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2021年12月21日
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カテゴリ:甲斐武田資料室

甲陽軍艦 品第五十二 長篠合戦

 

(『武田流軍学』吉田豊氏著 『甲陽軍艦』原本現代訳 発行者 高森圭介氏)

 

〔読み下し〕

其後勝頼公、信州より、遠州平山越を御出あり、三州うり谷と云ふ所へ、御着被一成、長篠奥平籠居たる城へ、取懸御せめなされ候に、家康後詰ならず、結局山県三郎兵衛に、おしつめられて、悉く塩を付られ候ゆへ、信長引出す。

其使は、家康譜代の旗本奉公人、小栗大六と申者也。二度の使に、二度ながら、信長出まじきとの御返事也。三度に、家康小栗大六に申付らるゝは、

「信長公と起請を書、互に見つき申べきと、申合侯ごとく江州箕作より、此方若狭陣、姉川方々へ、我等も加勢仕り候、此度信長公、御出なくば、勝頼公へ遠州をさし上我等は、三河一国にて罷有侯はば、誰今にも、四郎殿と無事申べく候。左候て、信長今一度長篠の後詰、無御座を付ては、申合候起請、そなたより、御破なされ候間、是非に及ばず、誓段を水に仕り、勝頼と一和して、先をいたし、尾州へうちて出、遠州の替地に、尾張を四郎殿より、申請べく候。さるに付て、四郎殿を、旗本にて、我等はたらき、出る程ならば、恐らくは、十日の間に、尾州は、此方へかたづき申べきと、存候へ共其儀しろく申事は無用、大形聞知り給ふやうに、矢都善七迄、申理(もうしわけ)侯へ」

と、家康小栗大六に被申越候。

又信長家老毛利河内、佐久間右衛門、加勢に参り候へども、三州長沢より、此方へ出る事ならず候。

さる程に、小栗大六、岐阜へ罷越、此趣をば、おしかくし、たゞ信長殿、御旗本を、出され候やうにと、申候へども、三度目の使ひに、出まじきとある儀也。

そこにて、家康使の右の奥意を、矢部善七に、粗(あらまし)申渡す故、信長出る也。又さすが大身の信長も、若き勝頼公を、ふかみ(重く見てと)、出かねられたるとは。其後熱田大明神へ参詣有て、なめかたの謀有。是にても諸人勇なし。

かくて長篠へ着て、軍の評定し給へ共諸人弥勇(いよいよいさま)ざれば、酒井左衛門尉に、夷くいの狂言を被仰付。此者聞ゆる名人なれば、甲を脱て高紐にかけ、誠に面白く舞済し、鼻をかみ引入時、諸軍一度に、どっと笑、此勢を以、明日の合戦談合有所に、右の左衛門尉かけ出、今夜九里の道を廻り、鳶ケ巣へ押懸、一戦を遂ば、明日の御一戦必勝也と申、信長公大に瞋(いかり)給ひ、今日本に、信長、家康出合、軍の詮議仕中へ、匹夫の身として、推参也と、散々悪口はき散して、小用有振にて立給ひ、物影へ酒井を招、天下一の謀也、今此辺の者共、一石の米を六斗は、武田方へ運ぶ折柄なれば、態こそ悪口したれ、金森五郎八を召連、早速打立候へとて、元の座席へかへらるゝ。此事共、合戦過て後、五十日の内に聞えたり。

 

〔訳、原本現代訳『甲陽軍艦』〕

甲陽軍艦 品第五十二 長篠合戦

(『武田流軍学』吉田豊氏著 『甲陽軍艦』原本現代訳 発行者 高森圭介氏)

 

◇勝頼公は信州から遠州平山越えに進み、三州のうりという所にお着きになって、長篠の奥平(九八郎貞昌)のこもる長篠の城を囲み、お攻めになった。

◆家康は、支援にかげつけようとしたがならず、結局は、山県三郎兵衝の軍に妨げられて、相ついで合戦に敗れたため、信長の軍をひきだした。その使者は家康譜代の旗本の奉行人小栗大六(重常)という者である。二度にわたる督促の使いにも、二度とも信長は応じないという御返事である。

そこで三度目には、家康は小栗大六に申しつけた。家康は信長公と誓約を交わし、互いに助け合うとお約束申したとおり、江州箕作の戦い以来、若狭・姉川等あちらこちらで加勢申し上げてきた。この度、信玄公の御来援がないならば、遠州を勝頼公に進呈し、我らは三河一国に甘んじることにより、只今にも勝頼四郎殿と和睦をいたします。この度、長篠城への御支援がないということについては、これまでの誓約は、そちらからお破りなされたわけでありますから、やむなくお約束は水に流し、勝頼と結んでその先鋒をつとめ、尾張へ討って出て、遠州の替地に尾張を攻めて勝頼殿から尾張をいただくことになります。そこで、四郎殿を総大将として、我らが戦うならば、おそらくは、あっという間に尾州の国はかたがつき、きっとこちらのものになろうかと存じます。

といった意味のことを、明らさまにいうことはないが、しかし信長公の耳にあらまし聞こえるように、矢部善七(康信)に向かって確かに伝えるようにと、家康は、小栗大六に申しつけた。

なお、信長の家老、毛利河内(秀頼)、佐久間右衛門(信盛)も援兵に出ていたけれども、三州の長沢からこちらには出ることができずにいた。そのうち、小栗大六は岐阜に到着し、いわれた主旨は伏せたまま、ただ信長公の御旗本勢の御出馬をお願いしたいと申し述べたが、三度目の使いにもやはり出る考えはないとのことである。

そこで家康への使いとして右の真意を矢部善七にあらまし申し渡したので、信長は出陣した。さすが大身の信長も、若い勝頼公が強気なので、出兼ねておられたのだったことは、合戦が終わって五十日のうちにうわさとなったことだ。

◇さて、その長篠において、武田の家老の馬場美濃、内藤修理、山県三郎兵衛、小山田兵衛尉、原隼人その他の老若すべての人々が、「御一戦なさることはこれ以上無用です」、といろいろお諌めしたけれども、御屋形様勝頼公と長坂長閑、跡部大炊助とは合戦を決行してよいと決められた。

御屋形この時三十歳で若かったので、それをもっともと思われ、明日の合戦はもはややめられぬと、武田累代の御旗と楯無しの鎧に御誓言なさった。その後はだれもが何も申し上げることもできず、三州長篠において、

天正三年(1575)乙亥五月二十一日に、勝頼公三十歳の大将として、

その兵力一万五千人、

敵は信長四十二歳、その子息城介殿(信忠)二十歳、その弟(織田信雄)十八歳、

家康三十四歳、その子息(松平信康)十七歳、

兵力は信長、家康の両軍合せて十万で決戦となった。

さて、上柵を二重に設けて、要害を三つかまえて待ちうけているところへ、勝頼公は一万二千の兵で攻めかかって攻防の一戦がなされたが、武田方が全面的に勝利した。

それは、馬場美濃守が、七百の兵で佐久間右衛門の率いる六千ばかりの軍を柵の中へ追いこみ、追い討ちに二、三騎を討ちとる。

滝川(一益)の兵三千ばかりを、内藤修理勢が千ほどの兵で柵の内へ追い込んでしまう。

家康の軍勢の六千ばかりを山県三郎兵衝が三千五百の兵で柵の中へ追いこむ。

けれども家康軍も強敵だから再び突進して来る。

山県勢は味方の左側の方へ廻り、敵が柵の木を仕立て無い右方へ進攻して背後から攻めかかる態勢をみせたのを、

家康勢も察して、大久保七郎右、衛門が蝶の羽の印の差物(鵡欄敵)をかざして、大久保次右衝門は釣鐘の指物で兄弟だと名乗りあげて、山県三郎兵衝衆の小菅五郎兵衛、広瀬江左衛門、三科伝右衛門の三人と声を発しながら追いつ追われつ九度の攻防が繰り返される。

九度目に三科も小菅も傷ついて退く。さらに山県三郎兵衛が鞍の前輪のはずれた所を、鉄砲で前から後へと打ちぬかれてそのまま討死したのを、山県の被官であった志村が、首を甲州へ持ち帰る。

そのあと甘利衆も一接戦あり、

原隼人衆も一戦あり、

跡部大炊助も一せり合い、

小山田衆も一せり合い、

小幡衆も一せり合い、

典厩衆も一せり合い、

望月衆も安中衆(安中左近)も、いずれの軍蟄も戦闘で皆柵際へ敵を追いつめて勝利した。

甲州武田勢の中央の軍と左翼の戦いは以上のようなものである。

さて右翼の方は、真田源太左衛門(信綱)、同兵部助(真田昌輝)、土屋右衝門尉(昌次)この三将で、馬場美濃衆と入れ替わり戦ったが、上方の軍勢は家康衆のようには柵の外へ出て来ないので、真田衆が攻めこんで柵を一重破って突進した、そのためあらかた討死してしまった。あるいは何とか重傷のまま引き下った者もいたが、

その中の真田源太左衛門兄弟はともに深手を負ったまま討死した。

次に土屋右衛門尉は、先月の信玄公の御葬儀では追腹(殉死)をはたそうとしたが高坂弾正に意見されて、このような合戦まで待てと言われたにつき今まで命ながらえてきた。今こそ討死するのだと言って、敵が柵の外に出て来ないので、自分から攻め込んで柵を破ろうとし、そこで土屋右衛門尉は三十一歳でそのまま討死となった。

馬場美濃守のひきいる七百の部隊も、あらかた負傷して退き、または討死して残るは八十余人。美濃守自身は軽傷も負っておらず、他の同心や被官たちに早く退けとすすめなされたが、さすが武勇の武田勢ゆえ、美濃守をさしおいて退こうとはしない。

穴山殿は戦闘を交えることもなく、退く。

一条右衛門大夫殿(信竜)が馬場美濃守の近くに馬を乗り寄せて一所にいるとき、一条配下の同心和田という者は、三十歳ほどであったが、合戦慣れのした利口な武者ゆえ馬場にむかって、下知をなされるようにという。馬場美濃守はにっこりと,笑ってそれを聞き、命令するとすれば退くよりほかはあるまい、と退却を始めた。しかし、御旗本隊が退くまでは、馬場隊も退かず、勝頼公の「大」の字の御小旗が、敵にうしろを見せたのを見とどけてから馬場美濃も退かれた。

そのあとは一条殿も他の軍も退きなされた。

だが馬場美濃守は、いったん退却しながらも長篠の橋場までくると少しもとへ引き返し、高い所にあがって、我れこそは馬場美濃という者なり、討ちとって手柄にせよとまことにみごとに名乗る。敵兵四、五人が鑓を取って突きかかるのに刀に手もかげず、この歳六十二歳で討死をとげる。

これは、勝頼公にこの合戦を思いとどまられるようにと意見したとき、この美濃守の意向をお聞き入れがなかったので、そこで長坂長閑、跡部大炊助にて、合戦をおすすめするおのおの方は遁れることがあろうとも、おとどめ申す馬場美濃はおおかた討死をとげるのだ、と述べた、そのことば通りであった。

ここで勝頼公につき従っていたのは、初鹿伝右衛門というこの年三十二歳の者、土屋惣蔵その年二十歳の二人が御供であった。土屋惣蔵は若いけれども剛強な根性があるから、兄の右衛門尉をたよりなく思って、かわりに二度かばって後退する。勝頼公は土屋惣蔵をふかくいたわっておられたから、二度とも御馬をとめて惣蔵を先にやりすごしながら立ち退きなされる。

その次に典厩の歩兵三十ほどと、馬乗三騎の将が後退したが、幌を着けていなかったから勝頼公は声をかけられた。金地金泥の幌に四郎勝頼と我らの名を書いて、信玄公の御時には先鋒をつとめたものだったが、今は我らが屋形の立場にいるから、その線を典厩に譲った。これを捨てなされば、譲るのは内輪のこと、勝頼が指物(標識)を落して逃げたといわれては、信玄の一代の名誉と御名をよごすことになる。とくに武田家、二十七代までのうちで勝頼一人が不孝をしたことになる。だからこの幌を捨てては退くわけにはいくまい、

と仰せられたので、初鹿伝右衛門は典厩の所へ乗り寄せこの由を伝えると、さすがは武田の武者、旺盛に戦って幌串をひろい、典厩の御供の青木尾張という者がこの幌衣をひろって首に巻いてもってきて伝右衛門に渡した。これを伝右衛門は請けとり勝頼公にお目にかけると、勝頼公はそれを御腰にはさんで立ち退かれた。伝右衛門はこの間、御使いに参上し、往復五六町働き廻ったが、そのうち勝頼公は御馬をとめられた。それは御馬がくたびれて動かなかったので、初鹿伝右衛門が御馬に声をかけて進めようとしたのだが、昔から今にいたるまで武勇の大将の敗け戦には、えてして馬も進まぬものなのだ。

そんなところへ笠井肥後守(河西満秀)という、信玄公の御代から旗本において指おりの剛強な武者が、どこかで勝頼公の御馬が動かなくなったと知って馬を速めて駆け付けてきて、馬からとび降り、この馬にえさを与えるからと言う。

勝頼公が言われるのに、そんなことをしていると、そなたは討死してしまうぞとの御言葉に、ものともせず、肥後守の命は義理よりも軽いことです。この命は主君への恩の為にさしあげます。我らの倅を以後取り立てていただければそれで満足、と言って屋形(勝頼公)を馬にお乗せする。自分は屋形の御馬の子綱をとって誘導いたし、それから元の戦場に一町ほどもどってから討死した。

さて信玄公が勝頼公へ御譲りし扱いを許しなされた、諏訪法性院上下大明神と前立に書かれた甲は、信玄公が御秘蔵になされていたから、諏訪法性の御甲、とこれを呼ぶ。この御甲を勝頼公も御秘蔵されておられたけれども、五月の頃とて暑いため、初鹿伝右衛門に持たせておられた。伝右衛門はあわただしく急ぎのあまり、この甲を捨ててしまおうというわけで捨てたのだ。けれども小山田弥助という武士が、あとからこれを見つけて、名高い御甲を捨てるのは何としてもといって持ち帰った。このように何も残さない心意気、義理深い剛強な心というのは、ひとえに信玄公の御威光が強くしみわたっているたまものである。 

御他界は天正元年酉の年だけれども、天正三年乙亥五月までの三年間は、ともかく強かったことは以上の通りである。これは勝頼公三十歳の御年のことで、三州長篠の合戦をいうのである。

甲州方は、侍大将、足軽大将、小身な兵まで、また剛強な武士とことごとく討死した敗北の合戦であった。

討死した将は、

馬場美濃守、

内藤修理、

山県三郎兵衛、

原隼人佐、

望月殿、

安中左近、

真田源太左衛門、

真田兵部助、

土屋右衛門尉、

足軽大将の横田十郎兵衛で、他はまた追って記したい。

城伊庵 (城景茂)は深沢(御殿場)へ、小幡又兵衛は足助(愛知県)へ出動していたから、この両人は足軽大将として残った。 

御飛脚がたてられてすぐに甲府へ呼びもどされた。

 

甲州勢がこの合戦で少勢だったのは、越後の謙信から前年(天正2年)の十二月に、一向衆長遠寺(長延寺住職)を経て勝頼公に御断りがあったのによる。それは、遠州・三州・美濃の三カ国を制圧しつつ来春、勝頼公は御上洛なされよ、謙信は越前から上洛をめざすから、というのであった。が、勝頼公が承諾した旨の御返事をなさらなかったから、輝虎が立腹されたのだった。

さらに東美濃、遠州の域東郡で、勝頼の先鋒が見事だと聞いて、謙信が信濃へ進攻しないのは勝頼公を恐れてのことだ、などと諸国から言われてはと考えて、信濃へ手をだすかもしれないと内々考慮しているとの報もあって、一万余の信州勢を高坂弾正に任せて越後のおさえこみに置きなされたからだった。だから勝頼公の総勢は、長篠へは一万五千で出陣なされたのである。

その中でも長篠の奥平貞能のおさえに二千の兵をさき、鳶巣山には、兵庫殿(武田信実)を大将にして、浪人衆、雑兵千人で、名和無理介、井伊弥四右衛門(飯尾助友)、五味与三兵衛(高重)の三人を頭にして差し向けておいた。この方は一人も残らず兵庫殿をはじめあらかた討死であった。このように一万五千のうち三千の兵を失って、信長、家康勢に向うのはただ一万二千ということになったのだった。

 






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最終更新日  2021年12月21日 21時09分27秒
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