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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年12月01日
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カテゴリ:松尾芭蕉資料室
芭蕉終焉記(3)花屋日記(芭蕉翁反故) 


肥後八代 僧文暁著
浪速   花屋庵奇淵校
十月十一日 
朝又また時雨す。思いがけなく、東武の其角きたる。
是は東武の誰彼同伴にて参客の序、
和州・紀州壹打めぐり、泉州より浪華打入りしが、
はからずも師の労りおはすと聞つけ、
そこ此處とたづねまはり、漸にかけつけたり。
直に病床にまゐりて、
皮骨連立し給ひたる體を見まゐらせて、且愁ひ且よろこぶ。
師も見やりたまひたるまでにて、唯々泪ぐみたまふ。
其角も言句なく、さしうつむきゐたりしを、
丈草・去来・支考其外の衆、次の間に招き、
御病性の始終を物がたる。
此夜、夜すがら伽して、
おもひよりし事ども物がたり居たりしに、
亥のときごろより、師、夢のさめたるごとぐ、粥を望みたまふ。
人々嬉しさかぎりなく、次郎兵衛取計ひて、
疾く焚あげてすゝめまゐらす。中かさ椀にて、快くめされけり。
朔日より已来の変事なり。土鍋に残りたるを、
去来椀にうつし入れておしいただき 
  病中のあまりすゝりて冬ごもり   去来
 去来日、趣向を他にもとめず、
有あふことを口ずさみて、師を慰めまゐらせん。
深く案じいら〔一字不明〕と頓に句作りたまへ。
惟然は前夜正秀と二人にて、一ツの蒲団をひつぱりて被りしに、
かなたえひき、こなたえひきて、絡夜寝いらざりければ、
はてはしらじらと夜明けるにぞ、その事を互に笑ひあひて
    
ひつぱりて蒲団に塞きわらひ哉   惟然
    おもひよる夜伽もしたし冬籠    正秀
 一座これをきゝて、いづれもどっと笑いければ、
師(芭蕉)も笑いたまえり。
 人々嬉しさかぎりなく、十日已来の興にぞ有ける。
初しぐれなりければ、空とく晴て日影さしいりたるに、
蠅のおほく日南に群りいたるに、
人々黐(もち)もて蠅をさし取に、上手下手あるを見給いて、
暫く興にいりたまひけれど、大病中のことなれば忽縮たまい、
直に寝所に入りたまう。
支考は、師の発句を滅後に一集せん心願あれど、
此ごろの病苦に苦しみたまうに、見あわせいたりしが、
今日機嫌よきに乗じて申出侍らんと、去来に申たりければ、
去来はかねて師の心中を知りたりし故大いに怒り、
小ざかしき事を申さるゝもの哉、
師は平生名聞らしきこと好み給わず。
今日暫らく快きを見請侍りて、諸人嬉しと思う中に、
御気に逆うこと聞せ申ては、御心を労しめ申す事、奇怪なり。
この後御病床近くにより給うな、早くその座を立ちたまえと、
聲あらゝかに次の間に追立けり。
支考もはからずもの言い出して、
諸子の聞く前面目を失しないしが、行々惟然に打向かい、
我に句あり、そこに書き給えと言いて
    
しかられて次の間に立つ寒さかな  支考
さすが支考なりければ、師も仄かに聞き給いて、可笑しがり給いけり。
国とりて菜飯-----------(不明)    木節
皆子なり-----------------(不明)    乙州
うづくまる薬のもとの寒さかな   丈草
吹井より鶴をまねかむ初しぐれ    其角
 一々惟然吟聲しければ、
師、丈草が句を今一度とのぞみ給いて、
丈草出かされたり。いつ聞いてもさびしをり調べたり。
面白しくと、しわがれし聲をもって誉め給いにけり。
いつに変わりし機嫌の麗しきを喜びけるに、
木節一人愁をいだける様に見えければ、其角その故を問う。
木節云う、病に除中の證と言えるあり。
大病中絶貪なるに俄に食のすゝむことあるは、悪症なり。
死期遠きにあらずといえり。
さはしらず各々さざめき至るに、
夜半ごろよりまた寒熱往来ありて、
夜目ごろより顔色土のごとく見え給い、
暫くは悶乱し人も見しりたまわざりしが、
やゝありて又實性になり給い、
左右に舎羅・呑舟、後よりは次郎兵衛抱きまいらせて介抱し、
程なく夜明ければ十二日なり。
兼ては閉じ籠り給いしが、隔ての障子も襖もとり離させ、
其角・去来・丈草を是えとて向に見給い、
穢れを憚かれば咫尺したまうなと断わり、行水を頼み給う。
木節頻りに制しけれど、しきりにのぞみ給う故、
止むことを得ず、湯を引かせ参らせけり。
座を静かに改め、木節が医術を盡されし事など
都度つどに隠し給い、さて三人の衆を近くに召され、
乙州・正秀を左右にし、支考・惟然に筆をとらせ、
亡き後の事細々と遺言し給う。病苦すこしも見え給わず。
人々奇異の思いをなしけり。
伊賀の遺書は手づから認め給い、
外に京・江戸・美濃・尾張洩れざる様に遺言し終り給うに、
始終は門人中にて筆記す。
次第に聲細り、痰喘にて苦し給いければ、
次郎兵衛素湯にて口を潤し参らせけり。
やゝ有って去来に向い給い、
先頃、實永阿闍梨より路通が事を仰せ有。
其後汝が丈草・乙州等に送りし消息、露霜とは聞捨てず。
併少し意味憚ること有て、雲井の余所に話し侍りぬ。
彼が数年の薪水の労、努々忘れおかず。
我なき跡には、およそに見捨て給まわず、風流交り給へ。
此事たのみ置き侍る。
諸國につたえ給われかしと、言終り給いて餘言なし。
合掌ただしく、観音経聞こえて、微かに聞こえ、
息の通いも遠くなり、申の刻過て、
埋火の温まりの冷めるがごとく、
次郎兵衛が拘き参らせたるに、よりかゝりて
寝入り給いぬと思う程に、
正念にして終り眠りにつき給いけり。
時に元禄七甲戊十月十二日申の中刻、御年五十一歳なり。
 
即刻不浄を清め、白木の長櫃に納まいらせ、
其夜直に川舟にて伏見まで御供し奉る。
其人々には、
其角・去来・丈草・乙州・正秀・木節・惟然・支考
・之道・呑舟・次郎兵衛・以上十一人。
花屋仁左衛門が京へ荷物を送る體にて、
長櫃の前後左右をとりまき、
念佛誦経思い想いに供養し奉る。
八幡を過るころ、夜もしらじらと明はなれけるに、
僧李山の下り給える舟に行逢ければ、
いざとて乗り移り、相ともに儚き物がたりして、
程なく京橋につく。
それより狼だに辺りにかゝり、急ぎに急ぎし程に、
十三日巳の時過ぎには、大津の乙州が宅に入れ奉りけり。
乙州は伏見より先立て急ぎて帰り、
座敷を掃除し清め、沐浴(もくよく)の用意す。
御沐浴は之道・呑舟・次郎兵衛也。
御髪の延びさせ給えば、月代には丈草法師参られけり。
御法衣・浄衣等は、智月と乙州の妻が縫奉る。
浄衣、白衣にて召させ參らすべき筈なるを、翁はいかなる事にや、
兼て茶色の衣装こそよけれと、すべて茶色を召れければ、
智月尼の計らいとして、浄衣も茶色の服にこそせられける。
さて追葬は十四日と決まり、かれこれ日没になりにけり。
 
大坂花屋より支考・惟然が二日に仕出の状、
羅漢寺の僧伊勢に急用有で參るよしを、花屋より知らせければ、
是幸いと頼み遣わしるに、この僧奈良に著たる日より、
痢疾にて歩行かなわず、やむことを得ず奈良に滞る。
それゆえ十一日朝、伊買上野に行人あるを聞つければ、
右の状を仕出しけり。
この状、十二日の暮ごろに上野に届きけり。
土芳・卓袋ひらき見るより大いに驚き、
とる物もとりあへず松尾氏に參りたれば、
これも同時に書状著せりと云。
それより両人は、したためそこそこにして、
子の刻過より、兼て案内しりたる近道にかゝり、
大和の帯解までただいそぎに急ぎけれど、
月入ての事なれば、暗さは暗し、小路の事ゆえ、
提灯も消えぬれば、其夜の明がたに帯解に着く。
相知れる方に暫らく休らいで、したゝめなどし、
是よりくらがり峠を越れば、大坂までは八九里には渦ず。
さらばとて、足にまかせてくらがり峠を越え、
俊徳海道をたゞ急にいそぎ、平野口より御城の南をかけぬけ、
直に久太郎町花屋にかけつけたるは、十三日の暮れ頃なり。
何がなしに、翁の御病気いかにと問いければ、
仁左衛門しかじかと答える。
両人ともに残念申すばかりなく、
さらば葬送になりとも逢い奉らんとて、
又引き返し、八軒屋にかけ行く。
幸ひ出船ありければ、其まゝ飛乗り、
伏見京橋に着きしは夜明け也。直に飛下り狼谷にかゝり、
義仲寺に着きしは、未だ入棺し給わざる前なりければ、
諸子に断わりて、死顔のうるわしきを拝し参らせ、
悲歎かぎりなく、一夜も病床に咫尺せざる事をかき口説きけれど、
まづ因縁の深きことを身にあまり有がたく、
嬉しく焼香につらなりけり。
(土芳・卓袋物語)
 十二日暮
暮れに伏見を出舟したる臥高・昌房・探芝・牝玄・曲翠等は、
その夜何處にて行違いたるやらん、夜明けて大仮に著く。
直に花屋に馳せたるに、諸子御骸を守り奉りて、
のぼり給いぬと聞より、
直にまた十三日の昼船に大坂より引かえし、
その夜酉の刻に伏見に着く。夜半頃に大津に戻る。
(昌房物語)
 
義仲寺眞愚上人、住職なれば導師なり。
三井寺常住院より弟子三人参られ、読経念仏あり。
御入棺はその夜酉の刻なり。
諸門人通夜して、伊賀の一左右をまつ。夜に入りても左右なし。
去来・共角・乙州等評議して、
葬式いよいよ十四日の酉上刻と相究む。
昼のうちより集れる人は雲霞のごとく、
帳に控えたる人凡そ三百人餘。
知る知らぬ近郷より集る老若男女まで惜しみ悲しむ。
時しも小春の半ばにて、しづかに天気晴れ渡り、
月晴朗として湖水の面に輝き渡り、
名にし粟津のまつに吹起るに、無常の嵐かと思われて、
月はおもしろきもの、露は哀なるものといえれど、
折にふれては何かあ哀れ成ものならざらむ。
矢橋の漣の寄する響きも、
愁人のためには胸にせまり泪を添う。
(支考記)
 
  引導香語
雪月魂魄。風花精神。
等閑一句。驚動人天。
嗚呼。
奇哉芭蕉。妙哉芭蕉。
萬里白雲。一輪明月。
五十一年。一字不説。
 
   各捻香
 丈草 其角 去来 李由 曲翆 正秀
 木印 乙州 臥高 惟然 昌房 探芝
 泥足 之道 芝栢 牝玄 尚白 土芳
 卓袋 許六 丹野 風国 野堂 遊刀
野明 角上 胡故 蘇葉 霊椿 素顰
囘鳧 萬里 誐々 這萃 荒雀 楚江
 木枝 朴吹 魚光 支考 
諸国代替不記
 右の外近江国中は申に及ばず、京・大坂・美濃・尾張・伊勢
 その外国々より京などに登り至る諸国の人々、
三世値遇の縁をよろこび、我も我もと香を手向奉る。
その数何百人といふ数しれず。
境内狭ければ、表より入りたる人は裏へぬけ出る様に設え置、
田の刈跡に道をつけゝれば、焼香の人々は全て裏へ抜けるにぞ、
さして騒がしき事もなく、
葬埋終りけるは、子の時過になりにける。
翁かねて遺命の通り、木曾殿の右のかたに埋葬し奉りけり。
 
十月十五日 
去来・其角はじめ、膳所・大津の人々、朝とく詣でして、
先ずとて土かきあげて卵塔をかたどり、幸い塚の後に、
年ふりたる柳あるをそのまゝにし、御名の形見とて、
枯々の芭蕉を一本、兼てこのみ給ひたる茶の木の、
今を盛りなる花とともに移し植えて、竹もて坦結い廻し、
香花を手向け奉りけり。
日のもと広しといへども、生前にその名豊芦原の浪に響き、
其徳芙蓉の絶頂に奴ぶ。
人丸・赤人の昔はいざしらず、
末代の今にしては、實に我翁一人と言うべし。
  芭蕉書簡 松尾半左衛門宛
御先に立候段、疑念に可賛思召候。
如何様とも又右衛門便に被成御年被寄、
御心静に御臨終可被成候。至爰申上事無御座候。
市兵衛・治右衛門殿・意専老初、不残御心得奉頼候。
中にも十左衛門殿・半左殿、右之通に候。
はゞ様、およし、力落し可申候。以上
  十月十目                桃 青
                       〔花押〕
  松尾半左衛門様
芭蕉終焉記(4)花屋日記(芭蕉翁反故) 
肥後八代 僧文暁著
浪速   花屋庵奇淵校
十月十六日
乙州亭に集合して、義仲寺の住持、其外僧徒に禮物、御遺物等の沙汰に及ぶ。
昨夜迄大に御苦労様成候。
さて今日は、先師御遺言之通、
御遺物夫々配分仕度、
其外寺納等之儀申談度、
且また伊賀より一向ニ返書も無之、
至而不審ニ有候、態と人差立申候ニ付、
拙夫一人之名目少し憚存じ候故、
御連名ニ加入申度。是等之儀、及御談合度、
又明後日一七日ニ候條、諸国連中退散無之中、
於御靈前、御追悼俳諧百韻興行仕度。
付而者御終焉之記一章、貴雅諸被成り候、
右條々可申談間、唯今より御出座可被下候。
萬端は面上申上候。以上。
   十月十六日        去 来
  其角英雅 
御書翰拝読。御広之御事でも添候。
此間之御辛労難盡筆頭。
扨とよ今日は、諸君御集会、
先師御遺言之御遺物配分、
且寺納其外之勘定可視成旨、
又伊賀への御文通ニ付、
拙者立合申し候様被仰聞候趣、畏候。
早速馳參可申候得共、
今日は、宿主曲翆子始、臥高、正秀、泥足、同心等。
先師御舊跡の幻桂庵ニ罷越、椎の冬木も見、
御筆蹟之一字一石塔も拝申度、前諾仕置、
則唯今出立仕にて候。乍御不■御宥免可被下候。
御遺物其外寺納等の事は、
乙主人、清風子ニ御談可被成り候。
伊賀への御紙面、拙者御連名可被成旨、
随分御同意仕候。
 
御終焉記之儀被仰聞いかゞ可仕候。
併貴命之事に候故、取懸り見可申候。
御病気最初よりの御様體、貴兄始め、
惟然、支考が覚書、勿論御夜伽の発句等、
御書附御見せ可被成候。
且次郎兵衛日記、共に御見せ可被成り候。
出立早々。以上。
   十月十六日        其角
  去来英雅
十月十七日
乙州亭。
一 眞愚上人        金一両
一 御斎米料        金一両
一 面供養料        金一両
一 御茶湯料        同百匹
一 御弟子親明子      同百匹
一 三井寺常住院御弟子二人 同二百匹
      家来衆三人     銀三両
 御遺物
 一 出山佛一体  御長一寸一分
一 鉄 如意棒一本
  (佛頂和尚より付与 木曾寺に有り、丈草に付与)
一 観音経   小木一部
一 紙縷袈裟  佛頂和尚より付与
一 被風
一 銅鉢    ひと口
一 木硯    堅木にて旅硯也
一 古今集序註 一部
一 百人一首  一部
一 新式    一部
一 奥之細道  一部
一 御笠    一部
一 菅蓑    一被
一 御杖    一本
右紙袈裟ヨリ以下七品は、
兼て惟然に御附與之御約諾の由に候故、
直ニ惟然ニ附與。
一 御頭陀   一
 
 中に、
杜子美詩集、
山家集、
外ニ後猿蓑卜題アリテ、
歌仙三巻、
発句四五十吟程、
外は御書捨てノ反古等入。
別ニ紙ニ包タル布破レ、五寸ニ六寸計、
上包に狭ノ細布ト有、進上清風ト、
又外ニ和歌ノ古短尺二枚、
又松島象潟ノ畫二枚。
右之中、紙ニ包タル、五寸二六寸ノ布切、
並松島象潟之畫、若御支無御座候ハバ、
御形見ニ下拙ニ被仰付可被下候様奉希候、
生涯寶物ニ仕度候。
         去来
十月十八日
元禄七年十月十八日於義仲寺。
    
追善之俳諧
   なきからを笠に隠すや枯尾花  其角
    温石さめて皆氷るこゑ     支考
行灯の外よりしらむ海山に    丈草
    やとはぬ馬士の掾に来てゐる  惟然
つみ捨し市の古木の長みしか   木節
    洗ふたやうな夕立の顔     李由
森の名をほのめかしたる月の影  之道
    野かけの荼の湯鶉待なり    去来
(末略)
態々一人差立候。
盆御平安可被成御座奉恭賀候。
皆共無異羅在候、御安意可被下候。
然者、尊師於大阪御大病之處、
支考、惟然より両度申候得共、
御返書無御座。遠路故紙面遅着と察候。
兎角仕候中、拙者共も羅下り、加御保養候得共。
御養生不被為相叶、去十二日終ニ御遷化被游候。
旅中之儀ニ御座候故、
其夜早々近江木曾寺ニ御遺骸を奉遷、
十四目迄奉待御報候へ共、御返書不承候間、
請国門人中、一等評議ニ面、則十四日之夜、
於木曾寺埋葬仕候。
委曲者追々土芳・卓袋帰国之上ニ而、御承知可被申候。
一 
別封之一書者師翁御遷化之日、
御認被游候御遺書ニ而御座候、
上書迄ニ而、御封緘候は、其の時より無之候條、
左様被思召御落手可被下候。
 一
御遺物之品々者、諸國連衆於義仲寺の集会之上、
書記之通無相違候條、
今度御来臨も御座候はゞ御見届之上、任御取計申筈ニ候共、
御左右無御座候故、不得止取計置、目録入御覧申候。
御親類方ニも乍憚此旨被仰達可被下候。
土芳・卓袋帰国口述之上、御返事成可被下候。
一七日御追善供養相仕舞申候故、
諸子一等引取申候筈ニ候條、願者御返書承り申度候。
書餘両雅子ニ御聞可被下候以上。
十月十九日     去来 其角
松尾半左衛門様
別啓。昨日之俳諧百韻入貴覧候。
 一
御遺物目録之外ニ、左之通相残居候品、
御綿入一着御袷同前御肌付同前御帯二筋、
右者花屋仁左衛門より、一昨日次郎兵衛方ニ贈参候。
外ニ古御衣裳之類数多有之候故、
大阪出立取急候故、不残花屋ニ預置申候。
御飛脚只今参者被到候。尊翰拝見仕候。
御返事仕候筈ニ候得共、諸用相認終り申候故貴答不仕候。             j
寿貞子次郎兵衛、御国出立之砌より御供仕居、
御病中始終、御葬埋之節迄。抜群之骨折仕候。
逐一両雅より口述ニ可及候。
御病中間之始末、御病体、惟然、支考、
次郎兵衛拙者迄、筆記入貴覧候。己上。
仔細之御書翰、悉拜語。
御揃盆御安泰被成御暮候由、奉遠賀候。
然者今度芭蕉事、於大阪致遷化。
自病中木曽寺至葬埋に迄、不浅御苦労被成候結由、
御文面と申、土芳・卓袋よりも微細ニ致承知候。
惣御連中、別而両雅丈之御厚情之程、御禮難申儘候。
芭蕉事一所不住之境界ニ候條、
可斯有とは、兼而思儲得共、今更残念御推察可被下候。
併病中始終御介抱之事、只今親族之面々附添居候共、
斯迄手は届不申、亡弟身ニ取面、他方之聞え、
親旅中之美目、身ニ餘り悉く奉有候。
自大阪両度之御手簡之中、
二日之御状のみ漸十二日暮方ニ届候。
外之御歌は未届不申候。
芭蕉病気大切成義と為御知候故、早々使者差出候。
最早日限過候得共、未病気ニ而存候、使之者帰候者、
十六日之朝罷帰間、其時、遷化之事も、
遺骸を近江之様に送方ニ成候儀も致承知候。
卓袋・土芳近江国之様被参観儀も、
今度承り候故、追取返し一人差立候。
今度ハ拙者馳参申筈ニ親得共、亡弟爰元発足之跡ニ而、
拙者瘧疾労而も初瘧と申、老人之事ニ候故、
長々相痛、漸九月下旬到快気候。
病後今服薬いたし出勤も不仕、気力も未得不申候間、
不能其儀、清風子之御聞前、願人申事ニ候。
芭蕉遺状慥ニ致落手候。誠ニ一類中打寄、開封、
何も一字一涙、愁傷御思察可被下候。
  一
亡者遺物之儀ニ付、被仰越候越。御入念之御事ニ候。
併亡弟入道以来は、俗縁の表向無之候。
僧分之器財之事ニ候條、遺言之品は格別、其外者、不依何品、
直にも義仲寺に納共ニ而可有之裁。
それ邊猶父御連中任思召候間、
御存寄次第宣御取計可被下候。
寿貞子次郎兵衛指事、
今度信切之骨折、終止事感入り候。存寄りも有之候。
勿論譜代の者ニ候故、其元諸事相仕廻申候はゞ、
一日成共早罷帰候様、乍慮外被下候。
 一
相残居候と有而。吉衣裳四品被下慥ニ致落手候。
外ニ古衣裳之類、花屋ニ被預置候由
右之品は必御貪着被下間敷、其儘ニ被召置可被下候。
余情拝顔申残候。以上。
  
十月二十三日        松尾半左衛門 判
    晋 其角 様
    向井去来 様
    御連中  様                ’
追啓
朝飛脚道違ニて踏迷い申され、殊ニ痛所有之山ニ候間、
中一日手前ニ留め申候。狐念申遺置候。以上。
別啓申進候
芭燕死去之事、拙者主公ニ、同役共を以申達候處、
主公甚残念ニ被存趣。
それ夫付け辞世ハ無之哉之事、被尋候故、
土芳・卓袋口述之通申述候得ば、貴丈方之紙面、
直に可被致被見との事、任其旨申候處、重而尋ニ、
命終迄ニ発句は無哉、若有之候はゞ、直書見度と申事ニ候。
若貴丈方、外ニ御所持之方も候はゞ、暫く拝借申度候。
此段お頼申候。
 一
自筆之山家集有之候はゞ、書入杯は無之哉。
右條々宜詞御頼稿申候。
為其重而如是御座候 恐惶謹言。
  十月二十三日         松尾半左衛門
    其 角 様
    去 来 様
奥書之頭陀之内之品之中、五寸に六寸之切之事、
並松島虹潟之檜之事、仰望之由、其外何品ニよらず、
隨分御勝手次第ニ可被成候。少も不苦候以上。 
以使札得芳念候。向寒之節ニ候得共、盆御安泰。
御寺務可被成、奉恭賀候。拙者無別條罷在候。
然者芭蕉居士被致遷化候砌、
葬式之節は、段々御苦労成下、為奉拝候。
早速罷越、御禮詞等申述候筈ニ御座候得共。
乍存疎略打過、背本意候。
此段御宥恕被成可被下候。
随而左之通御寺納仕候間、宜御廻向被成可彼下候。
拙者も長々之病後、今以引入居申候故、
出勤仕候得ば、早逍墓参可仕候。
其節拝顔之上萬々可申上候。
先右之御禮詞迄如斯御座候以上。
  
十一月二日       松尾半左衛門
    義仲寺様
      
  覚え
一 御布施         金 二百疋
一 同御佛栄御斎栄料    金 二百疋
一 同御茶湯料       金 百疋
一 同 御布施       金 百疋 松尾氏一類中
  
  右
                         四二(一一6)
以飛札得御意申候。盆御清雅奉賀候。
爰本無異ニ居申候。 
然者、師翁遷化之事承り、途方ニ暮候。
いかに成行可申裁。只闇夜と相成、唯愁涙迄ニ候。
取あえず一句案候。靈前ニ御擎可被下候以上。
  十月二十三日       露沾
    去来雅丈     
             落柿舎
  此外、諸国之弔儀数百ケ所
     繁難故ニ除之。
告て来て死顔ゆかし冬の山  露沾
 十一月五日
頃日土芳卓袋帰郷之砌、申進候筈之處取紛失念仕候故、
今日一人差立申候。
先以、長々之御所労、それ御快無御座候、
乍憚随分御自愛専一ニ泰存候。
此間両雅丈より被成御聞候通亡師一七日、
於御靈前御追善之百韻。首尾能興行ニ相成、
何れも満足仕候。
然ば其席ニ御伝来之鳥羽之文臺建申候。
右此文臺の事者、御聞及も御座候半、
季吟老人より亡師に御譲の風雅伝来の雅物に御座候。
根元、玄旨法印より紹巴ニ御伝成、
貞徳、貞室、季吟亡師と傳候。
如斯之重器ニ候得者、
亡師一代尋常之俳席ニ者御用も無御座。
深川之重器ご承り候迄ニ候。
然ルニ先年猿蓑集選成就仕。
吟聲之砌、深川より御取寄せニ相成、
其儘ニ義仲寺ニ被召置候。
亡師も御門人之中ニ御傳可被成、御心ニも可有御座候得共、
亡師者も一體此俳諧之事ニ左様成事ニ、
御貪着被成候御気象ニ而者無御座、
全體隠逸禅中風雲之行状ニ候得者、傳不傳之處ニ而者無御座候。
併此の後はその場にては建不申、
今度此儘ニ打捨置候得者、一道は建不申、
永く芭蕉門埋レ候共存じ候。幸此節、其角参り居られ候故、
於江戸、其角・嵐雪と申而者、
亡師左右之御手ご被思召、無二之御愛弟ニ而御座候。
それ故御靈前ニ而、右文豪譲之事、申向候得ば、
其角頻りニ辞退ニ而、一昨日罷帰申候。
 許六は病身、木節は老衰、美濃尾張は遠方ニ而手届不申、
外ニは若輩之者斗、
それ故一ト先ツ右文豪ヲ義仲寺眞愚上人ニ預ケ置、
一二年も過候はば、若年之者共、追々出精之上、
抜群之者も出来可申、
上人ニ申向候得共、路傍の廃寺、風火災叉ハ賊難の恐れ、
貧地独居故、不任心底と申而断ニて御座候。
只今にては御預置所も無御座候。
道心の御人體ニ候得者、兎角可申大筋も無之、
此の上は、右の雅物ニ候條、少頃貴方ニ御預り置可被下候。
 来春ニも成候はゞ拙者以参。御熟談も可仕候。
則右之品此者ニ持たせ進候。
諸事御賢察可被下候。恐惶謹言。
十月二十七日      向井去来
  松尾半左衛門様.
 貴翰拝読。
先以、此間者前後之御取計ヒ。
重労御労煩被成下、悉奉存候。
然者、鳥羽之文豪の事被仰聞趣、
逐一承知仕候。如貴命、
右文豪の事は、日外亡き弟よりも承り、
至て大切成雅器ニ御座候由、右之器物引譲之事、
御心配之事、御尤千萬之事ニ御座候。
然ニ其角能時節ニ参り合居られ、辞退之儀、
於手前も不承知ニ存候。
芭蕉門人ニ其角・嵐雪申事者、日本ニ俳諧好候者、
誰不存者は無之候。
然ば門人中ニ何人か違背之御人も可有之共覚不申、
右ニ付而者、拙者より御類も可申候得共、
帰郷ニ成候と申事ニ候得者、不能其儀候。
且又眞愚上人御返答之儀者、御尤之事ニ奉存候。
将又拙者方ニ暫く御預可被成旨、
併我等事者肉身之事ニ候得共、俗士之事ニ候得共、
風流中之品物、暫も預り候境涯ニ無之候。
何分ニも、是は雅器之事ニ候得ば、
貴雅方ニ手前より御預ケ申度候。
仰之通り、明春ニも成候はゞ、拙者罷越、拜面之上、
兎も角も可仕、是非々々譲方無御座節は、
季吟未御存生之事ニ候得ば、元之通り返上納可仕、
とても先夫迄者、貴雅之方ニ御預り置可被下候。
偏ニ奉頼候。左候はゞ芭蕉魂魄も可為満足候。
卓袋 土芳より始末は承申候。恐惶謹言。
  十月二十九日       松尾半左衛門 命清 印
    向井去来様
鳥羽之文豆 一脚 黒塗
長一尺九寸、幅一尺二寸、高四寸。
板厚三歩、筆反一尺一寸。
右者師子相求之印ニ、
季吟翁より先師に御相承被式親重器ニ候。
今度拙者ニ御預可被成旨ニ付、慥ニ預り置申候。
後證如件。
元禄七年甲戊十一月四日     向井去来
  松尾半左衛門殿
但三ケ所疵、二ケ所有小指先程、
一ケ所有小キ摺庇、四方之角摺レ有。





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最終更新日  2021年12月01日 06時09分24秒
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