。干祿字書を見るべし。言偏の誹の字は出所正し。私に人篇の俳諧と云字、用ふる事有まじきこと也。後世鳴呼の者有て、古今集の誹の字をも人篇に書き改まじきにもあらず。是唐以前の書を見よ。と或る人の仰せたれき。

 誹諧の発句  【田宮仲宣 東子】

 誹諧の発句をする徒、歳旦、歳暮の句を披露せんと、標題に両節吟、或いは除元吟などと、吟の字を書するは、忌まわしき字例なり。楽府明辨云、吁嗟慨歌悲憂深思以伸其欝曰吟(ああがいかひいうしんしそのうつをのぶるをもってぎんいふ)。又屈氏が漁父の辞に澤畔吟とあれば、歳首には遣ふまじき字例なるべし。

 俳言  【鳴呼矣草】

 今時俳諧者流、俳言とて新規流行言葉、不当に手爾波(てには)を用ゆること、奇を好み却ってふしくれだち、和歌連歌などの歌謡の訳に遠ざかるは拙く、道に差(たがふ)といわんか。兎角昔よりあり来たることよろし。されば和歌連歌に、流行といふことなきを見つべし。語呂のふしくれだつとは、東花坊が十論にも、畠山左衛門佐(すけ)は歴々の諸侯なれど、一転して山畠の助佐衛門といへば、小作水呑み百姓なりと云しがごとし。言葉手爾波を正しく遣ひたし。なるほど小兒の習ふ商売往来を転じて往来商売といはば、三度飛脚か雲助かとおもはるべし。奇異の言葉は遣わぬこそ。

 俳諧の体  【鳴呼矣草】

 俳諧の蕉門の徒に、付合の体を備えたは、野波、越人の両人を巧者とす。この両人の体を学がよしとかや。
 故ばせを一世の間、両吟の付合は、野波か越人なたでなかりしとなり。 兎角この両人の風体よろしと、ばせをもいはれしとかや。今の蕉門の俳徒これおいはず、己が勝手にあしきにや。

 寂しみ  【鳴呼矣草】

 俳諧者流寂しみと云処を旨とし諭す。いかなる故にや。市中交易の域にくらす腸(はらわた)無理に寂しさを絞り出(いで)さししむ。それ定家の卿哀れにさびしくは云う出でよし、兎角にぎはしくはなやかに目出度和哥こそあらまほしとて詠み給ふ。
花見んとよそほひ車さくらにむれあそふ諸人
 となん被仰けるとかや。光廣の卿も面白がらす素人芸なりと被仰しとなり。

 選  【鳴呼矣草】

 選は作より難しとかや。また閲は机上ん塵を拂ふと、古よりいえり。いかなれば、順評とて、初心の人の句を批判するや、于鱗(うりん)が唐詩の選に於けるや、作よりも難しと、人々これを称すれば、他の句の点評憚るべきことなり。

 (この講座は継続します)






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最終更新日  2021年11月13日 14時41分09秒
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