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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年12月29日
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佐久の御牧の概要 望月牧

 

紹介資料 『佐久市誌』第五章 佐久の奈良・平安時代 一部加筆

 

望月牧の牧地は、千曲川と鹿曲かくま川で囲まれた御原台地に比定されている。御牧原台地は蓼科山系が北にのびて、千曲川に臨む最末端に位置する。御原は

「従前はスガマ原と称す、周囲六里(約二四Km)樹木なく、沢中は熟地にして、池沼水田あり、古昔 

望月牧にして、野馬除堀一条、長さ二里、長堤二条あり(中略)。原野反別八百町余」

(『長野県町村誌東信編』下の城村)

という地域である。標高は七〇〇~八五〇ⅿ、小起伏の入り混じった地形で、現在は北御牧村・望月町・浅科村・小諸市の一市一町二村にまたがっている。

御牧原の南部、スガマ地籍にはすげも自生する湧き水があって、乾燥地御原の中ではオアシス的な地域である。ここには須恵器を焼いた幾つかの窯跡が残り、平安時代初期とされる信濃最古の鉄鐘(文)が出土している。また幡神社(浅科村八幡)境内にある高良社(重文)は、とスガマ地籍にあったものといわれるが、高良社は高麗社で、このあたりの牧場開設にかかわりのあった朝鮮牛島からの渡米人の社といわれている。スガマは放牧に必要な木場で、入の浜の沢木の下流には駒込があり、有池川対岸には土合占境群や御馬寄の馬具を副葬する古墳などがある(既述)。スガマの木は西南に下って七日沢の浜をつくるが、ここも放牧の適地で、百浜地籍に点在する古墳群の中には、柳浜三号墳のような馬具を副葬する古墳がある。

 牧場を有する野馬除は、断続的にその跡をとどめている。この跡をたどると、それは百沢北方から東北にのびる尾根にそって、富七塚の三角点(八五八、四m)に至り、それより西北方向ヘスガマを貫き、御牧原中央の「四つ京」から、トヤ原を経て下之城集落の東に達している。この間、富士塚より約五㎞はほぼ直線的に通じ、いまも所々に野馬除のほり・土居跡をとどめている。これより方向を北に転じて、八反田への道を横切ってさらに北向し、東北に円弧を描いて篠沢に没する。

 

 富士塚から下之城上まで、一直線の野馬除によって、御奴原台地の敷地は、南北に二分されていたが、全域の周囲は、西は望月城跡から島川原に至る断崖の線、南は百沢から蓬田よもぎた・桑山の幡山(通称)の線、そして東と北は千曲川に落ち込む断崖原画されている。北側の断崖上にあって、正完二年(一二五八)棟札の宮殿をもつ釈尊寺(延暦寺末)は、望月紋の紋官や牧民などのために開削されたものなので、その付近の諏訪山も望月紋の境域であったと考えられている。

 

 このように広大な御牧原の面積は、

「八幡山脈の西斜面を加算すれば、約千町歩が望月牧ということになる」

(「望月牧址考」「北佐久郡志」④)。

 

御牧原の西の所生を下れば印内(望月町)がある。印内は院内の転嫁で、もと天台宗の古刹月輪寺が所在していたことにもとづく地名である。その南方古宮地籍の対岸、旧望月宿の西北端付近には一丁田・五反田・六反田などの地名があって、望月牧の厩舎や牧田があった所と考えられる。印内の北方、下之城地籍の古社両刃もろは神社には異形の神像や石龕せきがん(正二年、県宝)かおり、付近には一丁田・八反田・鍛冶田などの地名がある。

 八丁地川ぞいの山の神(望月町吹上)・高呂(望月町)付近には馬具を副葬した古墳があり(既述)、馬場・竹の花(牧場管理者の居館の所在地)あるいは馬具などの製鉄跡を思わせる金山・吹上などの地名かある。付近には建長二年(一二五〇)彩色修理銘を残す、木造阿弥陀如来像(重要文化財)のある福王寺(望月町小平)があり、立科町上房かんぼうの古刹津金寺(天台宗)には、承久二年(一二二〇)と嘉禄三年(一二二七)銘で、野盛道らによって造立された石造宝塔三(県宝・写21)がある。

 御牧原は、望月牧の放牧地であり、これをめぐる山麓の鹿曲川や、八丁堀川の河岸段丘上には、馬を馴致調教するための厩舎や馬場が置かれ、管理者の牧官-地頭と推定される志野一族の居館や寺院かおり、牧田も聞かれていたものと考えられるのである。

 吉沢好謙たかあきは『信濃地名考』で

「望月牧は(中略)千曲川東北に廻り、西に鹿曲川あり。上原・中原・下原・御馬寄・駒寄等の地名あり。牧布施の南に駒形の神祠、千曲川を隔てて小原・塚原に駒形の神祠建つ。望月の封境なるべし」

 

とあり。書いて矢島原・牧布施・入布施など現在の浅科村・望月町布施地区を望月牧の敷地に想定している。当時牧馬一頭に対して牧地一町歩(一haが必要とされたという。そして馬の病気の発生や牧草地の荒廃を防ぎ、良馬を育て、馬一〇〇疋につき、毎年六〇疋の子馬を生産するという義務を果たして、牧場経営の成果をあげるためには、いくつかの支牧を設けて輪牧をおこない繋飼場や馬場を設定して、高度の飼育・繁殖・調教などをおこなう施設が必要であった。望月牧でも御牧原周辺に、そうした場所が必要であったのであろう。

御馬寄・前方などはそうした施設の集中して置かれた場所であったと考えられ、春日にも駒寄・牧寄がある。牧地は長者原(布施地区)におよんでいた。牧田は岸野地区にも設定されていたのであろう。これらの広大な敷地は左右馬寮の支配下に置かれ、滋野一族がそれぞれの牧他の管理に当たっていたと思われるが、平安時代末期になると、律令制が緩んで、荘園制がこれにかわり、御牧も馬寮の荘園と化してきた。 

これにつれて地方武士の力が強くなり、彼等は国有や馬寮の管理下にある郷村の荒地や牧地を再開発して荘園化し、これを私牧化するようになった。

治水四年(一一八○)以仁王もちひとおうの平官追討令旨りょうじは、全国の武士をたちあがらせた。信濃では木曽義仲が挙兵すると、佐久の武士たちもその傘下に入った。かれらはみなの管理者である志野氏の一統で、その中心人物がないゆきちかである。根井氏は滋野望月氏の一流で、根々井に本拠を置き、塚原駒形神社、小原駒形神社(小諸市)に象徴される千曲川右岸一帯地を支配して、多くの馬と兵の動員力を保持していた。湯川の段丘上にはその一族の落合氏おり、御原周辺の牧場管理経営者としては、望月氏をはじめ、矢島氏(矢島原一帯)・石突いしづき氏(五本木)・本沢氏(布施)がいた。そのほか桜坪氏・野沢氏は千曲川氾濫原や前山・犬沢などの蓼科山麓に私紋を経営していたであろ。浅問山麓や東山づきには小諸・平原・志賀の諸氏があった。彼らはいずれも古代佐久の牧人から成長した武士たちで、義仲の中核となり、北陸道を長駆して、京都に上り、古代の壁を打ち破り、中世への道を開いたのである。

 

塩野牧

紹介資料 『佐久市誌』第五章 佐久の奈良・平安時代 一部加筆

 

 塩野牧のちは、焼付前代田町)の集落名にその名残をとどめている。その境域について、

『北佐久郡志』①も 『小諸山訪』①も

その西限は、蛇堀川をもって白然の境界としている。東限について『小諸市詰』①は石尊山麓から出る濁川の沢を自然の境界としているが、これはほぼ誤りないものと思われる。

 馬瀬口(御代田町)の地名は重要な意味をもっている。厩舎の出入口の棒を「馬せ棒」と呼んでおり、『長野県町村誌東信編』では馬瀬口を「古昔棚口ませぐち村」と称すといい、村社を棚口神社としている。一般的にとは竹で作った囲いをいう。したがって馬瀬は、牧場を囲った「木柵の出人口」つまり牧場の人口と推定される。馬瀬は標高およそ八〇〇で、ここが牧場の下限であったろう。塩野牧の上限については、『小諸市』①は、自然のままな標高一五〇〇くらいの辺だったろう、としている。八満(小諸市)地籍の標高約一〇〇〇に「牧留」それより少し下がって、「古牧」の地字がある。牧留は牧地の上限を示し、古牧は牧場の開設当初の牧地を示すことばと考えられるから、開発当初の塩野牧は一〇〇〇mを上限としたが、その後牧地は一三〇〇mぐらいまで拡大されていったのであろう。

                                                  貢馬(くめ)

紹介資料 『佐久市誌』第五章 佐久の奈良・平安時代 一部加筆

 

御牧(勅旨牧)では、毎年一定数の良馬をえらんで朝廷に貢上した。これをという。『延喜式』                                          によれば、貢馬数は

甲斐国六〇疋、

武蔵国五〇疋、

信濃国八〇疋、

上野国五〇疋

である。

信濃国貢馬数八〇疋のうち、望月牧は二〇疋で、残り六〇疋がその他の諸牧(一五牧)の負担となっていた。諸牧の貢馬数は、一牧当たり四疋の割合となるが、各牧の具体的な貢馬数は明らかでない。

 御紋を管理するために甲斐・信濃・上野の三国には紋監(監牧)、武蔵国には別当が置かれていた。信濃国には二人の紋監が置かれ、一人は信濃国府に近い植原紋にいて諸牧を監理し、他の一人は望月牧にいて、信濃最大の望月牧を管理した。

望月牧に専任の牧監が置かれたのは延暦十六年(七九七)以後と考えられる。信濃諸牧の貢馬六〇疋は、信濃諸牧牧監が率いて貢上し、望月牧の貢馬二〇疋は望月牧牧監が率いて、それぞれ毎年京都に貢進した。『政治要略』の記事によれば、延喜三年(九〇三)八月十五日に、信濃諸紋のうち、塩原・岡谷・宮処・埴原など一一牧で六〇疋を貢進しているが、この年山鹿・新治・長貪・塩野の四牧は貢進していない(一志茂樹「官牧考」『信濃』二巻五号)。このように、望月牧を除く信濃諸牧の各牧の貢馬数は一定していなかったと考えられる。

 御牧から貢進された貢馬は、伊勢神宮を始め、勅祭礼の祭馬(祓馬・神馬・走馬など)にあてられ、また天皇・親王・公卿などの持馬として賜与された。

貞観十八年(八七六)信濃国の勅旨牧には御馬二二七四疋がいるとある。そのなかからわずか八〇疋が、貢馬として貢進されたに過ぎないのである。貢馬にもれた馬は、一般的には駅馬と伝馬にあてられたが、信濃国はこの限りでなかった。『延喜式』主税の項などでは、信濃の貢馬の入京の経費や秣料は、直接その馬寮の庄田からあがる小作料で払い、牧馬やなめした馬皮などの売却代金は馬寮に送れと指示している。

 馬は乗用・駄用・農耕用として大切であり、皮は鞣皮として用途が広かった。そして馬の脳は皮の鞣し剤として貴重であったという。

駅馬の価格は信濃・出羽二国は上馬(稲)五百束・甲馬四百束・下馬三百束、牧馬の皮の価格は五尺以上稲五乗・四尺以上三束・三尺以上一束と定められていた。

信濃国の御牧の経営を支える馬寮の庄田は、左馬寮分一八四町五段二五三歩、右馬寮分一八四町五段二五三歩、合計三六九町一段一四六歩という広大なものであったが、その場所は明らかでない。一六の御牧にはそれぞれ馬寮の庄田が付されていたものと思われる。それらの水田は地代をとって農民に貸付け、その収益をもって牧の経営や貢馬の入京費用などに当てていた。

 御歌の歌馬は、細馬(上馬)・中馬・焚馬(下馬)に分けられ、一〇〇疋ずつを「群」という放牧の一単位で飼育された。駒(子馬)が二歳になると、毎年九月国司(牧監)が牧長と立ち合って、官の字の印を左股の外に捺し、毛の色や流を記録して、帳簿二通を作り、一通は国衛にとどめ、一通は太政官に申達した。御牧は優秀馬を効率的に生産しようとしたから、牝馬ぼば(雄馬)は優秀な父馬(馬)が数頭いればよかったので、その他の牡馬は五、六歳になると軍団や京に送られ、残りは駅馬・伝馬とし売却した。

四、五歳以上二〇歳の生殖能力のある牡馬ひんば(雌馬)は一群として飼育され、一〇〇疋につき毎年六〇疋の駒の生産を義務づけられていた。六〇疋に足りない場合は、不足分の駒一疋について稲四〇〇が徴集された。これは牧子にとってたいへんな重荷であったので、神護景雲二年(七六八)信濃国牧主當伊那郡太領金剌麿の上によって、稲二〇〇乗に軽減された。                

 

御数の構成はおよそつぎのようである。

 牧監(監牧) 

信濃国二人、諸牧の牧監は植原牧に、望月牧の牧監は望月牧に置かれ、牧田六町を公廨田(官職に対して与えられた田)として与えられた。牧監は都から任命される場合と、その地方の豪族が任命される場合とがあった。位階は国司に准じ、信濃じょう(守・介につぐ三等官正六位)で、所管内の御を統率し、官牧馬帳を整えて馬寮に達した。任期六年。

 ◇牧司長(牧揚長)

 一人、清幹な庶人から選任したが、郡司関係者が兼任することもあった。

◇牧帳(牧司長の補佐) 一人。

◇牧子長(牧馬を直接管理する責任者)牧子(牧群の責任者)一群(一〇〇疋)につき二人。

馬医めい書生しょしょう(事務)・占部・足工・騎士などの技術者があった。

 ◇飼丁 馬の飼育係。馬一疋につき一人(『厩牧令』)とあるが、

細馬一疋につき一人、中馬二疋につき一人、鴑馬三疋に一人であった(『厩牧今』)。

 

官牧の馬の一日の濃厚飼料は

細馬、栗一升・稲三升・豆二升・塩二勺。

中馬、稲二升・若豆二升・塩一勺。

鴑馬、稲一升。

稲は半糠床で、相・中・鴑馬各一疋ずつの一日の飼料稲は合計六升、

細馬一〇疋・中馬四〇疋・鴑馬五の一〇疋構成の一群を想定すると、

その一日の所要米(半糠米)は一石六斗、一年に五八四石という厖大な数量となる。

 

信濃一六牧の総馬数は二二七四疋で(『類聚三代格』巻十八「太政官符」貞観十八年正月二十六日)、貢馬数は八〇疋であるから、貢馬一頭に対する総馬数は二八疋強で、望月牧の総馬数は五六〇疋余ということになる。

 御牧には放牧地域と繋飼地域が必要だった。放牧地は馬一疋につき一~二町前後が必要とされたが、良質の牧草を育て、病疫を防ぐために数か所の輪牧場が必要であった。繋飼場は冬の飼育、調教期間の飼育などに必要で、その近くには厩舎・飼料舎・馬場・交尾場・飼丁の宿舎などが必要であった。これら放牧場や繋飼場の外囲には、陛と格をめぐらして、馬の逃亡や田畑荒しの害を防ぎ、また害獣の侵入に対する備えともした。いまも御牧原や、追分・沓掛付近にみられる野馬除跡がその遺構の一部である。格は馬柵とも記し、「ませぐち」は格の入口を示す地名である。

 前出の太政官符には

信濃国の御牧の御馬が、格やこう(堀)の外に放散して、亡失したり、田畑を荒して損害を与えている。

牧監は必ず牧ごとに巡検して、牧長・帳・牧子・飼丁などに命じて、朽損・焼亡・盗失した格を、は

やく修造させよ。

とある。官牧で馬の逃失した場合は、百日間探させ、期限がきても見つからなかった時は、失った当時の馬の価格に准じ、その七分は牧監・牧子・飼子弁償させ、三分は牧長と牧帳から徴集すると、きびしく規定されていた。

 (『類聚三代格』寛平五年三月十六日大政官符(牧監をして欠失牧馬を椎償せしむべき事)。

 駒が二歳になれば、毎年九列十目、国司と牧監が同道で牧に臨んで検印し、四歳までは別群として飼育する。四歳になれば震慄の対象となり、良馬を選んで調教し、明年八月、牧監以下が付いて貢上した。信濃の貢馬の入京の費用や休耕は馬寮の牧田からあがる小作料(地子)でまかなわれた。信濃国の馬寮水田は、他国に比してとくに多かった。

 

 信濃国の貢馬の初見は、『日本紀略』弘仁十四年(八二三)九月二十四日の条で、

天皇武徳殿に幸し、信濃国御馬を覧て、親王以下参議以上に各一疋を賜う、

とある。そして信濃の駒牽の最終記録は文正元年(一四六六)十月二日で、『後法與院改家記』に

伝間す、昨日平座如例云々、次いで駒牽云々、

八月十六日延引也、其時分世上物忩ぶっそうの間其儀なく云々

とある(椙史補遺上)。これは応仁の乱の前年で、世の中は乱れ、駒牽のできるような状態で無かったのである。

 望月牧の貢馬教は、延喜五年(九〇五)官符に

「もと三〇疋を、いま二〇疋に改められた」

とある。貢馬にあたっては、牧監・馬医・書生・占部・足工・騎士(馬六疋ごとに一人)などの牧吏がこれに付添い、一日一駅(平均五里)のわりで上京した。これに対して沿道の国々は、貢馬一疋に対して一人、牧監に三人、馬医・書生などの牧吏二人に一人ずつの人夫と、牧監に三疋、馬医・書生などの牧吏には、一人一疋ずつの馬を出さなければならず、一日一疋当り一束の飼秣(まぐさ)も負担させられた。その上引率の牧吏たちは、所定外の人馬を徴発して、乗用とするなどの暴挙があったが、沿道の人々や郡司・駅長さては国司でも朝廷の威をかる彼らを制止できず、貞観四年(八六二)には太政官符をもってこれを禁止したが、止まなかった。これは御牧の牧更か朝廷の威を笠にしたばかりでなく、新興産業である畜産の暴利を一手に納める強力な資本家になっていたからだとする説さえある。

(一志茂樹「官牧考」『信濃』二巻四号)。

 

貢馬の道

貢馬の上京の道筋は官道を通って、一日一駅ずつの行程で、所定の日に入京した。『三代実録』貞観九年(八六七)八月十五日の条に、

「天皇紫宸殿に御し、信濃国貢駒を閲覧す」

とあるのが、信濃の貢馬入京の期日を明示する初見である。仁和元年(八八五)までは「信濃国貢駒」として八月十五日に八〇疋全部が貢進されていたが、翌仁和二年には牧司の懈怠によって延引して、八月十七日に天皇が信濃国貢駒をご覧になっている。その後、いつからか望月牧と他の一五牧は、分かれて貢進するようになった。

望月牧の貢進の日取りは、延喜十七年(九一七)八月十五日、同二十二年九月四日、延長二年(九二四)十月十六日というように乱れてきている。望月紋以外の信濃諸紋の貢馬六〇疋は八月十五日に貢進されていたが、八月十五日が朱雀天皇の国忌日となったので、村上天皇の天暦年中(九四七ごろ)から八月十六日となった。佐久の御牧のうち、塩野・長倉の両牧の貢馬は、他の諸牧の貢馬といっしょに東山道を通って、京に向かったことはまちがいないが、望月牧の貢馬二〇疋は単独であるから、規定どおりに東山道の各駅を経由して上京する道筋のほかに、雨境峠を越えて、古東山道の道筋で、有賀峠か杖突峠を越えて、伊那から東山道の駅を経由する道筋をとったことも考えられるが、いまでは推測の域をでない。

 駒牽の行事については、『政治要略』の年中行事の項に詳しく記されている。

貞観七年(八六五)八月十五日、信濃諸牧一五牧中、山鹿・新治・塩野・長倉四牧を欠く一一牧の貢馬六〇疋が貢進された。朝廷からは駒迎えの使が逢坂関まで出された。紀貴之の

「あふ坂の関の清水に影見えて、今やひくらむ望月の駒」

の名歌が思いだされる。

 天皇以下、文武高官が出席して華やかな駒牽の行事は、紫宸殿南殿の庭に貢馬を牽進しておこなわれた。天皇出御のもとで、親王・公卿・大臣・大将・左近将監などが列席、主常寮より御馬解文(上申文書)を奉る。ついで牧監・左右近衛番長以下、左右馬寮の騎士が、御馬を牽いて、日華門より入るが、第一の御馬が御前にきたとき、大臣が「れ」という。引き手(騎土たちは一斉にひざまずき一礼して騎馬し、七、八度庭をまわったのち、大臣の「下り」という声で一斉に下馬する。そして大臣の「御馬取れ」という声で、左右馬寮の取手が御馬を一疋ずつ交互にとって、御前に進み、牧の名を奏上してから日華門・月門から退出して終わった。

 御馬の配分は、貢馬数が八〇疋のときは二〇疋、六〇疋のときは一〇疋、五〇疋のときは六疋を、左右馬寮が交互にとる。つぎに皇族・公卿が各一疋を選びとり、残りの御馬はさらに左右馬寮が交互にとったが、前後にいろいろな儀式があって、駒牽は華やかな王朝打事であった。このような貢馬も、延真のころ(九〇一~九二二)を境として、貢馬の期日や所定の馬数の貢納が、乱れるなどかげりがみえてきた。

『政治要略』天暦六年(九五二)九月二十三日の条によると、甲斐・武威・信濃・上野などの国司に対して、

「貢上御馬の貢進を延期し、その定数が不足しているのは、牧監の怠慢であり、

国司が任務を疎略にしているからである。

今後なお貢馬の期日を延期し、その定数を滅ずるならば、牧監は他の功績があっても褒賞せず、

なお爾怠すれば免職する。国司は五位以上はその位禄を奪い、

六位以下のものは、その公席(職分に対して与えられた田)を五分の一に滅ずる」

 

というきびしい太政官符が出されている。

 

中世の牧と駒牽

 

 久万元年(一一五四)八月十六日以降は信濃諸牧の貢馬牽進の記録は中絶してしまう。その二年後には保元の乱(一一五六)、さらにその三年後には平治の乱が起きた。永暦元年(一一六〇)から、平氏政権下で役馬が復活したが、養和元年(一一八一)には「信濃国で逆徒(木曽義仲)のために、馬を掠領され(『吉

記』)駒牽は中止された。源頼朝が平氏を滅ぼすと、文治元年(一一八五)から駒牽きが再復活した。建久八年(一一九七)藤原定家の日記「明月記」には

「八月十六日、駒牽の事に依り、黄昏、束帯をつけて出仕、退出後、一行を右中弁の許に送る」

とある。しかし信濃の状況は昔とは違っていた。安貞元年(一二二七)当時信濃の国務をとっていた藤原定家は、

「在庁はみな当世の猛将で、国守の命令にはほとんど従わず、国務はなきに等しい状況である」

(『明月記』)

と国府の状況を記しているが、これは御牧も同様で、御牧は豪族化した牧吏の支配下に置かれ、駒牽も形式的なものになっていた。

 承元四年(一二一〇)幕府は守護・地頭に、諸国の勅旨牧を興行(盛んにする)せよと命じ、承久三年(一二二一)八月十六日には望月牧の貢馬が牽進されるまでになった。駒引上卿(駒牽行事に列席する上席の宮人)前太政大臣藤原実氏と参議藤原定家は

  引更へてけふは見るこそ悲しけれ さやはまたれし望月の駒    藤原定家

  物ごとに去年の面影引かへて おのれつれなき望月の駒      藤原実氏

 

と贈答し、形骸化した駒牽の行事を悲しみ、華やかなりし昔を偲んでいる。

 弘安七年(一二八四)鎌倉幕府が制定した新式目三八か条の中には

「出羽・陸奥を除く東国御紋を止めらるべし」

とあるが、その後も信濃の駒牽は逓年八月十六目におこなわれて、嘉暦元年(一三二六)に至る。
この年「八月十六日、駒牽常の如し」(『師守記』信史補遺①)とあり、これが鎌倉時代の駒牽最後の記録となっている。

 鎌倉幕府滅亡後は、南北朝争乱期の延元四年(暦応二・一三三九)八月十六日の駒牽が初見(信史補遺①)であるが、それ以後の駒牽は順調ではなかった。

・興国六年(貞和元・一三四五) 

駒牽の儀と月蝕のかかわりが論議される(『園太暦』)。

・正平四年(貞和五・一三四九)

信濃の駒、途中で佐々木高氏の軍勢に奪われたため、馬寮の駒五疋を貢進する。

 ・応永三十年(一四二三)と永享元年(一四二九)信濃国府の事務官である雑掌や監牧代が、諸牧の中からようやく一疋だけ調達して牽進する。

 ・文正元年(一四六六)八月十六日は世上物騒につき、駒牽の儀は十月二日に延期される

(『後法興院政家記』信史袖遺①)。

 駒牽が延期された文正元年の翌年に応仁の乱が起こり、以後駒牽の儀は絶えた。弘仁十四年(八二三)九月二十四日『日本記略』にはじめて信濃国御馬の駒牽の記録がみえてから六四二年である。その間、中絶の時期を含みながらも、宮中行事の華として継続され、信濃の政治・経済・文化に少なからぬ影響をおよぼした。

 

豪族の私牧

 

 長保四年(一〇〇二)左衛門権佐明法所士令宗よしむねあそみつすけは、信濃国におけるのことについての諮問に答えた中で、

「拡散の牝鳴か官牧にきて交尾し、この牝馬がもとの私牧に帰ってから子馬を産んだ場合は、

その駒は母につけて私馬とすべきである」

としている。この答申の根拠は、御牧の駒の生産は牡馬の数を基準にして定められていて、牝馬については問われないから、駒はその生母である牝馬につくべきであるというのである。このような問題が起きるのは、信濃国では官牧の近くに私牧があって、両方の馬が境界を越えて、互いに他の牧場に紛れ込んでいる状況を示すものである。当時佐久郡にどのような私散があったか明らかでないが、木曽義仲の挙兵に従った武士団や、地元の伝承・遺構などによって多少の考察をしてみよう。

 

木曽義仲に味方した武将の中に志賀七郎・同八郎がある工賃氏の系については明確でないが、はやくから志賀地区に土着して、志賀川流域の水田開発を進めるとともに、志賀川上流の駒込部落を中心として、東方の寄石山・物見山などの山麓一帯から、上信国境におよんで、広大な私牧を経営して、経済と武力を養っていたものと思われる。駒込の駒形神社は「延喜馬寮式内の猪鹿牧、或いは多々利・金倉井牧・以上三牧の神祠なり」とする説(「長野県町村誌東信編」)もあるが、これは無理な説で、志賀氏の私牧の神祠であろう。志賀氏は木曽義仲に従って敗れたが、そのご鎌貪幕府の御家人となって活躍する。しかし承久の乱(一二二一)以後次第に衰微し、嘉暦四年(一三二九)三月、鎌倉幕府下知状案(『守矢文書』)には  

「五番五月会分、(中略)流鏑馬、志賀郷諏方左衛門入道」

とあって、志賀郷から志賀氏は姿を消している。志賀氏の衰微によって、その私牧も衰退したものと思われる。

 木曽義仲に従軍した楯六郎たてろくろうちかただの私牧と、矢田義清の私牧跡が、ぬく川左岸の段丘上(佐久町)にある。楯六郎は根井行親の子で、佐久平南東端の、抜井川段丘上に館を構えて、楯(館)氏を称した。抜井川は十五峠に源を発し、東流して千曲川に注ぐ。抜井川に沿ってさかのれば、十石峠を越えて、神流かんな川の谷に出て、上州多野都上野村・中里村・万場町・鬼石町などを経て藤岡市に達する。それより東方七に、多胡庄矢田村がある。和名抄多胡郡矢田郷に比定される地である。また中里村から神流川を渡って、志賀坂峠を越えれば、武蔵国秩父郡である。小鹿野町、秩父市を経て、定峰峠を越えれば、木曽義仲の父源義賢の討たれた大蔵館(比企郡嵐山町蔵)である。石峠の名称は江戸時代に佐久米が、日に十石この峠を越えて上州に運ばれたのに由来するというが、昔は武州道と呼ばれ、現在は国道二九九号線となっている。

 矢田義清は足利氏の椎義則(義家の孫)の長男で、多胡荘矢田に住んで、矢田氏を称したといわれる。木曽義仲の挙兵に応じ、丹波国を席巻して京都に迫ったが、水島の海戦に総大将として平家軍と戦って敗北した。矢田義清は早くから十石峠今越えて、信州に進出し、太日向村(現佐久町)本郷の抜井川左岸台地上に、大陰城(矢田城・天涯城)を築いて居館とし、背後の茂米山(一七一七)麓に私牧を経営した。楯氏居館の東方一・五㎞に隣接している。

 

 矢田氏私牧の関連地名を拾って見ると、清水平・馬洗いの池・下ませ口(馬柵の出入口)・中原の直線馬場・上ませ口・くねの内(繋飼場)・外牧・こもっけ(駒返しの転説)などがある。大陰城に幼い木曽義仲を匿い、木曽に逃してやったという伝承がある(「南佐久郡古城址調査」畠山次郎『実説大日向村』)。

 楯氏の私牧は、楯氏館の存在する抜井川段丘の南方、茂来山の北麓槙(牧)沢とその下流牧平を中心にして存在していた。野馬除と思われる長堤が一条認められ、周辺に乙馬・野駄窪・駒寄・腰牧・杭の内・東馬場・西馬場・外教・堀込・大水戸などがある(『南佐久郡古城址調査』)。茂来由は関東山脈の一支脈であるが、佐久市の平野部から、南東の今に、ふところの深い、秀嶺の姿を見せている。

 御牧原周辺の矢島原・布施窪などに望月牧の支牧や輪牧地として設置された諸牧も、平安時代末期には律令政治の崩壊に伴い、武士化して勢力を伸長してきた牧吏の私牧と化していたものと推定される。矢島原の矢島氏・布施長者原の本沢氏・五本本・校倉・東立科方面の石突氏・片貝川西方の蓼科山麓の桜井氏・野沢氏らは、それぞれの敷地を私欲化して、強大な富と武力をもって木曽義仲の平家追討軍に参加したものと考えられる。湯川・千曲川右岸段丘上一帯の牧地は、根井・落合氏らによって、はじめから私牧として開発経営された可能性が考えられる。広大な敷地、牧田をかかえこんでおこなう牧場経営は、地方豪族たちにとって、富と武力の蓄積にきわめて有利な企業であった。また騎馬戦によって勝敗が決せられた当時の武士団にとって、馬の育成・保有はその戦力を決定づける条件であったから、地方豪旅たちはきそって私牧の造成・経営に務めたのである。平安末期には牧馬地帯であった佐久地力の武士団の力が、木曽義仲の上洛という歴史的事実を通して、最高に発揮された時代で、また私教の最盛期であったということができる。          






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最終更新日  2021年12月29日 15時35分20秒
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