カテゴリ:柳沢吉保 山梨北杜資料室
史談往来 北から南から 大利根町に残る増上寺の石灯龍
この記事は山梨県の恵林寺を始め多くの神社仏閣に多数設置されている大型石燈籠にまつわる興味のある話である。私も甲府市を始め地域を調べた経過があり、甲府のある寺で、これは西武球場建設に伴い、一基一万五千円で譲り受けたとのことだった。こうした行為は山梨県の社寺歴史にも大きな間違いを産みやすいと思われる。
斎藤健司氏著(埼玉県会員) 月刊『歴史研究』○第542号○2006年7月号 一部加筆 山梨県歴史文学館
【記事】
埼玉県東部利根川に隣接する人口約一万五千人、[たなばたさま]「野菊」「かくれんぼ」などの童謡を作曲した下総院一の生まれ故郷大利根町がある。道目という地区に曹洞宗長栄寺がある。この長栄寺は、昭和五十七年頃に、霊園設立に伴い、新しく立てられた寺である。 この寺の門前に、大きな石燈籠が二基ある。高さは三m以上である。寺の規模には、そぐわない大きさのものである。通勤途上にあったので、見るたびに気になり、調査した。 二基とも、葵の紋が施されていた。灯能に刻まれた文字を読んでみた。右側の石灯寵には、 「奉献石灯寵 壱基/武州増上寺/文昭院殿 尊前/正徳二壬辰年十月十四日/従五位下松平刑鄙劣輔源安通]とあった。 左側の石灯寵には、 「奉献 石灯能 一基/武州/増上寺/文昭院殿 尊前/正徳二壬辰年十月十四日 従 五位下肥後守藤原朝臣本多忠英」とあった。 正確さを期すために、寺の管理者に許可をもらい、拓本を採った、前記の読みで間違いはなかった。 「武州増上寺」とは、いわずもがな東京都港区芝にある「増上寺」のことであり、上野 「寛永寺」とともに、徳川将軍家の菩提寺である。 「文昭院」とは、徳川六代将軍「家宣」の法号である。日付は、「家宣」が死去した日である。年代の西暦は、一七一二年(正徳二年)である。 右の灯寵の奉献者の、「源安通(やすみち)」とは、四代将筆綱吉の時に老中となった、「柳沢吉保」の四男「松平安通」、のちの兵庫県山崎藩藩主[松平隆常(たかつね)]のことである。左の灯能の奉献者の[本多忠英]とは、新潟県黒川藩藩主である。 石灯寵に刻まれた文字を読んだとき、秩父の寺にあった増上寺の石灯龍を思い出した。 その寺とは、鍾乳洞(橋立鍾乳洞)で有名な、秩父札所二十八番石龍山橋立堂である。こ の寺にあった石灯龍は一基で、同じく文昭院のときのもので、奉献者は、栃木県壬生藩藩主 鳥居忠英であった。 秩父の場合は、西武鉄道が石灯龍を寄付したのであった。同じような理由かもしれないと思い、寺の管理者に直接会い、話を聞いた。 すると、親族が西武鉄道に勤務しており、霊園設立に際して、石灯寵を譲り受けたものであるということであった。 西武鉄道と、増上寺の関係を詳しく調べてみた。 西武鉄道傘下のプリンスホテルが、戦後、ホテル建設のため、増上寺の霊廟部分を買収した。そのとき、千基といわれる石灯籠を譲り受け、西武球場周辺に野積みしていたのである。 そして、西武球場建設に際して、希望する寺院に配布したのである。 埼玉県所沢市教育委員会の調査では、関東地方は勿論のこと、新潟、山形、愛知にも配布されたのであった。 現在のところ、 東京都に百六十一基、 埼玉県に三百七十三基、 神奈川県に十五基、 山梨県に三十九基、
などである。 これらの石灯寵は、貴重な歴史史料である。長泉寺の二基の万灯寵を見ても、文字の配置、文字の大きさに違いがある。また、風化のかめか、拓本を採らないと文字が見えない箇所がある。当該教育委員会に知らせるのは勿論だが、保存をどうするか考えていかなければならないのである。 なお、東京神田神保町の古書店「沙羅書房」の古書目録 平成十八年第七二号に文昭院の「銅・石灯寵配置図」が掲載されたので、付記しておく。 ◆筆者紹介=さいとう・けんじ 公立学校教員。埼玉県加須市在住。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年11月23日 07時59分18秒
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