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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年11月21日
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朝鮮知識人たちの文禄慶長の役

 

『歴史読本』『のぞきみ日本以外史』19916

  上垣外憲一氏著 国際日本文化研究センター助教授

一部加筆 山梨県歴史文学館

 

七年におよぶ秀吉の朝鮮侵略は

数々の残虐行為を呼んだ

この悲惨な戦争を

朝鮮の知識人たちはどう記録したか?

 

日本軍のイメージ

文禄・慶長の役(いわゆる壬辰倭乱)は、前後七年間にわたった、悲惨で無意味な戦争だった。その間に日本軍の働いた残虐行為は、緯国の南部地方では今なお語り継がれている。

 日本車の虐殺が最も激しかったのは、一五九三年、文禄の役の終わりの時期に攻撃した慶尚南道の晋州と、慶長の役に入ってからの全羅街道の市原であった。私の最も親しい韓国の友人はこの晋州が故郷で、二人で旅行をしていて晋州に近づいた時、突然、晋州城における日本軍の虐殺を怒りをこめて話し出したこと

を、今も印象的に思い出す。

 一五九二年にはじまった文禄の役の時、はじめ釜山に上陸した日本軍は破竹の勢いで進撃を続け、第一軍の小西行長は平壌を占領し、第二軍の加藤清正は韓国最北部の成績道に達し、さらに満州(女寡族)の領域にまで侵入したという。

しかしこうした破竹の進撃は物事の一面であり、水軍は韓図南岸の海戦で李舜臣率いる亀甲船艦隊に大敗を喫し、陸上でも日本軍はこの晋州城を攻めながら攻略に失敗していた、この結果、海陸の双方で日本車の全羅道方面への進撃は阻止された。

 やがて平壌までの補給線が長く延びると、この晋州・全羅道方面からのゲリラ的な攻撃が日本の物資輸送を次第に困難に落とし入れることになる。平壌の小西行長軍は同車の総攻撃を受けてソウルまで敗走するが、このソウルでも食糧不足で全軍息も絶え絶えという窮状に追い込まれる。

 この結果、軍奉行の石田三成らの判断で日本車は南部海岸地域まで撤退し、蔚山(ウルサン)、馬山(マサン)、熊川(ウンチョン)などの海岸に城を築いて専守防衛の態勢を取る。つまり晋州城を攻略できなかったことが、明国まで攻め入ろうという秀吉の当初の意図をくじいて、韓国南部を確保するという消極的な形に戦争目的を変更せざるを得なくさせたのである。

 それであるから一五九三年、明国との和平交渉をひかえて、秀吉は晋州城の攻撃を厳命した。時の朝鮮側の首脳の一人、柳成龍の記した『懲皆録』によると、日本車は住民全員を虐殺したという・

 軍民の死者は六万余人にのぼり、牛、馬、鶏、犬さえも遺らなかった。賊は 何一つ残さずに城を毀ち、壕をうめ、井戸をうめ、木を切り倒し、こうして以前の憤りをはらした。(朴鐘鳴訳、東洋文庫)

 さらに一五九七年、明国との和平交渉が破れると、秀吉は今回の戦闘の目的を「赤国一揆の征伐」に置いた。文字のよく読めない秀吉は、朝鮮の地図を地方別に色で塗り分けて戦争の指揮を取っていた。たまたま全羅道が赤く塗られていたので、前回の戦役で征服できなかった「赤国」に彼の憎悪を向けて、この地方の「一揆」を徹底的に懲らしめようとしたのである。

 文禄の役で正規軍がなすすべもなく潰滅してから、朝鮮側の陸上での抵抗はゲリラ的なものが中心となっていたから、全人民の反抗、…一揆…とこれを秀吉が認識したのは当然である。

 ゲリラの討伐は、それを支える人民までを殺しつくさなければできない。かつての主君、信長の一揆討伐が全員虐殺という苛酷な形だったのを思い出したように、全羅道の攻撃にあたって、秀吉は人民すべての虐殺を諸将に命じたのである。

 全羅道の戦役のうち最も残酷な虐殺の行われるのは、古都、南原においてであった。ふたたび柳成龍の『懲皆録』を引用する。

 ……しばらくして門が開き、軍馬がわれ先に門を出た。倭兵は、城外にあって二重、三重にとり囲み、それぞれ要路を守り、やたらと切りつけた。明国軍は首を垂れて刃を受けるのみであった。たまたま月が明るく、脱出できたものは何人もいなかった。

 柳成龍は戦場に実際いたわけではないので、この程度の記録であるが、日本側の記録によると、男女の死体が砂のごとく地上に散乱する、という地獄のような情景がそこに現出したのである。

 この慶長の役で秀吉が、殺した朝鮮人の数を確認するために、その鼻を切り取ることを命じ、集まった鼻を埋葬したものが、耳塚として京都の方広寺に残された。後年、徳川時代に京都を訪問した朝鮮通信使たちも、この耳塚のことは決して忘れようとはしなかった。方広寺で宴を行うという幕府の招待を、通信使側が

色をなして拒絶する、といった場面が演じられたのである。

._

看羊録』に見る日本人像

 

 捕虜となって日本に連行され、抑留中に藤原惺高と親交を結び、日本に朱子学を伝えたことで知られる朝鮮の儒者、姜洸(ヨンハン)の記録、『看羊録』には自身が体験した日本兵の残虐行為の数々が生々しく記

されている。

 姜洸は全羅市道西南部の霊光(ヨングワン)の沖合いで、船で家族と避難中、藤堂高虎の配下の船に捕えられた。彼の幼い息子の竜と妾の娘愛生は、連れていっても仕方がないと思ったのか、日本兵は波打ち際に捨ててしまった。

 稚い竜と妾の娘の愛生は、みぎわに打ち捨てられた。【やがて】満潮につれて浮き上がり、泣き叫ぶ声が耳に痛々しかったが、それもしばらくしてと絶えてしまった。(朴鐘鳴訳、東洋文庫)

 まことに酷薄な仕打ちである。日本軍は、文禄の役の時も大量の捕虜を連行し、長崎などからポルトガル商人などに奴隷として売りさばいていたが、慶長の役の時はもっとひどく、日本軍の後ろには人買い商人がついて歩いていたという。こうして港に集められた人々の悲惨な状況を姜坑は目撃する。

 敵船が数千蝦も海港に充満し、紅白旗が日に照り輝いていた。〔賊船には〕、わが国の男女が大半相雑り、〔船の〕 両側には屍が乱暴にも山のように積まれていた。笑声は天に徹り、海潮も嗚咽するかのようであった。

 姜沆は身分あるものと見られたので、まだましな待遇だったが、最初は脱走を計ったりして、帆柱に縛りつけられる、といったありさまだった。しかし、それよりも苛酷な取り扱いで死んでいった無数の捕虜があったのである。

 姜沆はまず伊予大洲に連行される。彼の六歳になる娘は妻と妻の母がかわるがわる負っていったが、川を渡る時、水中に倒れてしまい、起き上がることができなかった。岸からこれを見ていた日本人が、涙をこぼしながら助け上げてくれた。その日本人は。

  「ああ! 何とひどいことを! 大(太)閤は、この人たちを捕えて来て、一体何をさせようというの

か。どうして天道がないわけがあろうか」

 

と言い、麦こがしとお茶で姜沆の一家をもてなしてくれた、という。姜沆はこの話を紹介して、日本人の中にもこのような心の人がいる、彼らが死を好み、殺すを喜ぶのも、法令が彼らを駆り立てているからである、と付け加えている。

 姜沆は日本人のために、酷い仕打ちを受けたが、日本人もその人間性の根底においては同一なのだ、として、日本人の殺伐な気風を、その社会状況のしからしむるところである、と言うのである。

 のち、京都で姜洸と交際した藤原惺窩は、このような心良き日本人の典型であろう。姜沆はこの戦役が無道なものであり、明と朝鮮が懲罰の軍を起こして日本に攻め込んでもよいとまで言い切っている。姜沆は惺の心づかいによって得た路銀で、ついに帰国することができたのである。

 

秀吉のイメージ

 

 この戦争を多くの反対を押し切って強行した秀吉であるが、それでは朝鮮の書物に記された秀吉の姿はいったいどのようなものであろうか。

 相成龍が記す秀吉の姿は、文禄の役の起こる直前に国交調整のために派遣された朝鮮使節の見聞によっているので、なかなか具体的である。秀吉の容貌の印象も、日本で伝えられているものと、ほぼ一致するものだろう。

 秀吉は、容貌は小さくいやしげで、顔色は黒っぽく、とくにかわった様子はないが、ただ眼光がいささか閃めいて人を射るようであった。(中略)しばらくすると秀吉はっと席を立って中に入ったが、席にいた者は誰も動かなかった。だしぬけに一人の男が幼児を抱いて中から出て来て、堂の中をあちこち歩き廻った。縁先に出て、わが国の楽師を呼び寄せ、盛んに各種の音楽を演奏させて、これに聴き入った。幼児か彼の衣服に小便を洩らした。秀吉は、笑いながら侍者を呼び、声に応じて走り出た一人の女倭にその幼児を渡し、別の衣服に着換えた。すべてまことに手前勝手で、傍に人無きがごとくであった。

 秀吉が朝鮮使節の前に抱いて来た幼児は、夭折した彼の息子、鶴松である。国書を奉呈する、最も重要な外交儀式に、赤ん坊を抱いて来る、というのは、いかにも秀吉らしい、くったくのない自然児ぶりであり、朝鮮側の記録も、必ずしもそれに悪意を抱いているようには見えない。

 しかし秀吉のこうした傍若無人の態度そのものが、朝鮮の儒教社会で重んずる″礼儀″を秀吉がてんから問題にしていないことを示しているのだ。それと、こんなに秀吉の可愛がっていた鶴松を失った絶望のあまり、大陸侵略を思い立った、といわれていることを思いあわせると、この場面はまことに印象的である。

 こうした秀吉の姿を記す柳成龍の態度はまことに冷静で、憎悪でゆがめられたと思われる所は見受けられない。『懲毖縁』の叙述態度も客観的な歴史記述を行う、という姿勢が一貫していて、当時の朝鮮の支配屑の知性の優れていることを実感させてくれる。

 こうした客観的な記述という点では、『看羊録』の姜沆も同様である。しかし、いささか悪意から書いているような部分もある。同書には秀吉の容貌が醜く、背も低く、様子が猿のようだったので、幼名を猿とした、とあり、おおむね日本で語られているのと同様ではあるけれども、目吉丸の日吉神社の使いが猿であるという連想より、だいぶ下卑た言い方である。もっとも姜洸に秀吉の話をして聞かせた日本人が、秀吉に悪意を持っていたために、そんな話になったのかも知れない。

 次に姜涌は、秀吉は生まれた時、手の指が六本あったのを、自分で一本切り落としてしまった、という話も引いている。これもまた日本で広まっていた悪意あるうわさ話であったかもしれない。

 また秀吉が信長に仕えた時、彼に物を買いにやらせると、安い値で貴重なものを買って来るので信長の信任を得た、という。これも今日われわれの知る、秀吉が金勘定に強く、それが出世の要因になった、という話に共通するのであるが、姜沆のその理由の説明は、われわれの知らないたぐいのことである。

 つまり秀吉は信長の歓心を買うために、自分の金を足して買っていた、というのである。これも当時、世間で流れていたが、その後の歴史の中で抹殺されていった、秀吉に関するうわさ話の一種であろう。

 姜沆はこのように秀吉にいささか懇意を持って話を選んでいるようなきらいがある。しかし同時に、別所長治が信長に背いた時、秀吉が単身敵の城中に入って説得を試みた、と彼の豪胆ぶりを伝える逸話も忠実に記している。

明智光秀を敗った山崎の合戦前後の話や、徳川家康と戦った小牧・長久手の戦いをめぐる記述も、なかなか正確である。言葉の通ぜぬ敵地に捕虜として抑留されていた人物としては、優れた情報収集というべきだろう。

 以上のように、文禄・慶長の役に関する朝鮮側の記録は、もちろん日本軍の残虐行為を今日に伝えるものであるが、それを記した朝鮮の知識人の態度は、公正で厳正な歴史を記述しようという学問的態度で一貫している。秀吉の栄光を飾り立てることを第一の目的とする『太閤記』とは大きな違いである。

 歴史叙述においては、文禄・慶長の役は、朝鮮側の勝ちだった、と評してよいであろう。

 










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最終更新日  2021年11月21日 09時19分20秒
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