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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年12月14日
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カテゴリ:甲斐武田資料室
武田滅亡時の登場人物詳細 『甲乱記』
清水茂夫氏校注より
◆ 勝頼夫人
北条氏政妹、天正五年勝頼に嫁す。天正十年三月十一日勝頼と同じく田野において死す。年十九。法名北条院殿摸安妙相大禅定尼。法泉寺には陽林院殿花庵妙温大姉という 
跡部大炊助勝資
『寛政重修諸家譜』は跡部大炊助勝資を尾張守とするが、『甲斐国志』は『甲陽軍鑑』によって信玄の大博であった跡部尾張守(信玄の幼少の時に死す)の子で、士隊将であったとする。天正十年壬午三月勝頼に殉死、法名跡受道張居士。跡部勝資は尾張守の甥とする 
◆ 小山田信茂
(1540~1582)。弥三郎、左兵衛尉、越前守。父信有の遣領をついで甲斐都留郡の領主。信玄が小田原へ出軍のとき、武蔵八王子で地侍と戦って大功をたてた。天正十年三月信長に通じて勝頼を田野で放死させたが、自分も信長に殺された。年四十三。
土屋惣三昌恒(昌忠)
金丸筑前守虎義の五男、右衛門尉昌次(直村)には弟。勝頼の小姓、幼より英名あり。『軍鑑』によれば永祓十三年十五歳にして駿州先方の土屋備前の養子となる。長篠にて備前並びに兄昌次戦死により二人の家線をあわせ賜わり両部の兵に将たり。田野にて殉死、年廿七。天正三年ののち土屋右衛門尉を称したものか 
金丸助六郎
金丸虎義の四男、金丸定光(昌義)。初め虎義の長男平三郎昌直が家をついだため二男土屋昌次・三男秋山昌詮はすでに他の首蹟をついでおり、昌直が永線三年、武田逍遥軒の被官落合彦助のため横死したので、助六郎が家を相続した
秋山源蔵
金丸虎義の七男、親久、初名晴定。兄昌詮(虎義三男)が秋山伯看守信友をついで左衛門佐と称したが廿九歳で犬死したため、末男源三がその嗣をついだ。田野殉死のとき廿一歳 
安部加賀守
安部勝宝。はじめ五郎左衛門、便番十二人衆。永緑五年勝頼高遠の城代の時、士隊将八人を付属、軍の指引は五郎左衛門次第たるべしと命ぜられた。
◆ 小山田式部少輔
田野殉死の牌に、小山田平左衛門国別(中源実宝居士)・同掃部丞義次(洞岩泉谷居士)・同弥助(明塵道白眉士)・同小     児(久桂芳昌居士)あり。式部少輔・掃部助同人か 
◆小宮山内膳友晴
小宮山丹後守昌友の男。使番十二人衆、のち将となる。勝頼のとき小山田彦三郎と隙あり、貶斥せられる。壬午三月幽所よりたって殉死する。
◆小原下総守
忠国・小原丹後守昌友(秋次また秋晴)。『軍鑑』は丹後を兄、下総を弟とする。この兄弟永線五年勝頼に付属する士隊将八人の内。束郡栗原筋小原村東分に小原氏の居址がある。
武田相模守信豊
左馬助。信玄の弟左馬助信繁の子。普通に典厩と呼ばれた。父信繁を古典厩と呼ぶのに対して後典厩と呼ぶ。永禄八年「下ノ郷起請文」に六郎次郎信豊とあり、同心衆十人の名がある。『甲陽軍鑑』に幼名長老、初め信元といい信豊と改めたといい、騎馬二宮の将とする。『甲乱記』・『信陽雑記』などは相模守としている 
小幡上總守之助
小幡信貞、信真ともある。重貞の子。上野国小幡城主。天正十年三月、織田信忠に降参して所領を安堵さる。六月本能寺の変の直後、滝川一益に属して、北条氏直と武蔵金沢・神流川に戦った。一本系図に武田信豊、小幡上総介婿とある。『甲陽軍鑑』品第四十参照 
◆ 真田昌幸
1547~1613 源五郎、安房守。一徳斎幸隆の三男、初め武藤菩兵衛という。兄源太左衛門信綱・兵部丞昌輝の二人長篠で戦死ののち家督をつぐ。信州上田城主。慶長十六年死、年六十五 
内藤修理亮昌豊
信玄に仕えて侍大将。上野箕輪城主となり、上野筋の奉行、小荷駄奉行として信玄に手腕を認められた。天正三年五月三河長篠で戦死しているので、ここでは修理亮昌月。昌豊の男。父に代わってその部に将であった。上州箕輪生原村着電寺の寺記に大和守昌月といい、織田軍記にも箕輪城主内藤大和守とある。
内藤大和は北条の臣相州筑井城主にもあるが、ここは修理亮改め内藤大和守昌月。徳川記には修理(昌豊養子)壬午の降人とある
下曾彌覚雲軒。
 中務大輔賢範(賢信)の孫。信州小室城を守衛。天正十年、小室にて武田左馬助信豊を謀殺。出羽守信恒
葛山右近
「武田源氏一流系図」では名氏友、「葛山家譜」によれば葛山播磨守綱春の四男葛山右近信次。御宿大監物友綱の弟 
武田一族逆心、織田信忠、進発附勝頼、賞罰を行はるゝ事
(『武田三代記』清水茂夫氏・服部治則氏校注)一部加筆
明くれば、天正十壬午年正月六日の夜、勝頼の御乳父(めのと)阿部加賀守が方へ、木曾の衛息女に差副(そ)へ置かれし茅村備前守・山村新玉左衛門が方より、飛脚到来して、木曾殿、信長へ内通にて謀叛を企てらるゝ由、厳密に訴へける。
この木曾左馬頭義昌と申すは、清和天皇八代帯刀先生義賢の嫡子、朝日将軍義仲の末裔にて、数代木曾を領し、此時に至つて、未だ家系を断ぜず。弓箭の業、なお凄烈として、隣境に煙きけるが、信玄の武威に、対すべくもあらず、降参して所領を差上げ
られけるにより、本領安堵の上、信玄御娘人を遺されて、勝頼の御為めには、妹婿にてぞ候ひける。然れば、斯かる厚恩を忘却あり、隠謀の企あるべしとは、思い寄らず。さるに依って、左馬助信豊を始め、跡部大炊助・長坂釣閑等、少しも騒がず、何条、木曾殿に於いて、別心を思食さん。
此儀は、千村(茅村?)・山村が偏執を以て、斯かる事を申すにてぞあらんとて、飛脚を召し寵め、返答にも及ばざりけるこそ、武田の運の究めなれ。抑々義昌、信長に内応しけるようを、委しく尋ぬるに、東美濃苗木の城主苗木久兵衛尉を以って、織田中将信忠に申しけるは、武田勝頼、暴悪重過して、長臣等が諌言をも容れず、雅意に誇り、上を蔑如し、下を困めて、家運既に傾き、滅亡の時節到来せり。さるに依って、一門譜代の者共、悉く心を離れ、別心の色を顕すにより、勝頼、遠慮を廻らし、寵城の用意として、去年七月より、韮崎に於いて要害を構へ、新甲府と号し、唯今迄の甲府を、少しも残さず破却し、近き内、新府に移る由、風聞仕り候。放き甲府は破却し、新甲府は、未だ普請悉くならず、君臣不和にして内乱れ供。唯今速に、軍勢を差向けらるゝに於いては武田の敗亡、踵(踝・くびす)を廻すべからず。さあるに於いては、義昌郷導となり、衛先を仕り、御本意を遂げさせ申すべしと、人質を出し伸しけるにより、苗木、則ち岐阜へ参って、此事を申しければ、信忠又、安土へ之を申されけるに、信長仰せけるは、木曾義昌は武田に好み深き者の、今に至って、さいふこそ心得ね。事実なるに於いては、信忠、急ぎ進発あるべし。尤も諸方の味方、速に手合さすべし。信長は、後より攻め入るべしとぞ宣ひける。然るに、木曾義昌の隠謀、既に事発覚して見えければ、然らば、討手を差向けよと、左馬助信豊に、旗本よりの検使神保治部を、差副へ向けられけるに、其勢三千余人を以て、鳥井峠に於いて、木曾と合戦し、散々に戦負けて引退く。
 織田中将信忠は、信長の厳命によって、其の数七万余人を従え、天正十年二月十二日に、岐阜城を発馬あり。総じて、今度勝頼追伐の手合、
先ず駿河口は徳川家、其数、三万二千人、
上州口は北条氏政、四万五千人、
飛騨口は金森五郎八、三千人、
木曾口は信忠、七万人、
伊奈口は信長、其勢、十万二千人、都合軍勢、二十六万二千余人とぞ聞えける。
斯くて信忠は、天正十年二月十四日、岩村に着障ありけるに、信長公の先衆、各と伊奈口へ向ふべしとの指図にて、河尻肥前守・滝川左近将監・毛利河内守・永野監物・永野惣兵衛尉を差向けらるゝに、松尾の城主小笠原掃部大夫が逆心して、早手合をぞしたりける。又信忠木曾口の先陣は、織田源五郎・織田赤千代丸・津川孫十郎・稲葉彦六郎・塚本小大膳・水野藤次郎・丹羽勘介・簗田彦次郎・梶原平治、其勢二万余人、鳥井峠を打越えて、桔梗原に陣を取る。
斯く四方より、大敵、雲の如くに起り、鷹の如くに撃って、襲い来る由聞えければ、勝頼、諏訪に御馬を出され、所々の要害に、加勢をぞ籠められける。
先ず信州伊奈の高遠城には、御舎弟仁科薩摩守晴清・小山田備中守・羽切九郎次郎・渡辺金大夫・小菅五郎兵衛を差向けらるゝ。 
深志城へは、馬場民部少輔・多田治部右衛門を差越さる。
駿州鞠子には、諸我兵部、
駿州用宗には、朝比奈駿河守・屋代越中守・関甚五兵衛、
駿州田中城には蘆田下野守をぞ通されける。
然りと錐も、未だ御勢二万余人相残れば、諏訪に於いて、軍議区々なりと錐も、衆議、混淆として一決せず。
武田逍遥軒は、信長の請け手として、伊奈郡にましましけるが、諏訪にまします勝頼に、案内もなく軍勢を具して、早々甲府に引き取らる。
左馬助信豊も、五度の会評に、虚病を構へて、両度ならでは出合はれず。
勝頼も茫然給ひたる体なりければ、足軽大将にて候ひける城織部正、合戦の体を申し上ぐる。
先ず二万人の軍勢を五千人、我等と横田甚五郎に預け下され候はば、一番合戦を仕るべし。
又五千人は、小山田八左衛門と、初鹿伝右衛門に預け下され、二番合戦と定めらるべし。
残る一万余人は小山田兵衛尉・真田安房守・小幡上総介に支配させられ、御旗本と一つになって、九死一生の戦を挑まれ然るべし。如何に信長なればとて、此度に於いては、懸り来る合戦に、柵の木をも結び申すまじ。唯平場の合戦ならば、味方一人に、上方勢十人当合にても、先ず一応は、切崩し申さん事、尤も安かるべく候。
然れども、日本国を相手にし給ふ細事なれば、終には御滅亡疑あるまじ。唯御最期の御合戦を、見事になされ、速に衛生
害あれかしとぞ申しける。
されども、長坂釣閑、之を甘んぜず、猥に若者共の申す事を、御許容あるは、御運の末なりと申す。阿部加賀守が曰く、先ず河尻肥前守・滝川左近将監が手に、夜討仕り然るべしと申しけれども、是も釣閑妨げければ、共通にて止みぬ。穴山左衛門大夫梅雪は、九年以前より徳川家に内応せられければ、故甲府より、領地下山に立退き、逆心の色を立てられけるにより、之を見て、各々士大将、我れ先にと身を引き、己々が居城にぞ引返しける。逍遥軒・一条右衛門大夫・武田上野介・その子武田左衛門大夫・武田左馬助子息次郎・御舎弟葛山三郎を始めとして、恨みを書状にて断り、各々心を変ぜられければ、勝頼の御勢二万余人ありけるが、今は僅に、御旗本勢三千人には、過ぎざりけり。然れども、去年七月より、龍城の為めに築きし新府な
れば、先ず彼の所へ引取らんと仰せられ、諏訪を引き払はれ、新府中に坪み給へども、普請漸く半なれば、中々、軍勢の楯寵るべき体にあらざるにより、爰に於いて、又、評議様々なる所に、
武田太郎信勝、生年十六歳にてましましけるが、諸人に譲らず、勝頼に向ってて仰せけるは、去年の秋より、穴山といふ腰抜け巧言を以て、信玄公を誹り、甲州の間に、堅固の城郭を構へられざる事、法性院殿(信玄)の御思慮の薄きやうに申す。左馬助倍豊を始め、其外、一門の人非人等、長坂釣閑・跡部大炊助と合体し、当地に新府を築き、古甲府を破却し、武田十九代の間、数百年立茂り、成長せし古松老柏数十丈なるを悉く伐倒し、古府中、今は狐狼の栖となりて、真に浅ましき次第なり。是れ諏訪大明神の神慮にも背き給ひ、御旗・無楯の冥慮にも、究き給ひぬとこそ覚ゆれ。信玄公は、寛仁大度にして能く万民を撫育せられ、人を以て、城郭とし給ふにより、甲州の内に要害なし。是信玄公は、天下の英雄豪家、悉く御威光に帰服し、普く天道の免す名君なれば、是非を論ずるに及ばず。然るに、信玄公を誹り奉るこそ、言語道断なれ。されば、寵城の為めに築かれし新府、普請半なりとて、爰を去って、何国にてか、合戦を遂げらるべき。仮令、此上如何なる要害に拠ればとて、斯くまで、人に捨てられ給ふ御運、開き給ふ期もあるべからず。唯速に、御旗・無楯を焼捨てられ、衛生害あらんこそ、然るべく覚え候へ。然しながら、某儀は、信長が為めにも甥、城之介が為めにも、又甥にて候へば、要って御諌は申されず候と、理を尽してぞ宣ひける。真に信勝、漸く志学の御年にて、斯かる群難の期に至り、金言覼縷を尽し、御父勝頼を諌めらるゝ事、流石、新羅源氏の正統、武将の器に偏り給ふ気質なりと、真田安房守を始め、各々感涙をぞ流しける。
勝頼も、道理に屈伏あり。更に言を宣はぎりける所に、真田昌幸申しけるは、倍勝公の宣ふ所、道理の至極にては候へども、御生害の儀は、何時も安かるべく候。何とぞして、今一度御運を開かれ、信玄公の御志をも、続かせらるゝやうにこそ、在りたく存じ候へ。左候はば、上州阿賀妻に、御龍城然るべく覚え侯とぞ申しける。
小山田兵衛尉は、郡内岩殿に寵らせられ候へと申す。さるに依って、未だ何方に龍城あるべきも知れず。竊(ひそか)に長坂釣閑に、此事を尋ねらるゝに、真田は、一徳斎より主代の臣、小山田は当家譜代の大臣、数十代の守尉にて候へば、郡内岩殿こそは、然るべく候はんと申すにより、小山田にも御暇を下され、用意の為めに、郡内へぞ帰されける。真田も、領地を堅固にすべしと仰せられ、上田にぞ赴きける。
斯くて三月朔日、新府より岩殿に赴き給ふべしとて、御供の人々、用意仕る所に、小山田彦三郎、何国ともなく立退き候へと言上す。其外、御旗本の勇士共、六人迄欠落と申す。勝頼、少しも御仰天なく、阿部加賀守・土屋惣蔵を召され、年来先方の者共の人質、尤も其内、忠不忠の不同混雑せしを、速に撰び分くべしと仰せ下さる。両人畏まて、一千余人の人質、忠不忠の品を糾明したりけるに、尤も忠貞にして変ぜざる者、或は義死を致せし者の人質、漸々首余人ならではなかりけり。残りて九百余人の内、先ず今度謀飯の張本、木曾左馬頭義昌が母と妹を引出し、新甲府(新府城)の大手勝山口に、逆張付にぞ懸けられける。其外は、悉く人質曲輪に追込み、焼革を積んで、一度に火をぞ懸けられける。其中にも、一門譜代の諸将等の妻子、尤もやんごとなき人々も、多かりければ、真に浅ましきことにぞ思はれける。
扱又、忠義の者の妻子百余人を召出され、一人に付いて、黄金百両宛に下され、衛目見を仰付けられ、皆々何方へなりとも立忍び、身を過すべし。時節到来、是非に及ばずと仰せられけるに、各土疾を袖にかけて、潤然として、御前を去りあへざりけるに、勝頼、少しも憂ひ給へる色なく、早く何国にも立去るべしと荒らかにぞ仰せける。此日、既に黄金一万余両、息賞の為めに行はれけるこそ美々しけれ。斯くて、新府を衝立あり、古甲府に立寄らせ給ふに、路次に於て、御中間衆起りて、天正元年以来、長坂釣閑の雅意に任せ、我々が切扶を押へける事の無念なれば、唯今擲殺さんと、犇きけるを、屋形、奇怪なりと御怒りあるに、忽ちに静まりける。然るに、古府中の御館は、悉く焼き払はれければ、一条右衝門大夫宅にぞ、立入り給ひける。





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最終更新日  2021年12月14日 14時54分50秒
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