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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年11月24日
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カテゴリ:甲斐武田資料室
3、品第十八 信玄公御一代の義大概
 1)天文五年(1536)十一月二十日、信虎公は甲府を出発して信州へ攻勢をかけたとき、信虎公は敵を包囲したのに、軍を解いて退かれたことがある。それは信州の海野口という城で二十四日取り巻いたけれども、大雪のために信虎勢は攻め落とせずに、
 同十二月ニ十六日に甲府へ帰陣し御馬を入れてしまわれた。
 子息晴信公はしんが、りをつとめたとあって、後に残り、甲府へは行かずして海野口へ戻り、その勢三百ばかりで、御父信虎公が八千の軍勢でも落城かなわなかった城を乗っ取りなされた。これ信玄公十六歳の信濃守大膳大夫と申されていた時であったが、初陣の御手柄は以上のごとくであった。ただし戦場での名乗は晴信公といわれた。
 2)天文七年(1538)正月元日に、信虎公は子息の晴信公へ御盃をつかわされず、次男次郎殿(典厩)へ杯をつかわす。それで正月二十日に板垣信形を通じて、信虎公より嫡子晴信公へ仰せがあった。その主旨は、
「太郎殿の事は、駿河の義元公の肝入りで信濃守大膳大夫晴信と名乗られている間に、今後とも義元のもとで、いろいろ教示をうけ、思慮深くなるための作法も身につけるように」
 との事である。晴信公は御返事に、
「とも一かくも信虎公の御意次第の旨申しあげる」
 かさねて飯富兵部の使いで信虎公が申された。その趣旨は、
「この三月より駿河へ暗借公が行って、一、二年は駿河ですべてにわたって学んで来い」
 というもの。そうしている問にも次郎殿を惣領にして、嫡子太郎をながく甲府へは戻らせないおつもりが真意らしい。それが晴信公十八歳の時である。
 3)同年の三月九日に、信虎公が駿河へ出向かれた。
「晴信公を、三月末に駿河からの一報があり次第、寄こされよ」
 ということで、晴信公を甘利備前のところへ預け、次郎殿を御館の御留守に置かれた。
 信虎公は駿河においでだったから、晴信衆は内々のうちに準備した。そうして晴信公は板垣信形、飯富兵部両人の加勢を頼み、信虎公が甲府を御発ちになってから九日目の十七日に逆心、謀叛をおこされた。ことに駿河の義元公と内通しておかれたから、すこしも手間どることもなく終わった。信虎公に御供していった侍衆も、みな人質をとられていたから、信虎公を見すて申して神供の侍衆も皆甲州へ舞い戻った。
 4、甲州韮崎合戦
 1)天文七年(1538)信州の大将衆の諏訪頼重(高島城主)と同国深志の小笠原長時(松本城主)が談合した。
 近国甲州の太郎晴信を、父信虎が見限って、次男を惣領にしょうとしたことから親子の仲が悪くなった。それで晴信は智略をめぐらして、姉むこにあたる今川義元をたのみ、信虎を駿河に追放したと間いている。そのために甲州は父信虎の一勢力と子息晴信方の二つになっている。その上、信虎が信州の領地をすこし治めていたけれども、今は甲州さえも晴信の手にはおえず混乱している。
 ましてや信濃への配慮どころではないので、その地は村上義清に服している。村上勢に従わない者は、みな追い散らされているのだから、この時こそ甲州に攻め入って、小笠原殿が甲州一国を支配なされば、その後を頼重と分割して統治すればよいということになった。云々
 5、品二十三 信濃平沢の大門峠の合戦など。
  
  天文11年三月二十一日の項、
 信虎公の御代に御被官にしてもらった信濃侍大将どもは、今度は大方帰参すると存じています。五年前に晴信公が父信虎公を追い出し為されたときは危なく思いそれぞれが居城に籠もり、(略)また一方では、鬼人のような父信虎を追放してその後信州衆にたびたび打ち勝ち加えて若いにも似合わず、勝てば兜の緒を締めるように手堅いのは、どう考えても普通の人間ではないように見える。
 その上晴信の父信虎にあっては、信州の平賀殿を滅亡させ村上殿も数回痛い目にあわされている。そういう辛い目にあわせた父信虎の老巧にもかかわらず、謀略といいながら何のためらいもなく駿河に追い出し、即座に国の治主を鎮めた。
 6、品三十三信虎公より信玄へ意見(この項は余り紹介されていない) 
 
  永禄六年(1563)正月七日、遠州懸川の円福寺という律僧寺から出家僧が一人やってきて、長坂長閑を通して信玄公に申しあげた。
「神父信虎公は今川氏真と気まずくなられて、春のうちにも都へと御上りなされる。その事につきご信玄公へ信虎殿が仰せられることは、
「小身な侍で信玄公が気をゆるせるしっかりした分別をもつ者を一人えらんで、この憎とともに派遣してほしい」
 由の使いである。そこで日向源藤斎(玄藤斎)を正月十一二日に命じて、その日に甲府を発たせ、遠州懸川の円福寺に向かわせた。源藤斎は十七日に懸川円福寺に着ぎ、その夜に信虎公に御目にかかった。
信虎公の、
「何者ぞ」
 と仰せられるお尋ねに対して源籐斎は自分を名乗る。
「日向大和の親類に当たり、信虎様御浪人の直前、二十六年前は我らは奉公もいたさず、日向大和をたよる、二十歳の頃でありました。元来は信濃が本国の者です」
 と申しあげる。信虎公はそれを聞かれて、
 「たとえ誰であれ信玄がが心安く思っている人物なのだからそれなリの者だろう」と言われて、さらに仰せられた。
「信虎は信玄にだしねかれてから、このような身になり、四十五歳の時から今日まで二十六年間、今川義元に扶持をうけ、今はもう七十になる。義元在命の間は、信虎を甲州に居た時のように応待され、今川家の侍衆も御舅と我らをあがめたものだ。しかし四年前の五月十九日に義元が討死して後は、子息の氏真は我ら
を祖父として遇することがない。去年戊の春までに駿河にいたけれども、夏のうちにこの円福寺へ移っててきているのだ。」
「我らが浪人した次の年、駿府で男子を一人近くにおいた。義元公ばこれをも小舅なみの優遇をされた。騎馬二十騎を与えられ、武田の上野(武田上野介信友)と名乗って当年二十五歳になる。この上野守十六歳の時に生れた子供(武田左衛門佐信光)は、我らが名前をつけたが、信玄にあやかるようにと勝千代とつけたものだ。この子は当年ニ十歳になる。上野父子に居を移してからこの円福寺に去年よりいるが、三浦右衛門という氏真の出頭人が中傷するので、上野父子にまで氏真が声をかけなくなるしまつ、そこで信虎は三日以内には上洛し京都に住むつもりだ。公家の菊亭殿の妹で当年十九歳になる者を義元在生の時に、婚礼をなされたこともあり、菊亭殿は何より信虎の婿だから、これをたよって都へ上る。そこで上野は信玄の弟ともいえるので、この父子をともによろしく配慮するように信玄に伝えてくれ」
 と、源籐斎に言われた。
 その夜半過ぎにみな人が寝静まってから、信虎公は源藤斎を呼んで話された。
「信玄に恨みはあるものの、もう過ぎ去った過。のことだ。信玄には信玄なりに理があったということだ。あの時は、最上の方策として信玄を鍛えたつもりだったが、信虎の見込み違いであった。今、信玄の名高く、信濃もみな手中に収め、飛騨国・上野国までも一、二年のうちには領有する勢いだと聞く。そのこと信虎が祝着いたすことこの上ない日を信玄に伝えてくれ」
 と、仰せられる。源籐斎はかしこまって承知した由を申しあげる。
 そのあと信虎公は言われた。
「今川家は十カ年内外に滅亡するであろう。上方浪人の武藤という、武道の事をすこしもわきまえていないで利害ばかり考えている、義元に命じられて仕えている町人半分、侍半分といった人物がいる。その者は性質がよいということで、氏真の側近としてひかえ、三浦左衛門と名付け、氏真は皆この三浦左衛門のいうがままになっている。十一月、十二月でも右衛門が所望すれば踊りを七月のごとく踊らせ、あるいはまた五月の菖蒲斬り七月末までたたき合わせ、能・猿楽・遊山・月見・花見・歌・茶ノ湯・川漁・舟遊に明け暮れて、氏百姓に刑罰を加えてたたき、永く仕えいる家老や今川一家の侍衆にも頭をあげさせない。ことに遠州の井伊の後をねらって三浦右衛門がのぞみ、今川一の家老朝比奈八兵衛尉(政貞)を文持するので、庶民も侍も氏真をうらんでおるが、これもこの三浦右衛門がなせるしわざだ。この右衛門は義理を知らぬ者と見えて、義元が手をつけられた女子で菊鶴という近習四ノ宮右近の妹を忍んで妻女にした。義元討死の年からこんなありさまだ。しかし皆おそれて氏真に告げる者もいない。こうした事を信虎は氏真へいって聞かせようと思うが、我れらを右衛門は憎んでいるのでそのままだ。右衛門が気に入るというので、名越与七郎という者は、我れらを甲州の武田膏薬入道と名付げたのだ。こんなことも、もとはといえば氏真の心得が悪いからである」。
 「氏真が二十一歳の時、父義元を、旗下の弾正(織田信秀)の子の信長に殺されてすでに四年になる。当年二十六歳と氏真は年を重ねても、父の弔合戦をする意欲もない。氏真も臆病ではないけれども、心がけ悪く情熱がないのだ。西国では大内義隆、関東では上杉憲政、それに今川氏真である。」とくに三河岡崎の城主で、今、家康という当年二十二歳になる将が、義元のおかげで岡崎にいすわっているけれども、氏真を見かぎって、今川を敵とする信長と気脈を通じ、互いに誓書を記して同盟を結んでいる。信長に危機が生ずれば家康が助け、蔵人家康に大事あれば信長が助けるということで、すでに家康は当年五つになる惣領子(信康)を信長の婿にと約束している。初名の元康とひきかえに家康となって四年このかた、三河国をはいかいするのを氏真にも報じ、そこで今川家の年寄を通じて家康に抗弁すると、こう弁解する。
 今川の御恩で岡崎へ帰参しているので、父の広忠より二代にわたりすこしでも今川家に対し無作法であっては罰があたるというもの、ここ三河での小ぜりあいは所領の境をめぐる口論程度である、それに信長と親密なのは、手の内をみすかすふりをしておいて、義元公の弔合戦を氏真公がなされる時の手段とするためであると、家康が弟を人質に渡し、駿河の使者が山中のあたりを行く時分に活動しはじめ、氏真を崇める者どもを次々に斬り、あるいは降伏させるのを、今川家の年寄どもが重視して、氏真公に忠告する。けれども家康の子守役だった酒井雅楽助(正親)という者の配慮のためか、成瀬藤五郎という能弁で利口な侍を一人
三浦右衛門の所につけてあってとりつくろったので、氏真と家康の間はもとに戻ってはいる。
 しかしこのような状態ならば、家康と信長が組んでいるので、三河遠州・駿河二国は家康・信長にとられ、結局は敵の方から今川家を破ることになろう。
 信玄よく深慮して、ともかくも右のニカ国を領有せよ。もしかすれば北条氏康は、男に当るから今川氏真を助けるやもしれぬ。しかし氏康の子息氏政は、信玄の婿であるから、そこの所は信玄もきっと考えるはずだ。以上信玄公へうまく伝えよ」、と、仰せられるのであった。
 そこで源籐斎は、信玄様は万事にわたり御念が入っておられ、口上で申してもいかがかと思われます。信虎様が御一筆したためて下さればと存じます。信虎公は、
「わざわざ文ということならぱ、そなたを呼ぶまでもないのだ。書状は、大事なことには使わないのだから、と言われる。それでは信虎公の御判を一つ押して下さいますならば、それを御日にかけ、証拠にいたして真意を誓って申し上げます。我らは諸国へ御使に参りましたが、信玄公はどのような御策略、吉事の場合でも、御判断のよりどころのないような事はすこしも信用されません」
 というので、そこで信虎公は御直判を日向源籐斎に御渡しなされた。次の日は滞在し、十九日には信虎公は円福寺を御発ちになり上洛された。
源藤斎は二十日に掛川を発ち、安部川を経て二十五日に甲府へ着いた。すぐに信玄公に信虎公の御判を御目にかけ、御報告申しあげた。信玄公はとりあわないようなそぶりで言われるのに、
「信虎公はもう御老体なのでそんな風に言うので、皆いたずら事である。だから今後この事は話題にしてはならぬ」、
 と、機嫌がやや斜めであられた。信玄公は、古事の中に悪事あり、義の中に不義あり、勝利の中に不勝利あり、と考えられていた。以上。
 7、品第三十三 義信の逆心(付)雪隠を山と名付ける
  (この項にも信虎の記載がある)
 永禄七年(1564)七月十五日の夜、燈籠見物ということで太郎義信公は、長坂源五郎、お守役の曾爾周防のたった二名だけをお供に、飯富兵部少輔のところへお出かけになり、夜八ッ時分(午前三時頃)になって、いかにもこっそりとお戻りになった。これをお目付の坂本豊兵衛、横目の荻原備前の何人がよく見て、すぐに翌十六日の朝、信玄公のもとに御報告にあがった。
 飯富二郎兵衛は、信玄公の御太刀を持ち、ふすま障子の陰に控えていたが、御前に出て申しあげる。
「七月はじめから、兵坂沢五郎がお使いとなって、飯宮兵部少輔のもとへ義信公から毎日のように便りを出しておられます。目付、横目の人々から申しあげたあとに、目分からもお伝え申しあげようと思っておりました。こちらの方が、早く申したために、目付、横目がお叱りを受けてはと同情したためであります。
 また、急になさる意味の文面ではなく、戦場においての謀叛のように思われるからであります」
 と、そう言って、二郎兵衛は巾着から、義信公御自筆の飯富兵部に宛てた、
「承諾されたこと嬉しく思う」
 との文面の手紙を取り出し、信玄公のお目にかけた。信玄公は涙を流され。飯富三郎兵衛を御信頼になった。
三郎兵衛は申し上げた。
「兄のことを申しますのは、まことにいかがかとは存じますが、信玄公を打ち奉るなどとは義信公のもってのほかのお考え違いであります。たとえ御父子の間とはいえ、信玄公が太郎殿を虐待され、信虎様がなされたように、他のお子様をとりたてて、太郎殿を退けようとでもされたならば、謀叛とはいえ、少しは道理もございましょう。そうでもないのに、こうしたことを思いたたれるとは、太郎殿は天より見離されたものと思われます。(略)
 8、品二十二 甲信境の瀬沢合戦
 (この項にも信虎の記載が見える)
 天文十一年(1542)
 (略)これを見られて、晴信公が仰せられた。各々方の意見には少しも悪いところはない。しかしながら、今川義元に加勢を願うことは決してしてはならない。
 五年前に父信虎公を追い出すときに、義元に頼んで信虎公を駿河に出し、そのまま駿河に留め置いてあるのは、ひとえに義元の弁舌のはたらきである。義元の意図は、このことを通じて、白分が甲州を踏み鎮めることができると考えている点にあるのだ。その真意は信虎公は舅にあたり、老巧の大将であるから、自分の配下に置くことはできないが、晴信は義元より二歳少ないから、なんとしても家来にしようと考えているはずである。
 そのような義元に加勢を頼むならば、我れ我れは結局義元の家来になってしまうであろう。たとえ加勢を願うにしても、相手から直接出向けとか、人質を出すべきだとか、家老の人々をいくらでもよこすべきだという要求になれば、むこうの配下に商置かれることになる。
 義元は自分より年上である。国も駿河・遠州・三河の三カ国を持ち、さらに尾張の織田弾正信秀(信長の父)らも、駿河へ仕えているのであるから、尾州へも手をのばしているといえよう。さうに北条氏康も、妹を駿河へ人質として差し出している。このような相手に対して加勢をたのんだら、結局自分は義元の旗下になったものと世間から評判される。今後どのような武名をあげようとも、一度は義元の配下にあったものだと、駿河・遠江・三河・尾張の下級武士たちからまでいわれるのは、口惜しいことではないか。
  そのうえ、父信虎公が駿府におられ、父の御さげすみを受けることも無念であるから、駿河からの加勢の件は思いもよらぬことである。
 およそ小田の小兵力をもって、大国大軍に立ち向かうことこそ肝要と聞いている。そのような条件においても、やり方によって勝利を得るのが弓矢の作法というものである。このたびは、信濃から当国へ攻めかかってくるのであるから、あちらはかかる敵、こちらは待つ味方、しかも我れ我れは地元での戦である。敵は五年来たびたび我らと戦って敗れた諏訪、木曾、小笠原、村上の四人、何と申し合わせをしておっても、誰が総大将になるということもできまい。云々
  
 9、品第三十九 信玄が公方へご返状の項
  織田信長の公方への申状
  (前文略)
 1)信玄のことですが、父信虎はすでに八十歳の及ぶ老人となったが、信玄は追放したあと、京都の不便な土地で途方にくれていて、巷で餓えている様子だということは前代未聞のことである。
 2)嫡子太郎を理由もなく牢に入れて鴆毒(ちんどく)で殺したことは、無法この上もない。父を追放し子息を殺し、その外親類の多くの者を討死させたこと。
(後略) 
 
天文十一年 1542 信虎50歳 信玄22歳 信繁13歳





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最終更新日  2021年11月24日 15時31分37秒
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