カテゴリ:歴史さんぽ
念佛とは
『別冊 歴史読本』「日本仏教総覧」
一部加筆 山梨県歴史文学館
この言葉は、一般には「南無阿弥陀仏」と念じ唱えることを指すと見なされているであろう。 しかし、仏教全体を通覧してみると、多くの経典に「念仏」という語句が散見できる。実は念仏は阿弥陀仏の専売特許ではなく多くの仏様に対して用いられる語なのである。その言葉が阿弥陀信仰の興隆と相挨って、専ら阿弥陀仏を念じ称えることと認識されるようになったのである。 念仏とは、その名の通り仏を念ずることである。 従って原意では仏の姿を心に想い浮かべ念じる(観想念仏)という方が近いが、念仏に関する意義付けや概念の中で仏の名を唱える念仏(称名念仏)信仰が興起し、漸次念仏という概念の主流になっていった、と見倣せる。いわゆる浄土教においては両者の内、称名念仏を重んじるが、天台宗における念仏は観想念仏を中心とする傾向にある。 ところで、日本仏教におけるキー・ワードとして念仏を捉える場合、それは言うまでもなく阿弥陀仏の名号を唱える念仏にほかならない。 この阿弥陀念仏を説く経典は、浄土三部経(「浄土思想」「浄土信仰」「阿弥陀信仰」等参照)や『般舟三昧経』等である。この念仏は日本天台宗によって常行三昧の中に取り入れられる。この場合、『般舟三昧経』がその依拠とされるのであるが、同経は念仏による往生を説く経ではなく、浄土三部経とは少しく趣旨を異にするものである。 とにかく、こうして阿弥陀念仏は天台宗中に摂取されるが、未だその全容を現したものとはなっていない。 しかし、その大きなきっかけとなったのが、天台僧の忠心僧都漸悟(九四二~一〇一七)による『往生要集』の出現である。同書は内容的に三つに分けられ得る。 一つは六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)、特に地獄に恐ろしさを説き、そこから離れることを勧める「厭離磁土(おんりえど)」の段。 二つは浄土がいかに素晴らしく楽しい所であるかを説き、そこに行きたいと願い求めることを勧める「欣求(ごんぐ)浄土」の段。 三つは浄土に生まれる方法を説いた「正修念仏」の段である。 この書は、当時の混迷する民衆の多くに大きなインパクトをもって受け入れられ、念仏の大流行を誘発せしめたのである。 そして遂に、院政期に現れた法然(一一三三~一二一二)によって浄土宗が一宗として独立し、念仏信仰の隆盛を決定的にする。 彼の主著『選択(せんちゃく)本願念仏集』ではが説かれる。この専修(せんじゅ)念仏は、これまでの弥陀念仏を更に徹底させたものである。 専修念仏とは、浄土へ往生するために阿弥陀仏の本願力を信じ、念仏以外の行をまじえず、ただひたすらに念仏を修すことである。この単純明決な教えは広く日本中の大衆に迎えられ、念仏は多くの人々の口に唱えられるようになった。 法然の直弟子たちは、師の没後、それぞれに教練を拡大していくのであるが、その過程において各々が少しずつ法然の教えに自己流の解釈を加えていく者も少なくなかった。その中でいくつかの分派を見、念仏の概念規定も少しずつ変化していった。弟子たちの中でも異端視された者の中に親鸞(一一七三~一二六二)がいた。彼は肉食妻帯を公然と行ったが、それは真摯な自己反省と、愚かな自己でさえも阿弥陀仏の慈悲によって救済されるという確固たる信仰心に基づいたものであった。 彼は念仏を信心とも、称名とも、名号とも解釈した。すなわち、阿弥陀仏をたのむ信の一念、信後の報恩行としての称名、衆生に信じさせ称えさせるはたらきの根源である名号そのものを、それぞれ念仏としたのである。 このような流れとは別に、諸国を遊行して民衆に布教を行った聖(遊行者)たちによって、「踊り念仏」が盛んに行われた。空也(九〇三~九七二)や一遍(一二三九~八九)は、その代表的人物である。 このような念仏の隆盛に対し、積極的に批判の矛先を向ける者も多くいた。 その中に法華信仰に基づく題目を広めた日蓮(一二二二~八二)がいる。彼は念仏による極楽往生を批判して、念仏を行ずれば死後には無間地獄(一番ひどい地獄) に堕するであろうとして、「念仏無間」を主張した。 以上のように、念仏の信仰は、日本仏教に様々な展開と影響を示した。そして今なお念仏は多くの人々の口に唱えられている。 (田村完爾) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年11月25日 14時22分45秒
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