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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年12月29日
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       縁故節のルーツをさぐれば・・・・

 

島原の子守唄と後家唄の影を知る

 

詩人 竹内秀秋氏著(『甲州人人』昭和52年7月号)

 

縁で添うとも 縁で添うとも

柳沢は嫌だよ

   アリャセー ‐コリャセー

女子木を伐る 女子木を伐る

萱をを刈る

   ションガイナー

 

いよいよ盆踊りの季節である。この「甲州縁故節」は、北巨摩郡武川村を中心に歌われてきた盆踊り歌である。

明治の初め頃は、

  サァーサ エグエグ

  サァーサ エグエグ

  馬鈴薯はえぐいね

   アリャセー コリャセー

  中で青いのは 中で青いみは

  なおえぐい

ションガイナー

 の歌詩で歌われ、当時は「エグエグ節」と呼ばれていた。

 それがいつしか「縁故節」となり、今では甲州の代表的な民謡となって、多くの県民が愛唱している。そのメロ

ディーは単調で、哀愁がただよい、歌詞の内容からは当時の世俗が切々と胸に伝わってくる。

 ところで、この「縁故節」が「島原の子守恨」の旋律と似ていることは、衆知の事実として、その道の研究家で

ある諸氏が、それぞれこの点を指摘している。

 先頃、福岡県の作家・山下郁夫氏から突然、この類似した旋律についての質疑を便りで受け取った。

 「島原の子守唄」は、九州・島原の盲目の詩人で、吉川英治賞を受けた宮崎康平氏(『幻の邪馬台国』という本をあらわした著者でもある)が作詞・作曲したという。「野ばら社」発行の「日本の民謡」や平凡社発行の「太陽」にも、宮崎康平氏の作品であることが記されている。韮崎市の植松逸聖氏も、この辺を調査確認している。

 島原のこの歌詞は、妻に逃げられた宮崎氏が、子守りをしながら考えて作詞し、作曲も自分であることを、某日、ある講演の席で発表したそうだ。

 ところが、たまたまある時、千葉県内で、山下郁夫氏が友人である林清継氏(東山梨郡牧丘町出身)と酒席をともにしたさい、この「島原の子守唄」が話題になった。その席上、林清継氏は「九州の子守唄と全く同じメロディーの子守唄が山梨県の田舎にもある」といって、夫婦で唄ってくれたようだが、その旋律は「文字通りそっくりで驚いてしまった」と、山下氏はいう。

牧丘町出身の林氏が唄ってくれたのは「山梨の甲府・相浦地方の歌」だったらしい。甲府・相浦地方とは、現在の申府市相川地区のことだろうと、筆者は思う。

一、ゆんべや

  おかしかった おかしかった

  地蔵堂の林でョ

  ひとり帯をとく

  ひとりメメねるョ

  ションガイナー

  おろろん おろろん

  おろろんばい

二、こんやは

来とくれんけ 来とくれんけ

お父やんな 留守でヨ

お母やんな 鳥目で

  おばあやんは つんばだヨ

早よ来て 早よ寝ろ

おろろん おろろん

おろろんばい

 

この歌詞はおそらく「夜ばい」の風習を唄ったもので、「縁故節」の替え歌ではなかろうか。山下郁夫氏はさらに「私は、宮崎康平氏が山梨地方にある民謡を盗作したとは思えません。しかし、同じもの(メロディー)がどうして二つの地方にあるのか不思議でなりません。島原の乱の残党が甲斐の国に行く筈もないが……」と、小首をかしげている。

 

その辺の接続について、植松逸聖氏は雑誌「中央線」の10号で大要次のように記している。

 

山梨県に大小切騒動が起き、土肥県令が土民に屈服したという情報が維新政府に入ったので、政府は明治五年三月、暴動を鎮圧させるために、富岡敏明氏を山梨県指参事として派遣した。大小切事件は、彼の手腕によって、問もなく平静に帰した。そして翌六年一月、大阪府参事の藤村紫朗氏が土肥県令にかわって山梨県指令として着任した。

 彼の施策のIつが、今の中央線日野春駅付近の通称「ひのっ原 日野春」を開拓して、ここに職を失なった生活苦に喘ぐ下級武士を入植させ、生活安定策として麦、桑、馬鈴薯などを栽培させたこと。このさい、指導監督に当ったのも富岡敏明氏であり、その功績によって同「ひのっ原」に富岡氏の苗字をかぶせ、同地区を「富岡」と名付けた。

(中略)

 富岡敬明氏は明治九(一八七六)年に、山梨県権参事から熊本県権令(後に知事)へと栄転し、その後、熊本県知事を退職。そして、退職した翌年には、西山梨郡里垣村(現在の甲府市善光寺町)に帰ってきている。

 富岡氏は、肥前佐賀・小城藩の家老だった神代利温の二男として、文政五年(一八二二)年十一月八日に誕生。幼

名を佐次郎といった。十歳の時、鍋島藩の勘定方重役である富岡惣八の孫娘ツワと養子縁組をし、富岡姓にかわった。若い頃は富岡九郎左衛門敬明といったそうである。

 こうした植松氏の資料から推察すると、肥前佐賀生まれの富岡氏が、日野春駅付近を開拓する指導監督時代に、同メロディーを持ち込み、それに現地の人たちが歌詞をつけたのが「エグエグ節」ではなかろうか。

 一方、「島原の子守唄」は宮崎康平氏の歌詞(作曲の方は断定できない)であるところから、その誕生の日は浅い

わけだ。こうした点から、植松逸聖氏は「島原の子守唄」の作詞と作曲を別のものと考え、旋律の方は「天草の後家唄」に似ているとみる。

 「天草の後家唄」は、何時頃、どこで作られ、どこで唄われてきたか明確ではないが、この「後家唄」は長く尾を引き、沈んだようなメロディーで、「悲惨だった天草の過去の歴史が、この歌に結びついている」といわれる。

 

天草海こしや天草で

ションガイナー

私しや天草 私しや天草

二十後家よ

 

来たときや

寄っちょくれんな

あばら家じゃ アルバッテン

冷たか 焼酎ナット

冷たか 焼酎ナット

温ためて ションガイナー

私しゃ天草 私しゃ天草

三十後家よ

 

来たときや

寄つちょくれんな

あばら家じゃ アルバッテン

冷たか 布団ナット

冷たか 布団ナット

温ためて ションガイナー

私しゃ天草 私しゃ天草

四十後家よ

 

これが「天草の後家唄」の一部だそうである。この歌詞の、

 

  来たときや 寄っちょくれんな

あばら家じゃ アルバッテン

冷たか 焼酎ナット 温ためて

   ションガイナー

 

という一節と、山梨の「粘土節」である次の、

  来たら寄っとくれよ 

あばら家だけんど 

ぬるいお茶でも 熱くする

ションガイナー

 

 という部分の意味合いが、なぜか共通しているのも奇縁のようである。

 もともと、民謡は上着民族の貧しい叫びであるから、全国的にも血のつながった感情が普通的に唄われていたとしても、それは当然かもしれない。あるいは、天草という島国と、陸の孤島のような甲斐の山国の、閉鎖的な環境がなせる故でもあろうか。

 現在、歌い継がれている「縁故節」は、韮崎の花柳界から広まったとの一説もある。昭和初期までの韮崎には十軒ぐらいの芸者置屋があって、米とか繭の産地として栄えたところだ。

この「縁故節」は昭和三年ごろ、韮崎郵便局長の柳本五郎氏、同じく韮崎の歯科医だった小屋忠子氏、穂坂の平賀文雄氏らによって、今日の形になり、世に送り出されたのである。

 昔の盆踊りは、現在のようにレコードで踊るのと違って、すべての人々が生の声で唄ったものである。しかも、歌詞は年ごとに新しく創作され、盆踊り大会では、その美声と歌詞の良さが競われ、賞品などもたくさん贈られた。韮崎の盆踊りで、その頃、審査員をしたことのある池田一布(韮崎)、一瀬幸吉(市川大門)両氏の口伝が、それを如実に物語っている。

 「縁故節」をはじめ「粘土節」など甲州の代表的民謡は、こうした数多い歌詞の中から庶民の手で選ばれ、愛唱され、現在の民謡の形態を生み出したと思われる。ただし、メロディーそのものは、人の流れとともに各地に流れ運ばれる傾向にあるとすれば、歌詞がその地方、地方の庶民生活を、いや歴史的な背景を反映する手づくりのものだけに、全国各地に共通した民謡が多く点在したとしても、それなりに頷くことができる。「島原の子守唄」と関連する「甲州縁故節」の由来も、そう解釈すれば、不思議でもなんでもなかろう。

 さて、冒頭に書いた「縁故節」の、

  

縁で添うとも 

縁で添うとも 

柳沢は嫌だよ

 

 というくだりは、近村部落の人たちが柳沢の里人を囃し唄った一節であろうし、また、

 

この子いなぼこ (赤ちゃん)

この子いなぼこ 

縁つなぎ

 

 の方は、夫婦愛の亀裂も「子はかすがい」の諺のごとく、子供の存在によって「縁つなぎ」が可能だという表現でもある。

 余韻あふれる「縁故節」の一節には次のようなものもある。

 

河鹿ホロホロ 

河鹿ホロホロ

釜無しよ下りやよ

   アリャセー コリャセー

鐘が鳴ります 

鐘が鳴ります

七里岩

   ションガイナー

 

この歌詞には、隠れた語源があるという。つまり、背景に物語があったわけである。

 

《北巨摩の某寺の住職が遊興費欲しさから、自分の寺の釣り鐘を韮崎の大店「布屋」に入質。ところが、それを受け出すことができず、とうとう質流れにしてしまった。それから幾歳かが過ぎて明治初期ごろ、その釣り鐘を所持する「布屋」の小林一三氏の一族が再び世に出そうと、当局に寄進したため、七里岩の先端にカムバックしたのである。

 七里岩に建立された釣り鐘は、それからは心豊かに、朝六時から夜八時までの一時間置きに、韮崎の里に鳴り響いた。当時は、鐘撞堂守によって鐘撞料が韮崎の家ごとから集められ、維持されたという。しかし、その釣り鐘も第一次世界大戦時に応召の浮き目に会い、いずこともなく姿を消してしまった》

 

 おそらく、この間、三十余年の歳月を経た「鐘の響き」であったであろうが、今は、ただ「縁故節」の一節に名残りをとどめるのみ。いささか、深い郷愁を覚える。かつて、童謡「花かげ」の作詞者・大村主計氏が「歌は世につれ、世は歌につれ……と、歌の裏側には常に、その時代が敏感に反映されている」といったが、そのことに強く共感する私である。

 

〔編集部注〕 

「粘土節」どは「粘土(ねんど)お高やんが来ないなんていえば、広い河原は真の闇」の一節で有名な甲州の民謡のこと。ゆえに、通称では「粘土おたかやん」ともいう。

 サンニチ編の「山梨百科事典」によれば、「粘土節」のいわれは次のようになる。

 

明治初期の頃、釜飯川の信玄堤を改修するさい、工事がなかなかはかどらないので、村の長老たちが美声で歌の上手なお高を工事現場に連れてきた。お高が土手の粘土をつき固めながら歌を唄うと、若者たちはうっとりしながらも大いに働き、工事は予想以上にはかどった。しかし、お高が工事現場かたち去ると、仕事は再び遅れてしまったという。工事現場は開国橋~田富町間で、娘たちは粘土つき、男たちは石を運ぶ作業だった。お高の、そんな評判を聞きつけ、時の山梨県令・藤村紫朗も現場を視察したらしい。






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最終更新日  2021年12月29日 14時56分54秒
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