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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年12月14日
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カテゴリ:松尾芭蕉資料室
芭蕉は甲斐谷村には来ていない、当時の谷村藩事情
 歴史の創作は到る所に見えるが、芭蕉の甲斐谷村での生活は諸書に伝えられるような事では無かった。谷村藩の国家老高山傳右衛門、俳号麋塒(びじ)との交遊は認められるが、谷村藩にとっては芭蕉が焼け出されたという、天和二年暮れの火事では谷村藩の江戸屋敷焼失、また地元では地域の民への過酷の処罰などあり、俳諧三昧の生活は出来なかった。これは芭蕉も同じであり、後世の人たちに祭られた芭蕉は歴史までも創り上げられてしまった。
甲斐 郡内州義民事歴(秘史実録)昭和九年、雑誌「改造」第五号
『都留市歴史資料 集』(二)権藤成卿氏著より 一部加筆
〔史料紹介〕
昭和九年、雑誌「改造」第五号に載った、領主秋元氏治政中起きた農民一揆に関する文献である。今一日郡内一揆の研究がすゝめられ、秋元氏を代官とし、郡内の歴史背景で平氏小山田支配を逃すなど、本文献の誤まりをいくつか指摘できるが、郡内一揆をはじめに日本中に紹介したものとして意義あると思い、かつ資料としても、既に人手不可能の状態にあることを考慮し採録した。
〔諸言〕
 郡内義民の惨刑は、代官秋元摂津守が、所管民虐圧の為に起りし訴願に対する、冷酷極まる虐断である。郡内は、今の山梨県、南都留・北都留二郡の地にして、四面山岳に囲まれ、桂川其中を頁き、曲折湾環、一大両統を成せる寰区なれば、共産物の多種多様なるも、穀産常に不足し、古来有無交易を以って、食料を補給する慣行は、自ら民政上の恒例となり、住民工芸に秀で、蚕職城の業大に発達し。郡内織り、甲州絹等の特産世に知られ、共経理上に於いては、頻る有利の地域であった。幕府が寵寓深き秋元泰朝を、比地の代官となせしは、亦自ら所以ありと謂はねばならぬ。
 乃ち此の有利なる地域に於ける民政、其需給物資の出入は、決して他の単純なる農村と、同一に律し得られるものではない。然るに泰朝より富朝、富朝より喬朝の三代にわたる民政は、幕府の新政実施に伴って強圧的にして、只管租税の増収のみを図り、其税源たる民業の消長を省みず、苛斂徴求を事とせしのみならず、下層役人の姦濫も多かった。従来倣妙なる民政の運用に依り、物資の交換疎通を図り来りし郡内が、代官秋元氏の強圧的苛斂徴求に破壊され、多の餓死者を出す迄になったのは、所謂有利なる地点ほど、鋭敏なる経済的反響あるを知るべき実証である。
 然るに世の、いずれも第一に佐倉の木内宗吾問題を掲げ、その次に起れる此の郡内問題を取り落とし、正徳中の北条の万石騒動を第二に掲げ、高野山一揆を第三として順次に書き並べてある.もっとも大内宗吾のは、其人物行為、一々人を感動させ、所謂良民の名に当たり、やがて藩の措置も大いに心を尽し、刑罰も宗吾父子を斬り、他の関係者は、手心加えた迫故に止め、万石騒動も、高野山の一揆も、長民の刑死は十二人7にして、却て賊官汚吏を罪し、為政者の処置、頻る情け尽せし点が認めらるゝが、郡内事件は、仗殺、囚役、斬殺、磔殺、無慮百数十人、前後十四五年の久しきに及び、しかも其の刑義者らは、不屈不墝、妻子に及ぶ惨刑を覚悟して事に当り、終に代官秋元の徒管とまでなし得た。事は一小地域の問題なるも、極めて政治的に重大性を帯び、特に当局者の畏れをなした事件なるも、その事件が却て天下後世に伝はらない.聊か怪訝千万である.併し占来の一例として、想像も及ばぬ様な、残虐事件、乃至機密事件、破倫事件等は、大体多く掩蔽(えんぺい)され、その大部分は後世に伝はらない。
 今、その例を考ふれば、平安朝末期に於ける、長者富豪の良い勦滅(そうめつ)事件が、殆ど全部歴史の表面に現われては居らぬ。僅かにお化け談にその片影を認める位である。また庄司目代の下で苦しめられたる惨凄惨極まる人民の実況が、書き伝えられ居らぬ。僅かに諸寺の供養記などに、その一斑を窺はるる中で。彼の徳川時代に於ける、天主教徒の屠戮焚殺。天主教徒の屠戦焚殺、寛永中三十余万人に及んだと云うのでるが、その裏面に於ける、陰惨極まる事蹟は、何程も伝わって居らぬ。往々之を羅馬古文献取り、九牛の一毛を拾う位である、且つその検察吏探偵吏と、仏敦憎侶との間に結ばれたる、畏るべぎ密事が、徳川幕府の仏法保護政策に利用され、残虐益す惨虐を極め、寛永以後更に引き続き、多数なる生民を殺したことは、事毎に掩蔽抹殺し尽くされ、歴史の表面観では一切不明である。
郡内義民事件
 郡内義民事件が、時の当事者により、かく深く隠蔽され抹殺されたことは、其の時の事情と云い、土地柄と云い、領主たりし秋元家の成り立ちと云い、訴願の性質と云い、都民の決心と云い、必ずや之を陰蔽抹殺せねばならぬ、事情ありしを考え来れば、本問題が当時如何に重大にして、且つ機密政策により処理されたかがわかる。乃て予は先ず、当時に於ける幕府の施政概況か説き、次に甲州民の尚俗と武田氏滅亡以後の状況を説き、その次に秋元家の成り立ちを説き、しかる後に本題に入り、老友渡辺氏の提供されたる考左により、諸種の文献を取捨して、其の大略を講述するのである。但し二百五十年の間の陰蔽抹殺、伝説の誤謬と憶説の紛淆とは、その真偽の弁明頗る困難であるが、小説家ならざる予は、特に信拠なき悝諺などは一切之を取省き、他の文芸家の巧妙華麗なる文字を以って問題多き本件の編綴補修さるゝことを待つ者である。
秋元喬朝の出身と郡内民最初の訴願
   郡内州義民事歴(秘史実録)『都留市歴史資料集』(二)
権藤成卿氏著 より 一部加筆
秋元富朝の後に喬朝が郡内代官(藩主)を襲職した。(喬朝一に喬知とも書けり、朝の字は秋元家代々の聾名字なれば、戸田家より養子となり、知の字を朝の字に改めたるものならん)は、戸田山城守の第二子にして、冨朝の養子となった者である.戸田氏は徳川家譜代中有数の家柄にして、喬朝が入りて秋元氏を継ぎし時は、将軍家は家綱の代となり、先代家光の余威をば儀飾の上に存し、幕府内の実情は、財政難に陥いり、それに後の明暦の大火を以て、一層困惑を極め、国庫増収計画にも之れ足らず、幸いに喬朝は、代々重臣たる戸川家の出身にして、一人前の才幹ある家から抜擢され、正にその出世の緒についたが、身分の高まるにつれ、儀式万端の費用より、工役回収に対する交際費に加え、賄賂に要する費用は、従来の郡内一万八千石では、固より支へ得べきものとも思はれぬ.そこで先代以来已に絞り尽くした郡内の所管内に於いて、苛斂徴求を始め、却て如才なく立ちまわり、漸々昇進して幕閣の末斑に列する様になった。
〔寛文時代の郡内〕
 然るに寛文二・三年(1662~63)以降は、各地方、地震洪水の害多く、六年は富士おろし烈しく、郡内一円凶作となり、疲れ切った人民は、吹き倒された家屋の修繕も出来ず、全く飢餓に瀕死居るにも拘わらず、徴賦課絞るが如く、之が為め、其冬より翌寛文七年の春にかけて、餓死七十五人を出し、流民となって他国に逃亡せし者三白七十五人に上り、愁訴の者前後二万人が代官陣屋(?)の前は、日夜飢民を以て埋まり、仰向ともされぬ所から、喬朝は二三の吏員に命じ、兎に角かく騒ぐばかりでは取り裁きの手配も出来ぬ故、然るべき者、一・二人を選び、愁訴の次第を申し立てよとの旨を命せし故、各村々の人民は大明見村庄屋想右衛門、朝日村庄屋惣左衛門の両人を惣代となし、同年三月四日訴願を提出した。然るに喬朝は、管内限りなく手配して手厳しく威圧を加へ飢ゆる者は飢ゆるまゝに、亡ぐる者は亡ぐるまゝに、全く手も足も動かされぬ様にして一まず表面だけを取り鎮め、同年の六月七日、右両人の総代を、代官陣屋の牢屋に打ち込んだ。それより翌年の春までの事情は、何の考左も残って居らぬ。但し予は当時の幕府内外の情偽と、訴願の性質とにより、断定を下すことゝする。
 本訴願書の日付は、寛文七丁未年三月四日とあり、訴願の趣旨は、
「甲斐国従来の憤例に依り、天文中武田信玄公の検地に依り、決定されたる租税運上等を俄かに変更され、交換米の下附より諸種の上納及び課役を高率となされしが、多数の餓死に籍を出し、この騒動を引き起した囚由なれば、最初家康公時代依り尊行し来れるお定め通りに、信玄公の遺例に復旧されたい」
と云ふにある。
 此の訴願を採可するとなれば、三代将軍の新制施行より、武田氏の旧制に従はねばならぬ。例令其の願意が正当なる条理あるとするも、幕府の直属地を所管する喬朝、而かも幕閣の一員としては、之を其の一個の独断に決する訳にはゆかぬ、勿論この問題は幕閣に持ち出し、細かに其方策を錬ったと見ねばならぬ。且つまた幕府も各方面新制実施困難を極め居る際なれば、緩厳両端区々の議論もあったものであろう。是を当年の老吏安西茂左衛門手記に考え合はせれば、凡その推測は出来る。是れが両人の総代を拘囚したまゝ、ろくろく取り調べもせず、前年の三月より翌年の春まで、打捨て置いた訳と見るも、無理ではあるまい。
 是れが不幸にして、幕閣の議論が、強圧手段をとることに決し、喬朝平生の立志に一致したので、喬朝はその内意を体し、寛文八年二月四日、拘囚し置きたる総代に願意相叶わざる旨を申渡し、これを金井河原の刑場に引出し、斬罪に処し、其家を闕所断絶とした。
 (此の惣代即ち想右衛門、惣左衛門の出入は、口碑の伝ふる処によれば、共に郡内に於ける徳望ある家柄正しき位置身分のありし人なりしと云う。忠右衛門の手記中に斬刑の後、想右衛門は大切なる家柄なれば、闕所取り潰しに際し、表向きは其の従家左衛門の家を想右衛門の家と做し、之を取り潰し、想右衛門の家は僅かに保持されたと記している。惣左衛門のことは未だ何らの文章も見当たらない。)
 この斬刑執行ありしや、郡内の人民は、非号叫哭、老若男女の別なく、此処彼処に集まり、日夜反の擾揺を極め、中々鎮まるべくもなく、代官所は厳しく取締を令せしも、村々の大衆は、その積り積れる怨苦に加え、朝な夕な綴前に引き続ける近親郷當の餓死離散の有様を見、其の身に迫れる刻々危殆、それに平生の頼りとせし、慈悲深きこの惣代は、情けなくも獄門に晒される二つの首となり、供養も許されざる触れ出しの下に、怨は憤となり、憤はいつともなしに固き村邑の結束となってきた。そこで代官所は、士卒を駆り出し、民衆の集団を一掃することとなし、手当り次第に斬り、百数十人の死者を出した。
餓え疲れて、その総代の惨刑を悲しみ哀ける民衆を、かくまでに圧迫せしは、之を代官所乃至代官(藩主)喬朝の独断専行とは見られぬ。
【筆者註】
 文中で谷村代官所が出てくるが、谷村藩は宝永元年(1704)藩主・秋元喬知が武蔵国川越藩に転封され、谷村藩は廃藩となり、都留郡は幕府直轄領となった。これから谷村には代官所が設置された。享保九年(1724)甲府藩主・柳沢氏が転封となり、これより甲斐国は幕領となり、国中には代官所が設置され、谷村代官は石和代官所の出張陣屋となり、郡内の支配を司ったもので、寛文・延宝・天和・貞享・元禄までは秋元氏の支配であった。従って文中の「谷村代官所」は間違いと思われ「谷村藩」が正しい。
 この際喬朝は江戸公邸に在って、日夜に数回にわたって情報に接し、幕閣との間に如何なる打ち合わせや説明をしたかは明確に伝わっていない。こうした事象については機密に附せられるものである。幕閣の一員である喬朝の藩内での不穏な動きは、早急にことを治める必要があり、地域農民に多大な負担を強いることになったと思われる。二名の行動も幕府や藩主に歯向かう暴挙としての扱いを受け斬首となった。
十九村民の結束と第二の訴願
 固い村民の結合は、如何なる強圧も、処罰も及ぶべきものではない.郡内聯村の主も者たちはその居場所を山谷の問に避け、秋山村に見張りを置き、互いに熟議を凝らし、なかんずく(就中)新倉、大明見、小沼、暮地、境、鹿留河原、古川渡、田野倉、朝日、下吉田、夏狩、倉見、八幡、桑久保、戸沢、花咲、与沢、網野上、の十九村は、斉しく堅い決心を以って、新倉村の太郎左衛門を筆頭に、六人の惣代を立て、秋山村の関戸左近は、郡中一円を代表し、聯村を四十八藩となし、之をまとめて七組となし、七人互に死を決し、第二の訴願書を提出する手配を定め、あらゆる警戒の中をくぐり出て、寛文八年()の八月二十三日付きを以って、秋元藩の公邸に出訴した。その連名の順序は、十九村以外の秋山村より選ばれた関戸右近を筆頭に、新倉村の太郎左南門、戸沢村の孫兵衛、小沼村の助右衛門、花咲村の与右衛門、絹野上村の八左衛門、小明見村の与兵衛の順序に列記され、肩書に「甲斐国都留郡郡内領惣百姓難渋人惣代」たる。細かにこれを課k種の考査ち伝説とに考えれば、左近という人物が機略優れたる傑物にして、連盟の村を代表し、八郎左衛門は、その中堅をなせし、十九村を固く取り絡めたる、名望ありし人であったろう。後日に居たり、特に左近一人は磔刑に処され、他は斬刑となって居る。これ左近が首謀なりしを確認すべき証左である。
 七人の惣代等は、暫くして、願書を提出せしが、秋元江戸藩邸では「しばらく控え控へ居れ」と申しつけ、そのまま寛文八年をこえ八年を送り、翌九年の正月二十七日、藩邸より呼出しの命があって、家老の岡村庄太夫より、一通りの申渡があった。
「申し渡しの義は、本国のその掛りの役人は、当屋敷召し出し、尋ね候処、役人どもの申処、左と存せられ候斯くもこれ有り候に付き、其の方を今日召し出ししは、余の儀にあらず、その方共願い出たる件、本国地方掛りの役人共を、十分取り調べの上申しつけ置く儀は、検地改め換えは、全国一同のそれぞれ改正の処なれども、その国のこれまでの習慣に従い、検地改正致せとのこと、また諸運定始め検地其の他事、みな支配下の百姓に惣代を立て、地方係りの役人と、百姓惣代と相談の上諸事取り定める様、申し付け置き候間、其の方共も国元へ立ち返り、当該役人と万事相談の上取り定め致せ。云々」
(『忠兵衛手記抄録』)
 この申し渡しの要領は、
「藩の役人共に聞き正したるに、役人どもの申し立て左様にして、検地改め換えは、全国の同一の事なれば訴願は採用出来かねるも、地方の慣例に従い租税課徴のこと、乃至検地取り捌の事など、皆支配地百姓惣代と相談の上取り定むべく、矢君どもへも申し付け置きし故、訴願者其の方共も、国本へ罷り帰れ」
 というのである。すなわち訴願の趣旨は聞き届けたようでも、そうでもないような内容である。現在でも明確さを欠く政府や官庁の答弁の様でもある。
 二人の地元代表の惣代の訴えをよく吟味せずに斬刑に処せし措置とこの七人の惣代より、再び同様の訴願を提起せしに対する前掲の措置とは、自ずから夜叉と観音の差があって、其の同一訴願が、ただ秋元氏の谷村藩と江戸藩邸の別有れば、何故斯くも変わるのであろうか。予は聊か当時の情偽に考え、論断を下さざるを得ない。思うに関戸左近という人は、非常の人物であったと思われる。何となれば二名の惣代を斬刑に処し、ありとあらゆる暴圧を加えつつある場合において、同様の訴願を再び江戸藩邸に提出するのは、固よりその裁許を得るべき見込みの無いことは誰にも解る。然るにこれを表面より提出して、秋元喬朝の措置は如何と、幕閣の動きを測ったものである。而も喬朝は幕閣の重要な一員、江戸藩邸に於いては、大いにその体面を飾らねばならない。故に江戸に於いて無暗な暴圧を加えることは出来ない。
〔参考資料〕谷村藩 秋元家情報
◇延宝8年(1680)
・5月8日、四代将軍家綱菱去。
・11月14日、秋山村左近等江戸の秋元藩邸へ難渋嘆願書再提出。『治績考』
◇天和元年(1681)・24歳
・1月22日、郡内領農民代表七人秋元家失政を江戸町奉行に越訴。『治績考』
・2月25日、越訴の主謀者七名処刑。『治績考』
・4月、300石加増。従六位下、布衣を許される。
・西久保に屋敷を賜わり、家を建て、生母を引きとる。
・6月、越後松平光長改易により喬朝城請取り役に命ぜられる。
・7月12日、高田城請取のため暇のあいさつをする。十五日出発。
・11月29日、喬朝、寺杜奉行を兼任する。
・12月26日、寺社奉行の精勤に賞あり、喬朝時服六頒下賜される。
天和2年(1682)
・10月26日、喬朝、若年寄となる。『秋元家譜』
・11月2日、喬朝、松平因幡守の屋敷を賜わる。
・11月16日、喬朝、少老(若年寄)となる。『寛政重修諸家譜』。
・12月28日、駒込より出火により秋元邸類焼。
◇天和3年(1683)
・4月6日、家光三十三回忌に際し日光山に行く。羽織を賜る。
◇貞享元年(1684)
・8月、稲葉石見守正体刃傷の時、喬朝、正体を斬る。
・9月12日、喬朝、継吉より唐銅の香炉、永真筆手鑑を下賜される。
  二 訴人の磔と其惨刑
 関戸奥脇等七人の惣代は、町奉行所に於いて一と通りの取調べを受け、其訴願書に列記せる苛斂チュウ求の事情より、武田氏以来の慣例等を披陳し、更に其十数年に渉る濫刑殺虐の事実まで、洩すところなく中明し、伝馬町の獄に囚はれ居ること凡そ二十日間にして、其六人(七人の誤りと思うが原文のまゝ)の身柄は、所管主たる秋元発朝に削付され、発端は直様之を谷村の代官陣屋に檻送し、其獄舎に拘囚した。これが延宝九年二月十四日であった。是より日夜拷問の限りを尽し、七人中の一人たる羽田武兵衛は絶えてよみがえらず、其他の者も…幾度か絶えてまたよみがえり、よみがえれば雅枝交も下り、然るに十日間を閲みし、二月二十五日金井河原の刑場に於て先ず奥脇等の六人を斬罪に処し、郡内一同を代表せし関戸左近をたく刑(はりつけ)に処した。その拷問に範れたる羽田武兵衛は当時の常例により、死屍を引出し打ち首を加へたものである。此はいずれの考左も、六人の者打首となると書いてあるに依り分明である。
 此の二月十四日より、二月二十五日迄の間に、是程の重刑を処断したと云ふことは、其聞に都ての審理を終りしものとは見られぬ。この七人の惣代を礎新することは、固より江戸公邸にありし。商朝が既定の断案にして、克く幕閣要人の了解を得たるものと考へられ且つ又処刑前十日間、ありとあらゆる拷問。を加へれば、郡内一般を戦慄價伏させ、再び是等の問題なからしむる方策と認めらる。





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最終更新日  2021年12月14日 15時06分57秒
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