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2021年12月14日
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カテゴリ:甲斐武田資料室
信州高遠の城落城附仁科薩摩守晴清生害の事
(「武田三代軍記巻廿二」)           .
(『武田三代記』清水茂夫氏・服部治則氏校注)一部加筆
斯くて、勝頼微分国の城々、
先ず信州松尾城は、小笠原掃部大夫、信忠の先手に開け渡して、降人となる。
飯田の城に寵置かれし保科弾正少弼も、降を乞うて開け渡す。
深志の馬場民部少輔も、城を去って甲府に引き返す。
大島の城に置かれし日向玄藤斎も出奔す。
其外、数十箇所の要害、或は攻落され、或は降人となり、過半落去し、相残る要害も怺(こら)へ難く見えける所に、信州伊奈高遠の城は、勝頼の御舎弟仁科薩摩守晴清(初は五郎・信盛と号す)楯寵り給ひける。相従う人々には、小山田備中守・渡辺金大夫・羽桐九郎次郎・小菅五郎兵衛・春日河内守・今福又右衛門・畑野源左衛門・諏訪勝左衛門・飯島民部・飯島小太郎・今福筑前守・神林十兵衛以下、都合軍勢三千余人ぞ楯寵りける。
然るに、二月下旬の頃に及んで、未だ城を開かず。織田中将信忠、飯田の城に着陣あり。此事を聞き給ひ、我が旗本を以て攻干すべしと、其勢一万余人にて、搦(からめ)手より向はれければ、翌日小笠原掃部大夫を案内者として、森武蔵守・田平八郎・河尻肥前守・毛利河内守、其勢二万余人にて大手に馳向う。城将仁科晴清は、持てば忍ふべき城なりけれども、迎も遅れぬ所なりと思はれければ、花々しく討死し、誉を後代に残すべし。真に一門の者共、身命を惜み義を捨て、敵の馬前に降り、剰へ皆、誅戮せらるべきこけて浅ましけれとて、仁科重代の桐の葉という小実の鎧に、竜頭の鍪(かぶと)を著し給ひ、信濃藤四郎と号せられし三尺七寸の太刀を帯(は)き給ひ、一千四百余人の逞兵(たくましい)を従へられ、三月一日の辰の刻に突出で、縦横に駈乱し戦はれければ、小山田備中守は、大手より切出でて、辰の刻より午の刻迄戦ひ、城中に引入れけるに、敵を討取る事二百七十余級、味方百七人討たれたり。是より先、日々夜々の攻撃、鉄砲の上手を以て、牆の如くなる敵を、矢坪を指して打倒しけるにより、無の矢、一つもなく、信忠の旗本究竟の勇士、数を尽して討たれければ、河尻肥前守、中将の御前に参り、兎角、甲府をだに攻干し候はば、其外の枝城は、攻めざるに落去仕るべし。
未だ勝頼、安穏にましますにより、敵の鋒先当り難く候。当城は押を差置かれ、一日も早く、勝頼を御退治あれかしと、申しければ、信忠仰せけるは、武田家の鋒先、奮迅として強勇なる事、兼ねて知る所なり。高遠の城だに斯くの如くなれば、勝頼が根城は、さこそと思ひ知られたれ。最期の合戦、一入武勇を振ふべし。所詮、大事の敵なれば、信長公の進発を待つて誅伐すべし。唯此城をだに攻落さば、尤も甲府も攻安かるべし。諜を以て落すべしとて、矢文を城中に射させられけり。其の文に、二月廿八日、勝頼、甲府の旧館に於いて生害あり。一門の面々、或は殉死、或は降人となりて、甲・信の間、既に平均す。然るに、仁科殿一人、堅固に城に怺へらるの条、尤も殊勝なり。早く城を開かれ、降人となり給ふに於いては、信忠、御命を申請ひ、本領安堵致させ候はんとぞ、書かせられける。仁科殿、これを見給い、信忠、己が心に比べて、我を謀るこそ安からね。
勝頼、未だ生害あるべからず。斯く謀って我を降らしめ、縲絏(るいせつ)の恥を以って、信長に面縛させ、首を切るべしとや。仮令、不義にして千年の寿を保ち、栄華を子孫に伝ふとも我れ何ぞ、浮雲の富を好とせん。さあらば、軍兵共に最期の合戦させ、凉く腹切らんと、天正十年三月二日、搦め手の多門に上り給ひ、我は昨日の防戦に、深手を負ひたれば、歩行自由ならず。各々最期の軍として、我に見せよと宣へば、畏まり候とて、追手・拐手、一度に門を押開き、先づ搦め手より小幡周防守・小幡五郎・春日河内守・畑野源左衛門・今福又右衛門、千七百人を従へ、大波を立てゝ伐って出で、信忠の備、七段迄切崩し、以上四度つきい出、首を得る事四百三十七級なり。追手には、小山田備中守・羽桐九郎・小菅五郎兵衛・今福筑前守・諏訪勝左衝門、
六度迄敵を伐崩し、首数二百八十余級討取りける。
爰に諏訪勝左衛門が女房、長刀を以て敵に駈合せ、七人迄薙伏せ、終に討死をしたりけり。六度目の駈合に、小山田備中守も討たれければ、其外、過半討死し、或いは創を蒙り、寛に城門を打破って、敵、早や城中に込入りけるに、信忠の小姓山口小辨・佐々清蔵、馬廻には、梶原次右衛門・桑原吉蔵、森武蔵守が臣には、各務兵庫介等、一番に乗込みける。これに続いて戸田半左衛門尉も、搦め手の門際に乗付け、指物を木立に引懸け、少し躊躇いける所に、後陣の大勢、一度にどっと乗入りたり。時に小菅五郎兵衛は、仁科晴清の御前に参り、敵、既に城中に込入り候。今は御腹を召され候べし。某、御介錯を致し、御供を仕らんと存じ候へども、勝頼公の卸先途を見届けたく候条、衛暇を下さるべし。仰せられたき事共、某、伝説仕らんとぞ申しける。晴清、其の時、矢倉の狭間の板を押開き給ひ、寄手に向ひ宣いけるは、此度、我れ心を変じ、信忠が軍門に降らば、一命を続いで所領を安堵さすべきとの矢檄、苟(いやしく)も我れ清和源氏の流を出でて、法性院信玄が五男なり。何ぞ不義にして、一命を続いで、媚を匹夫に取って、信忠が馬前に降らん。早く勝頼父子、並びに我が首を取って、信長に見すべし。汝が父、弱冠より不義暴悪を以て、親族を課し、或は延暦寺を焼き、数千の衆徒を殺し、将軍家を蔑ろにし、恣(ほしいまま)に逆意を挙動ふ。一旦摂然として、武威を振ふと雖も、終には積悪、其身に及んで、忽ち亡び失はん事、踵を廻すべからず。
今、武田五郎仁科薩摩守、生年三十四歳にて生害するぞ。汝等が武運、立所に尽きて、腹切らんずる時の手本にせよといひもあへず、桐の葉の上帯切って落し、押膚脱いで、刀を弓手の脇に突立て、馬手の細腰迄引き廻し、返す刀にて心元に押立て、十文字に掻切り絵ひ、矢倉の狭間の板、押立て給ふと等しく、小菅、衛首を討落し、則ち火をぞ懸けたりける。斯かりければ、本城二の曲輪、所々に火を放ち、一時の灰燼とぞなしにける。
 信忠、則ち城中を点検あり。竟に三月二日、未の刻に及んで仕置等あり。是より直に、上の諏訪に至って、本陣をぞ居ゑられける。
 
武田滅亡 小山田兵衛尉逆心附信長進発の事
「武田三代軍記巻廿二」)
(『武田三代記』清水茂夫氏・服部治則氏校注)一部加筆
 斯くて、天正十年三月三日の朝、一条右衛門大夫屋敷に於いて、仁科晴清・小山田備中守、己下討死して、城、落去せし由聞えしかば、勝頼、土屋惣蔵・安部加賀守に向って仰せけるに、返すがえすも残多きは、正月始めに、信長が長臣明智日向守光秀が方より使を越し、信長を殺し申すべき条、其の時節は、早々手合して、都へ旗を進むべし。家康、若し上洛を妨ぐるか、又、明智を討たんとせば、前後より引包んで課すべし。柴田勝家・羽柴秀吉、尤も当家の最将なりと姓も、勝頼が武威に恐怖したれば、強ちに敵するに及ぶべからず。其の上にも、羽柴秀吉は、中国の毛利を頼み、是に押へさせ、柴田勝家は、上杉景勝に任せて、家康を即時に攻城さんと、藤田伝五郎といふ家人以って、種々に申したりしを、長坂・跡部、曾て此旨を肯(うけが)はず。 謀(はかりごと)なりといひて、使者に取合はざるにより、一条右衛門大夫が被官に便り、藤田、数日逗留して、之を申すと雖も、終に我れ用ひざりし。是れ皆、運の末にて、斯くの如くなる事、千悔するに足らず。頼み思ひし高遠、落城する上は、一刻も早く、郡内に立越え、岩殿に楯寵り、敵を待請け切死をすべしと仰せられ、三月三日、勝沼へと志し、古府中を打立ち給ふに、勝頼衛父子の御供七百人に過ぎさりけり。既に甲府一条小路を打過ぎ給ふに、駿河先方の士、下方彦作、勝頼へ向って申しけるは、先主今川氏真は、信玄の御旗先を見て、山家の奥に逃入らるゝ。夫さへ武田家にては大に嘲りたりと申す。今勝頼公は、信長の旗先、少しも見えざるに、郡内をさして落ち給ふ。今川氏真の敗軍にが十層倍、勝頼公は、見苦しく候と申しけるに、勝頼、大に御怒あって、憎き奴原が雑言かな。打殺せと仰せらるれば、御中間衆、取囲んで竟寛撫殺す。山県が勇卒広瀬郷左衛門・三科肥前守・小菅五郎兵衛・辻弥兵衛御供申しけるが、彼の者共は、聞ゆる一人当千の者なれば、信勝の御供仕るべしと仰せ下さる。斯かる時節に及んで、御身の事を思食さず、信勝を痛(労)はり給ふ御心中、哀にぞ覚えける。爰に小幡豊後守は、去年十月より、脹満を煩ひ居たりけるが、駕に助けられて、今生の御暇乞とて、甲府の善光寺に出向ひ、細目見仕るに、勝頼、御泊を流し給ひ、運命尽きて、斯かる群難の期に至り、汝如き者も、今病中にて是非に及ばずと、仰せらるゝに、小幡豊後も途方に暮れたる体にて、二三町御供申し、御馬に取付き、申しけるは、勝沼筋は、邦人の逆心も心元無く候へば、今宵は梶尾(柏尾)へ入らせられ、然るべしと申すにより、梶尾に御馬を向けられける。豊後も、是より衛暇を給はり、黒駒へ赴きけり。弥々小山田武術、岩殿へ入れ奉らんと申すにより、是より鶴瀬へ御馬を向けられ、小松郷に七日御滞留あるに、三月五日の朝、秋山摂津守、書置をして立退く。
天正十年三月六日、高坂源五郎、其勢四十三騎、雑兵二百余人にて参りけるに、大勢にて参るのみならず、城を捨てゝ来るは、別心を存すべきも知れずとて、細目見も叶はざれば、種々に申し御供仕らんと、誓紙を捧げけれども、御免なければ、信州川中島へぞ赴きける。
天正十年三月七日、山県源四郎・馬場民部少輔・屋代越中守三人、百騎計り、雑兵七首余人にて、参りけれども、高坂同前に、是等も御免なきにより、皆己々が在所にぞ赴きける。然るに、梶尾寺は、源氏調伏の所なるにより、御遠慮に思食す所に、山伏共、悉く御敵となりければ、早く岩殿へ入り給はんとある所に、小山田武衝信茂、鶴瀬より郡内の間に、逆茂木を引き、城戸を構ふに依り、是れ敵を防ぐべき為めの計ひなりと思しけるに、さはなくして、小山田が被官、密に鶴瀬に参り、申しけるは、君、岩殿に入らせ給はば、即時に虎口を持ち申すべき為めなりと申す。
勝頼仰せけるは、小山田は当家随一の譜代といひ、殊に文道を嗜み、五常を専にし、人にも道を教訓しける者なれば、猶更、人面獣心の奴原かな。逆心を企つとも、我に憤ありて道に背かば、無道なりといふとも、其の謂はれもあるべし。昨日迄は無二の心底と称し、今斯かる砌に及んで、言語道断の次第、是非に及ばず。我が最期も、唯風燭の夕を待つに異ならねば、此憤念を骨に鏤(とりば)めても忘れず。逆心を企てし小山田を始め、一族の逆徒悉く、扱は今度、甲府を馬の蹄にかけし信長父子が余類、一人も残さず、歳を竟(おわ)らざるに、各々一命を取殺すべしと宣ひ、御旗・無楯に向って、御祈誓あり。敢然として坐し給ひし御形勢、身の毛もよだつ計りなり。
天正十年三月八日の朝、小山田八左衛門、御最期の御供と申して、素膚にて参りけるに、勝頼、大に悦び給ひ、初鹿伝右衛門は、参らずやと仰せけるに、彼の者、川浦恵林寺の奥山へ、妻子を忍ばせ、其身は、御供と存じ切って候ひしが、郷人蜂起して、鶴瀬に参るに於ては、女房・子供を、人質に取って殺すべしと申すにより、遅参仕るといふ。勝頼、則ち八左衝門に、御召替の鎧を下されければ、御次に於て之を着る。
天正十年三月九日の夜、武田左衛門佐と小山田八左衝門両人竊(ひそか)に兵衛尉が人質を盗み出し、夜中に落ち去る。かくて、小山田信茂、頃日構へし虎口々々より、鉄抱を打出しけるに、唯今迄七百余人の御勢、悉く落失せて、僅か四十三人にぞなりにける。此時、長坂釣閑・跡部大炊助も、逃去り候と申す。勝頼聞召し、雑人はさもあらん。跡部・長坂に於いては、逃(はず)すまじき奴なるに、夫れ追懸けて、討って捨てよと仰せけるに、畏まり候とて、土屋惣蔵・安西平左衛門、弓に箭を取添へて、跡を慕って追蒐(か)けけるに、跡部、運の究みにやありけん。月毛の馬に乗って、挑燈を塩辛に引付け、薄行きけるにより、惣蔵、歩立(かちたち)にて追付き、夫とは清(さだか)に知らねども、何者にもせよ、落人には紛れなしと引堅めて、ひやうと放つに、少しも矢坪をたがへず、跡部が大紋の羽織の馬乗の外れより、唯中を射徹し、根先三寸計り前へ、つと貫きたりければ、則ち逆様にぞ落ちたりける。長坂をば射留めざることこそ無念なれと、惣蔵、御前へ参り、斯くと申したりければ、勝頼御感あり、大炊助が首を、渠が人質に見せられ、則ち妻子共に首を別ねられけるこそ理なれ。
天正十年三月十日の朝、鶴瀬の向ふ田野へ、坪み給ふに、下﨟一人も無く落失せたれば、御馬の鞍置く者なうして、士大将にてありける土屋惣蔵・秋山紀伊守両人にて、鞍を置きて引出す。亀甲の御持鎗を、安部加賀守と温井常陸守両人にて之を持つ。爰に、武田の譜代小宮山内膳正、父は遠州二俣城にて討死しけるが、内膳、大剛の者にて、常に出頭人の長坂・跡部・秋山摂津守と、不和なる上に、小山田彦三郎と、口論を仕りけるに、小山田は、出頭共と仲よければ何事なく、内膳計りを改易ありける。然るに三月十日朝、彼の内膳、田野の御本陣に参り、案内を乞ふに下藤一人もなければ、土屋惣蔵立出づるに、是は如何と双方先づ泪に咽ぶ。頓て一間なる所の端近に、勝頼父子もましくけるに、小宮山、高らかに申しけるは、「三代相伝の御主の御目曲尺(めがね)を当て申すべきや、連も御用に立つまじと思召し、御勘気を蒙りし我等、御最期の御供致したらば、是則ち御目曲尺を外したるに似たり。武士の道を立てんとすれば、的前の理に背く。理を立てんとすれば、義に背きて、臆病の汚名、後代に残さん。よしよし御目曲尺は外すとも、不義の名は積されまじ。御供仕り候べし」。御勘気御免の儀を土屋殿取計らひ給へといふ。土屋・秋山、各さ感涙を流し、則ち御前を申し直す。爰に又、小宮山が弟又七郎は、御生害の御供と、存じ切って居たりしを、内膳、土屋に断り、又七に申しけるは、汝、君の御供と究め、是迄参る事神妙なり。然りと雖も、老母と某が女房を、汝、引退けて呉れ候へといふ。又七聞いて思も寄らず、我は主君の御最期を、見届け奉らんとてこそ、是迄参りたれ。老母の事も、和殿の女房の事も存ぜずと申放す。其の時、内膳、汝の志、左程に存ずるからは、冥途の御先を仕りたると同事なり。是より母を連れて立退かば、君への忠義、母への孝行、兄への見届なり。是非に頼むと雖も、少しも聞き入れず。土屋申しけるは、我が老母・女房を、被官の脇又市郎を添へて立退かせ侯。其が老母をも、偏に頼み存ずる間、帰られ候へと諌めけれども、用ひざれば、勝頼、御直に色々仰せられけるにより、是非に及ばずして、又市は立退きける。小宮山、土屋に向ひ、此上は心に懸る事なしと悦び、扱某が相手小山田彦三郎と、和談致さんといへば、土屋聞きて、彦三郎は、十日以前、諏訪にて立退き候といふ。長坂釣閑はと問へば、昨日鶴瀬にて逃げ候。跡部大炊助はと間ふに、是も昨夜、長閑と一度に逃げ候を、上意にて其追懸け、暗夜に月毛の馬に乗り候により、矢庭に射殺し候といふに、内膳、胆を潰す。秋山摂津守ほといへば、五日以前、小松郷にて逃げ候と答ふ。内膳、泪を流し、是に御運の末かな。日頃御前よかりし程の奴原、一人として腰の抜けざるは無しと、歯噛をなすは理なり。
斯くて、信長は、天正十年三月五日に、安土城を進発あり。相従ふ者共には、織田七兵衛尉・矢部善七・菅屋九右衝門・長谷川藤五郎・福富平左衛門・堀久太郎・長岡与一郎・同頓五郎・蒲生忠三郎(氏郷)・蜂屋兵庫頭・池田紀伊守・舎弟三左衛門・明智日向守(光秀)・筒井順慶・氏家源六郎・竹中久作・武藤助十郎・原彦次郎・不破彦三・高山右近・阿閇淡路守・中川瀬兵衛以下、都合其勢十万二千余人とぞ聞えし。
天正十年三月六日、濃州六渡(むつのわたり)にて、仁科晴清の首と対面あり、岐阜の長良河原に懸置くべしと宣(い)ひ、其の日は、岐阜に滞留なり。
然るに、信忠は、天正十年三月七日に上の諏訪より、古甲府の内に打入れ、一条右衛門大夫の館に、本陣を居ゑられ、今度武田家を簸き、降人となりたる甲陽譜代の士大将、一門の者共を、方便(たばか)り寄せ、悉く首をぞ別ねられける。信長は、十日に岩村に陣を寄せらるれば、信忠は其儘、甲府に滞陣せられける。





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最終更新日  2021年12月14日 14時56分52秒
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