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2021年12月17日
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カテゴリ:甲斐武田資料室

信玄と高野山  前島正吾氏著

 

  中部文学 第四号

     定価三〇〇円

  甲府市丸ノ内 一瀬稔方

編集所 中部文学社

  昭和四十五年七月発行

 

高野山に信玄の菩提寺があることを知る人はすくないであろう。私も偶然八堂伽藍の中に有名な大搭のある塔のある前通りの店でタバコを買いながら、さて五十三ある宿坊のうちいずれかうちいずれに宿を定めようかと迷っていたので、それとなく店主に聞いてみると、この裏の桜地院が武田信玄の菩提を祀ってある寺であるとのこと。

喜んで案内を乞うた。山門を入ると執事さんが出迎え、甲斐の甲府から来たことを告げると非常に喜び、東書院の間に通された。上客の泊る部屋なのであろう、広縁からは山水庭園が拡がり、どこからともなく滝の落ちる音が聞こえ、ガーデンスタンドに柔らかく照らされている地面には緋鯉が泳ぎ、笹の葉に宿っている雨滴がきらきら光っている。

黄土色の壁面を何気なく眺めていると、順にかかっているうす墨のあとに吉井勇と確かに読みとれる字が残っていた。食事を運んできた小僧さんに聞いてみると、この部屋は生前、吉井勇が作歌のためよく訪れ、愛した部屋であったと言う。僕は偶然の僥倖に感謝しながらふと短歌への郷愁のようなものを感じ、生れて始めて次の一首を記してみた。

 

いまはなき祗園歌人の泊りし部

 屋の壁に残りしうす墨のあと

 

高野の精進料理の淡白な味は忘れがたいものがある。高野豆腐をつきながらの酒の味もまたひとしおである。特に小柴松茸と呼ばれる吸物の香り高い匂いは、身に沁みわたるようであった。

 旅の夜もの思ひっつ酌む酒に

  小栗松茸の秋を飲み干す

 霧はれて高野の朝のさやかなる

  大塔の鐘 読経の声

 

 六時大塔の鐘が高野のしじま破るように鳴り響くと、本堂から読経の声が静かに流れ、さわやかに目覚めた。

朝食をすますと、執事さんが一般客とは応待しないことになっている住職の部屋に特別に案内してくれた。

住職の蕃野さんは温顔をほころばせて、信玄と当寺の由来を話してくれた。

 

甲府駅前にある信玄公銅像が本寺の秘宝 重要文化財、室町時代長谷川信春(等伯)の筆による信玄公肖像画を懇望され、模したものであることを聞き、思いを新らたにした。

本堂には阿弥陀如来持仏堂に毘沙門天が安置され、右側の位牌棚にはひときわ大きな恵林寺殿磯山玄公大居士と書いてある。信玄公と並んで勝頼の位牌も安置され、信虎をはじめ武田一門歴代の位牌も並んでいる。

 信玄は高野への入山は果せなかったようであるが、代参は幾人か送り、甲斐国菩提所と指定し、信虎・勝頼は入山したことが墓参帳に記されているという。

本尊阿弥陀如来像の前に坐す。

 

滅せよと滅し滅Lて滅せよと

    語りささやく古仏のまねき

 

  この道は思ひ思ひてつき果てし

    思ひ滅してきわまるところ

 

人間は笑うべきもの彼岸より

    此岸をみればすべてはかなし

 

 金剛峯寺を経て一の橋から奥の院に至る約二キロに及ぶ巨大な杉並木に沿って、十万を越すであろうといわれる墓石がひしめき並び、ところどころに石仏がひっそりと佇んでいる。

 

うす紅を染めし落葉の降る里の

    荒れたる野辺におわす石仏

  苔むせる吉村の墓の並ぶ道

    杉の巨木は時雨にこもる

 

一の橋から中の橋の中問点のあたり、右側に和歌山県史蹟指定と書いてある信玄・勝頼の墓所があった。無縫場(卵塔)といわれる丸い石に屠場が乗せられ、苔むした墓碑には恵林寺殿(信玄)法泉寺殿(勝頼)ときざまれ、天正元年四月十二日、天正十年三月十一日とそれぞれの命日が記されてあった。

 驚いたことには信玄の右前方の杉小立の中に、上杉弾正少弼と記されている謙信の墓が、恰も川中島の合戦で対峙した如く両雄相向っていたことである。

 

死してなお高野の山の杉小立

   へだてて向う両雄の墓

 

奥の院は弘法大師が寂滅した霊地である。大師廟のまわりには樹齢六百年の天然記念物に指定されている杉の巨木がうっ蒼と繁り、おりからの時雨に高野独特の朽葉色の濃霧が樹間を流れてゆく。千二百年の時間が一瞬凝縮したかのようであった。

 

くち葉色高野の霧は千年を消して

   大師の心空のまにまに

 

有名な女人禁制の関所女坂から小動坂へ技ける峠に立って、海抜一、〇〇〇米の霧削にけむる高野の町に別れを告げた。

 

ここからは 恋もおわりの女坂


   高野山 信玄像




 これは模造品





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最終更新日  2021年12月17日 16時20分41秒
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