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2021年11月24日
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カテゴリ:甲斐武田資料室
武田信虎が甲斐を去り、駿河の今川家に退隠した。
天文十年 1541 信虎49歳 信玄21歳 信繁12歳
 信虎が甲斐を去り、駿河の今川家に退隠した。しかしその理由については諸説あり、未だに大きな謎である。そこで多くの識者の説を掲出して、謎の解明に近かづいて見たい。
 この事件で触れる資料がない部分は、「信玄(と信虎)が何時決行の計画をしたのか」の箇所である。
1、「武田信玄」井上一次氏著。昭和8年刊。(著者の紹介略)
 (略)多年信虎の行った残虐行為は部下の信頼を失った。今信虎が残虐であったニ三の例を挙げると、通りである。
 1)大永七年に鷹狩りに出た際に農夫の徘徊するのを見て、猟銃で撃ち殺したことがある。
 2)ある時雲雀を捕るために野に出て、その途中で妊婦にあった。信虎は、胎児が腹中にある状態を知りたいと思い、て庭前に連れ帰り、妊婦の腹部を割いてみた。重臣馬場虎定及び山縣虎清はこれを諫言した。信虎はこれを怒り、膝元にあった大脇差を以って、虎貞の肩口から乳まで切り下げた。虎清は驚いてこれを制したが、信虎は更に虎清の脳天から鼻頭まで斬ってしまった。信虎がその後妊婦の腹を割いたことは六、七人にも及んだそうである。
 3)信虎は「日山」(にちざん)と称する大猿を愛していた。小姓頭今井定国が詰番をしていた際に誤ってこれを殺してしまったので、信虎は直ちに定国に切腹を申しつけた。重臣工藤虎豊と内藤虎資(とらすけ)は、定国の死を救う為に諌言したけれども、信虎は聞き入れず切腹を申し付け、二人には閉門を命じた。更に信虎は、定国の子彌太郎を生存せしめ置くときは、事態の紛糾せんことを慮りて彌太郎をも殺すの意があった。定国はこれを察して彌太郎を逃避させ、自らは脇差を背中まで貫いて切腹した。定国の姉小沢は信虎の妾となっていたが、信虎は小沢が彌太郎を逃避せしめたるものと思い、小沢を庭木に吊るして切り殺してしまった。
 4)工藤虎豊、内藤虎資の両人は、これ等の報に接すると共に、閉門中にもかかわらず出仕して諌言をなした。信虎は烈火のごとく怒り、虎清の額より唐竹割りに切り下げ、虎資が制せんと進み寄るを見ると、右の腕を切り落とし、返す刀で左肩より胸部まで斬り下げた。
 かかるような状態であったから」、この上は誰一人諌言するものもなく、信虎の悪業は日々増長するのみであった。老臣穴山・板垣・小山田・飯富等は、到底円満に内治を行うこと難く、延いては武田家の存亡にも影響するものとなし、信虎を廃するを有利と認めた。よって長遠寺の和尚を今川義元の許に遣わし、駿府に招き、留め置かんことを頼み込ませた。義元は、今川家の為にも、この方が有利であると思い、天文十年六月に済臨寺の雪斎和尚を甲府に送り、信虎に隠居して駿府に来たらんことを勧めた。信虎は遂にその勧告を容れ駿府に赴くことになった。また信虎がいよいよ駿河に退隠した際には、夫人は同行しなかったのみならず、その後も遂に行かなかった。これを見ると夫婦間に於いてすら暴虐行為があったかとも思われる。(略)
 2、高野賢彦(よしひこ)氏著「甲州武田一族滅亡記」
**体よく追放されて廃嫡の運命にあった信玄がクーデターを敢行して、遂に信虎を駿府に追放した。その理由はなんであろうか。
 1)(高白斎日記)ー六月十四日に信虎が甲府を御立ちになり、駿府へ御越しになった。甲府では十六日になって皆がその事を知った。
 2)(妙法寺記)ー六月十四日に信玄が親の信虎を駿河に押し越した。あまりに悪行をしたのでこのようになった。されば民百姓、僧侶、男女とも喜び満足すること限りない。
 3)(向岳寺少年代記)ー信虎は平生、悪逆無道であった。国中の人民牛馬畜類ともに愁い悩んできた。しかるに今川義元は信虎の婿なので信虎は六月中旬に駿河に行った。信玄が万民の愁いを救う為に足軽を駿河境に出して帰ってこれないように道を断った。人民は悉く快楽の笑いを浮かべた。
 (略)2)・3)は信虎を悪人として扱っている。  (略)信虎追放の真の理由はなんであろうか。追放劇は信虎の性格、仕置き、所業、災厄などとは何ら関係なく、それは信玄個人の理由、すなわち廃嫡を逃れるための単なる権力闘争である。廃嫡という極度の危険意識から逆に父を追い払ったが、論語を学んでいた信玄としては、どのようにして無血革命を実行するかという一点に脳髄を絞っていたのである。云々
 
3、「定本武田信玄」磯貝正義氏著 昭和52年刊。
  (前文略)要するに信虎の駿河退隠は、
 1)信虎の領国政治の失敗を主要原因とし、
 2)信虎・晴信父子の不和対立から晴信によって断行され、
 3)今川義元が受け入れることで最終的に実現したということになる。
 それにしても信虎は苦労してつくりあげた領国を一朝にして失い、晴信は労せずして甲斐の新しい領主となった。しかも甲斐国の人々からは、簒(さん)奪者として非難されるものではなく救世主として歓喜をもって迎えられた。歴史の明暗を分かつこと、この親子ほど対照的なものは珍しいであろう。云々
 4、「山梨県の歴史」磯貝政義氏、飯田文弥氏共著 昭和48年刊。
 (略)内外の困難な情勢を克服して甲斐の領国統一をなし遂げ、戦国大名の地位を確保した信虎のの功績は確かに大きい。しかし功を急いで無理を重ね、家臣や兵士農民に大きな犠牲を強いる結果となった。その過酷の性格も人心を失う一因であったろう。そのうえ風水害・飢饉・餓死・疫病流行などの天災が容赦なく襲ったが、信虎には民政面の施策に十分取り組む余裕がなかった。
 徴兵と重税と天災とに苦しむ人々は軍役優先、民政無視の政策に怨嗟の声を発し、家臣団もひそかに心を信玄に寄せた。新領主の出現が歓喜をもって迎えられたのも故なしとしない。
 しかし事情はどうあれ、信玄が親をと追放したというのは、親不孝の名は免れない。云々
 よく「甲陽軍艦」を呼んで見ると、信玄が信虎を駿河に退隠させた理由がにじみ出てくる。上記のような感情的なものでなくて、ある面では信虎側からの起案すら感じさせる内容である。また多くの識者が引用している箇所は限られたものであることも解ってきた。記載事項を抜粋してみたので参考にしていただきたい。そこには新たな展開が潜んでいるかも知れない。なお口語訳は教育社版「甲陽軍艦」を参考にさせていただいた。
 甲州源府君武田信虎公の秘蔵の笹鹿葦毛は、足から肩まで四尺八寸八分(148cm)、そのたてがみ姿ははたとえば源頼朝公の生食(いけずき)・摺墨(するずみ)といった駿馬にもひけをとらないと、近国まできこえ名馬なので、鬼鹿毛(おにかげ)と名付けられた。跡継ぎの勝千代殿(信玄)がその鬼鹿モを所望なさいましたが、父の信虎公は,並はずれて悪大将であられましたので、我が子だといっても秘蔵の馬を申し出通りゆずる気持はまったくもたれなかった。そうかといって我が子の所望に対していやだというわけにもいかない。そこでさしあたっての返事に、
「お前はまだ若いからこの名馬は似合わない、来年十四歳で元服に達した時に、先祖伝来の義弘の太刀、左文字の刀脇差、そそいて二十七代までの御旗・楯無の鎧をさしあげよう、と約束をした。勝千代殿はかさねて嘆願される。
 楯無はわが甲斐源氏の祖、新羅三郎の鎧、御旗は同様に八幡太郎義家の旗である。太刀、刀、脇差は先祖伝来のものであるから、家督の相続とともにいただくぺきです。来年の元服といってもそれまでは半人前の身ですから、それらはとても受け継ぐわけにはまいりません。それにひきかえにひきかえ馬は今より乗り習い、一、二年の間には、どの出陣にもなんとか後陣をつとめたい覚悟で所望いたしましたので、以上のような御意向では、とても承知することはでぎない旨を言われる。
 すると信虎公は,とかたならぬ狂気の人で、あられたので、おおいに怒って大声をあげておおせられる、
「家督を譲るも譲らぬもこの胸三寸にあることだ。先祖代Kの物を譲ろうというのに厭だというならば、弟の信繁を武田家の惣領にする、この父の命令をきかない者は追放してやれ」と。
 その時、勝千代殿は諸国を流浪したり、ほかに何か方策を考えても、なまじ父は許すまいと考えて、備前兼光の三尺ニ寸の刀を抜き放ち、使いの者を信虎公のもとへ迫い払わられた。けれども禅宗曹洞宗の賢者、春巴と申す和尚が仲裁にはいられたことにより大事にはいたらなかった。
 その後互いにわだかまりはとけず、ややもすると勝千代殿を信虎公は苦しい目に合わせられた。で、家中の多くの人達は皆、勝千代殿を馬鹿にした感じでみていた。勝千代殿はこの軽んじられた表情を御存知だったが、なおのこと愚かなそしらぬふりで、落馬して背中に土をつけ汚れた姿で信虎公の前に出られたりした。書もむりにまずく書き、水を浴びても深い所でおぼれて助けられ、石や材木の大物を引く場合でも弟の次郎殿は二度引けても、勝千代殿は一度きりでだめだという風であった。何もかも弟より劣る人というわけで、信虎公が勝千代殿をしられるのにならっていたという。
 けれども駿河の今川義元公の肝いりで、勝千代殿は十六歳の三月吉日に元服なされて、信濃守大膳大夫晴信と命ずる旨の勅使が宮中より参った。勅使転法輪三条殿(三条公頼)が甲府へ下向なされ、そのおり勅令をもって三条殿の姫君を晴信へということで、同年七月お輿入れということになった。
 その年の十月は晴信公の初陣であった。敵は海野口といって信濃国に城をもっていた。ここへ信虎公は出陣なさって、敵を追いつめたが城内の兵は多い。平賀の源心法師という者が加勢に来て籠っている。とりわけ大雪が降って攻めにくく、城はとても落ちそうな気配すらない。
 甲ll勢はそこで内々相談して、城内には三千ほどの人数ということなので我攻(無理押しの攻め)ではまずいということになる。味方の兵もよもや七、八千には達していまい。それに今日はすでに十二月二十六日で暮れもせまった。ひとまず甲州へ帰陣されて、来春攻めてはいかがであろうか。敵も大雪であり、年末であり、迫撃するなどということは決して考えられないことですからと申しあげると、信虎公は納得して、では明日早々に引き返そうと決心しておしゃられた。
 そこへ晴信公が参られて、
「それでは私にしんがりを仰せつけられたい」、と所望されたのであった。
 信虎公はそれをお間きになって大いに笑い、
「武田家の不名誉になることを申すものだ。敵は追撃すまいと戦いの巧者がいっているのだ。たといお前にしんがりを申しつけても、それは次郎に仰せつけていただきたい、といってこそ惣領というべきなのだ。次郎がお前の立場ならけっしてそのような望みは申し出まい」
 と。お叱りなされたが、晴信公が非常に強くしんがりを望まれたので、実現した。それではということで、信虎l公は二十七日の暁に先頭にたって軍馬を引かれた。
 晴信公は東道甲州方面へ二十里ほどあとの地にって、いかにも用心したようすで、ようやく三百ばかりの手勢を指揮して、その夜に食を一人あて一二人前ほど作って、早々に出発の準備をする。足袋・脚絆・兵器をそのまま身につけて、馬はよく養い、鞍も置いたままである。寒空なので、明日出発するという時、上戸・下戸ともども油をふるま一枚七ツの時分(午前四時)になったら出かけるつもりだ、と白分で触れてまわった。
 内衆も晴信公が深慮なされているとは知らない。ほんとうに信虎公が悪く言うのもごもっともだ。この宮寒天にどうして敵が迫撃などしてこようかと、部下の人々皆がつぶやくのだった。
 さて七ッの時分に出発したのだったが、甲府へは行かずにとってかえし、あとにしてきた城を攻略し、二十八日の朝に、わずか二百あまりの兵力で、あっさり敵城を陥してしまわれた。城の内では平賀の源心法師が、側近の部下をすでに二十七日には里にかえし、源心だけは一日くつろいで、寒天なので二十八日の昼にでも発つとうとのんびりしていた。他の侍も年越の用意に自分の家に帰り、城に歩武者七、八十人のみであった。
 晴信公の軍勢は、源心をはじめとして番兵を五、六十人討ちとり、功名も何のその、平賀の源心の首だけをここへ持ってて参れと命じて前に置かせ、根小屋に火を放ち、あちこち油断していた侍どもを一からげに、二十、三十人と討ち拾てる。他からの加勢の者は村々におって、この度は一日休息してから帰城しようとしていた矢先だったから、なおのこと戦わずに逃げて行くのだった。その中には剛の武者がかなり居るにはいたけれども、すでに落城し、その上晴信公大将一人とは思わなかった。信虎公が引き返して戦っていると思っているから、一万人におよぶ人数が攻めているのだから何の応戦ふできまいというわけで、女子を連れて逃げるのに急で、山の洞谷に落ちて死ぬ有様であった。まったく晴信公のてがらは古今まれなことだと、他の国の家臣にまで評判がたった。
 ところでこの平賀源心法師は、非常に剛の者で、力も七十人力との評判であった。きっと十人力はあっただろう。四尺二寸ばかりの刀を常に所持している大人
で、数回の激しい戦いで働いてきた強兵である。これを晴信公は初陣で討ちとり手がらをたてたのだ。これが十六歳の時のことである。
 ところがこのことも信虎公がいわれるには、城にそのまま居て使者もたてずに城を格ててきたのは臆病者だと批難されたこともあって、内衆十人のうち八人は晴信公の戦功をほめなかった。時の運だったとし、その上敵方は加勢の者もいなくなり、地元の侍も年とりの用意に城から在所に降りていて、あき城になっていたのだから勝利も当然だと、晴信公の武勲を誉める者はすくなかった。信虎公へのおせじもあって、弟の次郎殿をほめる手前、心jは晴信公を讃しながら、口先ではそしるものばかりであった。弟の次郎殿とは、後に典厩信繁と申された人のことだ。
 とにかく、晴信公は奇特な不思議な魅力をもつ名人であられた。このような武勲をたてられも、おごる気配もなく、そらとぼけた様子で時々駿河の義元へ書信を寄せた。
 次郎殿を惣領に立て自分を嫡子からはずすと信虎公は申されるが、そのおりは義元公だけが頼りですからよろしく、といろいろお頼み申されたのだ。だから義元公もまた欲をおこし、立て信虎公は舅にあたるし、自分より前から剛者として聞こえているから、今は甲州一国であるが我が配下にはとてもなりそうにない。だから晴信をとりたてておけば、確実に我らが統治下に入り、そうなれば子息(今川氏真)の代までも旗下に仕えるかたちになるだろうと考えられて、晴信公と
組んで信虎公を駿河へ招かれたのだ。そのあと晴信公が思いの通りに謀叛をおこして成功なされたわけだが、それには今川義元公の以上のような思惑が働いていたのだ。しかしこの謀叛も信玄殿の御工夫が大きくものをいったのである。
 信虎公次郎殿を惣領にたてたいという意図は、重大な手ちがいであったから、先祖の新羅三郎公のれ憎しみをうけて、あのようにれ御牢人の身(浪人)になられたのかと思われる。前車をくつがえすをみて後車のいましめ(前人の失敗は後人の戒め)といわれるように、勝頼公はこれに学び、まずい判断をけっしてなされぬよう申上げる次第です。
さて信玄公の初陣のしるしに、平賀の源心を石地蔵として祭り、今でも大門峠に碑を建ててある。刀は常に館のお弓の番所に「源心の太刀」として置いてある。
武士はただ剛強なだけでは勝つことかできない。勝利がなければ評判をとって有名にはなれね。信玄公のなされた業績をて本になされず、ただやたらと勝利と名声を望まれるから今度の長篠の戦も失敗し、家老衆を多く失ったのである。これは勝頼公の若気のいたりであり、おのおの方の配慮が浅く誤っていたからである。
 我らが死んだあかつきには、この書物をどうか御覧になっていただきたい。右のような御父子の事は、信虎公が四十五歳で浪人になられた時のことである。 信玄殿は十八歳の時であった。
  天正三年六月吉日    高坂弾正





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最終更新日  2021年11月24日 15時26分58秒
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