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2021年12月29日
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佐久の牧 山梨県の牧との類似性は?

 

紹介資料 『佐久市誌』第五章 佐久の奈良・平安時代 一部加筆

 

 山梨県の古代御牧(勅旨牧)については長年研究してきたが、地名比定と僻地比定が主であり、また詠まれた歌の紹介によって、今では仮説や妄説さえも歴史の一角に入っていて、紹介する人や本も殆ど同様である。

 牧の成り立ちや遺跡遺構を求めて長野県の佐久地方を数年にわたり探索した。柳沢氏のこと、武田遺臣の足跡と如何に佐久が山梨との繋がりが深いか実感した。

 そうした中で、軽井沢図書館で、『佐久市誌』を拝見する機会を得て、その内容に唖然とした。山梨県とは違い、遺跡や遺構を中心に牧を位置づけている。山梨県ではこうした取り組みをした歴史家や学者は皆無である。山梨の三代御牧も「穂坂牧」「真衣野牧」「柏前牧」も和歌の世界や現在残る地名比定が盛んで、中にはその地域を長野県にまで拡大している研究者も居られる。その遺跡と称する所も説得できる内容ではない。

 私は『佐久市誌』のように当時の行政・生活・管理者と携わった人々などから、山梨県の御牧も解明するべきである。山梨県の大半は巨摩郡であり、多くの渡来人が御牧に関与していると考えられる。

  

佐久の牧 

 

紹介資料 『佐久市誌』第五章 佐久の奈良・平安時代 一部加筆

 

 馬に乗った有力者と牧

 

 縄文時代の遺跡から馬の歯などが出土していて、日本列島にも古くから野生馬がいたことがわかる 有力者と牧 が、その体格は小さく、乗用に利用できるようなものではなかった。古墳時代中期になると、墓の副葬品に馬具が出土するようになる。

五世紀後半からはf字形や剣菱形の杏葉、鏡板付の轡など新式の馬具を加えて、金銅張りの装飾性の優れた馬具が多く出土してくる。北九州や菊池川流域の装飾古墳の壁画には、騎馬の図や馬を扱う絵が多く、なかには舟にのった馬もいる。これらをみると、日本では四世紀にはすでに、大陸から乗馬の風習を学んでいるものと思われる。

五世紀前半の馬具はほとんど大陸よりの輸入品である。『日本書記』応神紀十五年の条には、百済王が()()()を遣して、良馬二疋を献じたので、阿直岐に命じて、軽坂上の既に飼わせたとある。

大和朝廷は朝鮮半島を介して、しきりに良馬を輸入し、馬飼育の技術者と技術を導入して、馬の品種改良と、繁殖に努めた。

四、五世紀のころ日本は朝鮮半島で、騎馬戦に優れた高勾麗と戦って、騎馬の重要性を認識し、馬飼部を設置して、馬の飼育・調教にあたらせたが、馬飼部には渡来系人民を当てた。馬飼造らは大和・河内・筑紫などそれぞれの地域に馬飼部を移し、馬飼部の村を形成させた。

 

佐久地域に馬具を副装する古墳が出現するのは六世紀後半で、その分有を地域的に大別すると、つぎのようになる。

 1 佐久平西部地域、望月町・立科町・浅科村など

  望月町 山ノ神一号墳、轡四・刀装具二〇・鉄鎖五三

   山ノ神三号墳、六世紀後半 石室胴張り 轡(素環鏡 板付)

辻金具三・()()・杏葉・直刀三・鏃八冑片一恵器坏(えきつき)土師器(はじき)

  山ノ神(大字協和宇山ノ神)四号古墳、轡一・下高呂七号古墳(下高呂)、馬具

   柳沢三号古墳(布施百沢柳沢)、馬具

 立科町 正明寺古墳(芦田峠反り)、轡・雲珠・銅(くしろ)

 浅科村 土合一号古墳(下原土合)円墳、横穴武石室(胴張り) ガラス小玉六一子

・丸玉一九・勾玉九(内瑪瑙製 七)・碧玉製管玉五・水晶製切子玉四

・直刀一六・円頭柄頭・銀象嵌鐔(がんつば)轡などを出土する。

この古墳は六世紀中ごろに築造され、七~八世紀に追葬がおこなわれている。

   久保畑古墳(桑山)、轡・円頭柄頭・銀象朕鐸

   上平の塚古墳(御馬方)、馬具・血刀・玉類

 小諸市 宮の前古墳(耳収宮の前)、馬具・血刀

2 佐久市西南部、犬沢・岸野地区

  城山二号墳(大沢小学校敷地)、馬具・その他

  西東山古墳(根岸下平)、馬具・血刀五・その桂

  ウバ塚古墳(根岸)、馬具・その佳

3 佐久市北部

  東一本柳古墳(岩村田)、轡・杏葉・飾金具・円頭柄頭

  北西ノ久保一号古墳(岩村田)、形象埴輪・飾り馬二・裸馬一・鹿・鶏・靫・男子像・女子像

・家・犬刀・盾七  

からむし一号古墳(横根)、馬具その他

4、小諸市北部

   諸二号古墳(諸窪屋敷)、馬具・方頭柄頭・銅釧

   堰下古墳(諸大畑堰下)、轡

   立原一号古墳(諸立原)、馬具

   滝原宇宮平古墳、鉄製(つぼ)(あぶみ)(『小諸市誌』考古編)

   加増四号古墳(加増中村)、馬具

   加増六号古墳(加増中村)、轡・辻金具四

 

以上が佐久地方の馬具を副葬する古墳であるが、これによって六世紀後半には、佐久地方に乗馬をする有力な人々が入っていたこと、およびその人々の中には、(ぎん)象嵌(ぞうがん)の鐸をつけた円頭柄頭の太刀を帯び、板・雲珠・杏葉などの飾り馬具をつけた馬に乗るなど、官人的要素をもった人々がいたこともわかる。

これらの人々は、佐久に古墳時代という新しい時代をもたらすとともに、その後葬者たちは、牧馬という新しい文化と技術を開く使者でもあったと考えられる。五世紀に大和政権が種馬の輸入、馬種改良飼育技術の習得、普及に取り組むようになってから一〇〇年以上を経過している。すでに佐久地域でも小規模な牧馬は試みられていたであろう。

馬具を則葬した古墳の披葬者たちは、牧場経営の使命を帯びた大和政権の宮人(豪族)たちであった可能性がある。

 馬具副葬古墳の所存地から、その性格をさぐってみると、望月町山の神三号墳からは、飾馬具・帯金具・冑片などが出土し、武人的要素も感じられる。それに近接して、山の神一号、同四号、下高呂七号古墳などがあり、八丁池川左岸に、馬具副葬古墳の密集地帯を構成している。八丁地川から鹿曲川の間の高呂・山の神・比田井・春日本郷あたりは古墳密生地帯で、彦狭島王陵墓の伝承もある。このあたりは古東山道が雨境峠を越えてきた山麓の平地で、しかもこのさきに爪生坂の難路が控えている。ここは水利に恵まれ、生産力豊かな山間の平地であるから、人馬の休息所として好適の池であった。しかもここは雨境峠雨龍の諏訪郡芹ケ沢と対応するような位置にある。芹ケ沢には天台宗大山寺(だいせんじ)のような古寺があり、宿泊施設の存在を推定させる「大泊」地名が残る(一志茂樹著『古代東山道の研究』)。

山の神古墳を中心とする八丁池川流域付近も古東山道の要地で、川西地方の政治・軍事の拠点であるとともに、御牧原に近いため、牧場経営にあたった宮人がその活動や生活の拠点とした地域であったと考えられる。

 浅科村の布施川下流域は、望月数の所在する御牧原台地の南側山麓で、布施川はそこを東北流して、土合地籍で千曲川に合流している。その右岸には土合一号墳があって、直刀一六・銀象嵌鐔(がんつば)円頭柄頭と轡などが出土した。またその対岸の久保畑古墳からは直刀七・(かぶら)(つち)柄頭・銀象嵌鐔(がんつば)・轡を出土し、その東南方、千曲河畔の御馬寄(浅科村)上平の塚古墳からも馬具を出土している。布施川を少しさかのった百沢(ももざわ)は瓜生坂の麓で、御数原の上り口に位置しているが、ここの柳沢三号墳からも馬具が出土している。そしてまた千曲川の右岸、耳取(小諸市)の古墳からも馬具を出土している。ここは御紋原台地の東南方で、土合地核に近い。

 

このように御牧原台地の南東麓、布施川と千曲川の合流地点付近には馬具を副葬する古墳が集中している。そして土合一号墳と久保畑古墳の西方、駒込から入った人の沢からは北西、下之城(北御牧村)へ向かって、御牧原台地を貫く一直線の野馬除がつくられていて、現在もその跡をところどころにたどることができる。入の沢から駒込に向かっては、通路の(こう)(からぼり)がつくられていたものと思われる。駒寄(浅科村)や御馬寄は紋馬や貢馬を集める、牧場の中心的な施設であるから、この付近に牧場管理にあたる豪族の居住地も置かれたものと考えられる。土合・御馬寄の馬具を出土する古墳はこのような牧場関係人(官人的要素をもった豪族)のと考えられる。

 佐久平北部の千曲川東岸で馬具を副葬する古墳は、小諸市諸地区と、加増地区に集中している。(じゃ)(ほり)川をにこえた加増中村には、加増号・同六号の馬具を副葬した古墳がある。『北佐久郡志』②も『小諸市詰』①も蛇堀川の深い渓谷をもって塩野牧の西端としているから、これらの古墳の披聾者は塩野牧の設置にかかわりのある人物と推定することが可能である。

 それでは浦川区の浦二号墳・立原古墳に副葬された馬具のもつ意味はどう解釈したらよいであろうか。『小諸市誌』①は西小諸の深沢川の渓谷で、小県郡新治(にいはり)と境し、東は蛇堀川に至る間を野牧としている。しかし『延喜式』には野牧はない。野牧の名は文治二年(一一八六)二月、後白河法皇が、源頼朝知行国内の院宮領以下荘園の年貢未遂を催促したなかに、はじめて左馬寮野・長倉・坂野」とあって、このろになると塩野・長などの御と其に荒野牧があったことがわかる(『吾妻鏡』)。

したがって菱野牧の成立は、「延喜式」の完成した延長五年(九二七)以後であって、六世紀末から七世紀代の諸地区の古墳群の披葬者たちを、菱野牧の設置に直接結びつけて考えることはできない。

 しかし菱野紋が一〇世紀後半以降に新たに成立したものとすれば、それまで深沢川から蛇堀川までの間の浅間山麓の放牧敵地が、東西に佐野牧と新治牧をひかえながら、まったく牧場化されることなく放置されていたということになり不自然である。おそらくここははじめ塩野牧と同じころ私牧として開発され、やがて収公されて、塩野牧の支牧や輪牧地として経営されていたのであろう。その後平将門の乱などにみられるように、地方武士の拾頭する状勢の中で、馬寮行政の変化もあって、蛇堀川から西方は荒野牧として分離独立したものと考えられる。

そのような推量が許されるならば、諸地籍の馬具を副葬した古墳の披葬者たちも、塩野牧や菱野牧の成立に関係をもった人びとと考えられる。

濁川より東の長倉牧の領域には馬具を副葬した古墳はみられない。大和の朝廷の意向をうけて各地に開発された牧も、最初から官営の国牧や勅旨牧(御牧)として出発したのではない。官営の牧が設けられるのは、天武朝以降で、それもはやくから官意をうけた豪族たちが開発経営していた牧を御牧に指定し、接収するという形をとったものが多かったと考えられる。荒野牧の場合もそのように考えれば無理がない。

 

 岩村田

岩村田を中心とした湯川右岸の段丘上にも、馬具や馬の埴輪を出土する古墳が存在している。北西ノ久保遺跡は岩村田南部から、西南の根々井方面に向かってのびる湯川右岸の段丘上にある。ここは浅間山麓平野の南端で、広大な佐久平を一望にする位置にある。ここにある八基の古墳群のうち、第一号古墳からは、飾馬二頭・裸馬一頭、ならびに人物・武器・武具・家・鹿・鶏その他の形象埴輪が出土している。

そしてその東北方約の五〇〇m東一本柳古墳からは轡・杏葉・飾金具・円頭柄頭などが出土している。さらに岩村田の北方、うな沢端から横根に通ずる道路が、湯川を渡る手前の段丘端にある「からむし古墳」からも馬具を出土している。

 湯川の段丘上にある北西ノ久保・東一本柳・からむしの三古墳は、濁川流域の低地を囲むように立地し、とくに長土呂付近の聖原・周防畑などの大遺跡とは、南と東からほぼ等距離の位置にある。

北西ノ久保遺跡は弥生時代中期から古墳時代に栄えた集落跡と墓域を持つ大遺跡で、平安時代住居跡もある。北西ノ久保遺跡の北方、湯川沿い低地に立地する塚原丸山の濁遺跡は、倉庫敷地造成のために緊急発掘されたもので(平成四年)、地下一mの深さまで四層にわたって、須恵器と弥生式土器をともなう水田跡が検出されている。

 そこは長土呂の西南方約一Kmにあり、北西ノ久保遺跡へも同距離である。

また塚原地籍西端、浅科村境近くにある藤塚三・四号頂は佐久地方で確認されたものとしては唯一の前方後円墳ではないかとされている。これらの古墳の披葬者たちは、濁川流域の水田開発権を握って近辺の政治的支配を進め、やがて長土呂付近に進出して、佐久郡長の基礎を築いた有力者たちであったろう。

 佐久平西南部、千曲川・片貝川の沖積平野は、地味が肥えて水利に恵まれ、はやくから稲作がおこなわれ、大門下・後沢・舞台場などには弥生集落が発達していた。

この豊かな水田地帯の西南方には、蓼科山麓の広大な山林原野が続いている。片貝川畔の水田地帯に突出した、旧大沢小学校の台地にある城山二号古墳、根岸下平集落の南方台地上の西東山古墳、根岸日向集落の西北方丘陵上にあるウバ塚古墳からは、いずれも馬具が出土した。これらの古墳のある丘陵台地に接続する広大な蓼科山麓一帯は、牧場としても好適地と思われるが、古代牧の遺構や伝承はない。これらの古墳の被葬者たちは、平野部の開発をすすめ、佐久の県や刑部の設置など、大和政権の地方組織の発展に努め、その経済的、軍事的基礎育成の役割を果たしたものと思われる。県主や刑部・直などは、大化の改新後は佐久郡衙や旧仙郷などを支える中心勢力に生長していったのであろう。

 

佐久地方 牧場経営

 

佐久地方では六世紀後半には、馬に乗った大和政権の官人が現われ、政治的・経済的な開発や組織活動をおこなうと同時に、牧場の適地を選定し、牧場経営に着手しはしめたものと考えられる。わが国の種馬の輸入・改良・飼育・調教の技術、馬具の生産などは、朝鮮半島からの渡来人によって導入されたことはすでに述べたが、佐久へ乗馬で入ってきた人々については明らかでない。

 

北信地方の積石塚古墳

 

北信地方の積石塚古墳は、玄室中央部に最大幅をとる三味線のような胴張り形石室をもつものが多く、この古墳は百済系渡氷人の墳墓ともいわれている。佐久にもこれに類する古墳は少なくなく、積石塚古墳には

与良平一号墳・古熊野堂古墳(小諸市)、入の沢古墳(浅科村)、小沼下原古墳群(御代田町)、

東姥石古墳群・月崎古墳群(佐久市)

があり、胴張り古墳には

土合一号墳・火の雨塚古墳(浅科村)、加増四号墳・松井古墳(小諸市)、内山長峰古墳

・常和一・二・一五号墳・上宿一号墳(佐久市)、入沢六号墳(臼田町)がある

(土屋長久「佐久平の後期古墳群について」『信濃』二二の五)。

 

積石塚や胴張り形古墳の存在は佐久にも渡来系馬飼育の技術者が入っていることをものがたり、これらの人びとが携わっていた騎馬の生産・飼育が、やがて牧に受け継がれていったものと考えられる。

 六世紀中ごろからの朝鮮半島の政治・軍事状勢が、大和政権に騎馬の増産をうながし、『天智紀』七年(六六八)七月の条には「別に牧を置いて、馬を放たしむ」とあらわれる。これが「牧」の初見である。

 

壬申の乱以降

 

国内の戦争で騎馬が活躍し、その重要性を示したのは壬申の乱(六七二)である。まず両軍とも駅鈴を手に入れて駅馬を使用しようと争った。美濃国主稲は、私馬をもって皇駕(こうが)を奉じ、天武天皇を美濃尾張国に迎えようとした

 (『続日本紀』巻二四、淳仁天皇天平宝字七年十月条)。

当時朝廷内に保有する馬はまだ少なく、律令の規定では、奈良時代でさえ友右馬寮で飼われている馬は一二疋にすぎなかった。

大海人(おおあまの)皇子は土師連(はじのむらじ)馬手(うまて)らを東山道に遣わして、信濃の兵士徴発にあたらせた。信濃の兵が戦に参加したかどうか明らかでないが、甲斐の勇者の活動は『書紀』に記されている。

とにかく壬申の乱は、中央政権に騎馬の確保と騎兵強化の必要性を痛感させた。そしてその騎馬は貴族や地方豪族の私的武力となってはならないのである。大和政権の重要な戦力としての馬の生産と保有を、国家管理と統制のもとに置くために「御牧」(勅旨牧)の制度がとられるようになったと考えられる。

 文武天皇四年(七〇〇)三月、諸国に命じて敷地を定め、牛馬を放させた。これが諸国牧の始めと考えられる。諸国牧は兵部省の管下に置かれ、諸国の軍団の馬を飼育することを目的とした。信濃国牧は国府付近の小県郡真田町一帯の地を想定する説が有力であるが、国牧主當(牧監)に伊那郡の金刺舎人八磨(かなさしとねりはちまろ)がなっているので(『類衆三代格』一八)、金刺舎人のいた伊那郡にも国牧が置かれていたことは確かである。

軍団には兵士一〇〇〇人に馬六〇〇疋の官馬が必要で、諸国牧ではこれだけの軍馬を飼育したことになる。

 

もっともこの牧では「牛馬」を放たしむとあるように、律令政府は牛の放牧も同時にすすめていた。

同年十月、政府は乳製品の蘇(チーズ)を造らせ、これを貢上させているが、『延喜式』によれば信濃国も大壷五、小壷八を貢上している(大壷一升は小壷三升に当たる)。

 朝廷の(うまや)のことを司る役所として、内厩寮(ないきゅうりょう)が天平神二年(七六六)に創設された。

信濃国牧の至当、伊那郡大領外従五位下勲六等金剰舎人八麿は、この内厩寮に対して、「課欠駒に対して律によって罪を科し、価を徴集する」ことをやめるようにと上申した。これは牧子がその負担に到底堪えられない状況に基づいての上申文で、内厩寮もそれを認めて改めた(課欠駒とは、牧馬一〇に対して、子馬六の生産が牧子に義務づけられていた。その課せられた数の子馬の生産ができない場合、その不足分の子馬が「課欠駒」で、一疋につき稲二〇〇束を課せられた)。

 内厩寮が牧を管理し、騎馬の生産と飼育を一貫して掌握していたことがわかる。これは令制の馬寮や兵馬司の職掌を兼ねたもので、その管轄下にあって、信濃国の敷を管理している主当の「伊那郡大領金利舎人八麿」は、令制の御牧の牧監に相当する立場にあったのである。中央政権の牧場政策が、内厩寮から馬寮―御牧と一貫して生産・管理する形態へと移行しつつあったことがわかる。

 

 「延暦十八年(七九九)六月七日、信濃国監歌に公廨(くがい)(でん)を賜う事」(『史』②一六〇)とある。

信濃国の監牧(牧監)は家を離れて赴任することは国司と同じであるから、埴原牧田六町を公廨(くがい)(でん)(宮人の職に応じた俸給として与える田)として賜わるとある。

ここには御牧という語は用いられていないが、埴原牧は延喜式の信濃の御牧一六か所の中の一つであり、牧監庁が存在したとされている所である。この時期までには令制御牧は完全に成立していたものと考えてあやまりはないであろう。

これよりさき延暦十一年には諸国の軍団を廃して、健児(こんでい)を置いている(『吏』②一五四)。信濃国も軍団にかわって、郡司・富裕者・有位者などの子弟から健児を採用して、健児所を筑摩の国府に置き、軍団と同じ任務に当たらせた。したがって軍団の馬を養成するための、国の必要はなくなって、御一本化されたものと思われる。弘仁十四年(八二三)九月二十四日、

「天皇、武徳殿に幸して、信濃国の御馬をごらんになり、親王以下参議以上に各一疋を賜わった」

(『俗史』②一九二)

とある。これが信濃御牧の貢馬の初見である。

 

 佐久の官牧 

紹介資料 『佐久市誌』第五章 佐久の奈良・平安時代 一部加筆

 

『延喜武』左右馬寮の頂に、御牧は甲斐国に三牧・武蔵国に四散・信濃国に一六牧・上野国に九牧が       あり、朝廷への貢馬(年貢として献上する馬)は甲斐国六〇疋・武蔵国五〇疋・信濃国八〇疋・上野国五〇疋と定められている。

 信濃国一六牧の内訳はつぎのようである。

 山鹿牧(茅野市豊平・南大塩・湖東)、塩原牧(茅野市米沢または小県郡青木村)、

岡谷牧(岡谷市)、平井手牧(辰野町平出)、笠原牧(伊那市笠原)、

高位牧(上高井郡高山村)、宮処牧(辰野町営処)、植原牧(松本市中山埴原)、

大野牧(波田町・山形村・安曇村)、大室牧(長野市松代町大室)、

猪鹿牧(穂高町西穂高・牧)、萩貪放(未詳)、新治牧(東部町新張)、

長倉牧(軽井沢町長貪)、塩野牧(御代田町塩野)、望月牧(望月町・北御牧村・小諸市・浅科村)

 これらの牧は、いずれも火山の裾野や扇状地の広大な緩斜面に立地していて、周囲は高峻な山や河川・渓谷などで画されている。このうち佐久郡の御牧は、長倉・塩野・望月の三牧であるが、『吾妻鏡』の文治二年(一一八六)二月条に、左馬寮領として「荒野」と記されている。荒野牧(小諸市菱野)がある。荒野牧は延喜式の成立した当時は、まだ独立の一牧として認められていなかったであろうことはすでに述べた。以下佐久の御牧の概要についてのべる。

 

                                    






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最終更新日  2021年12月29日 15時34分44秒
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