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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2022年01月20日
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u 綱吉将軍薨去と「生類憐み」の廃止 その時吉保は

 宝永六年(一七〇九)の春正月十日に、綱吉将軍薨去の報があり、明日人々は皆西城に参上するようにとの告知があった。自分も翌十一日に参上した。その時、意見書を袖に入れて、詮房朝臣を通じて奉ろうと思ったが会えなかったので、その舎

弟の中務少輔詮衡を通じて奉った。碑謁蛸綿のその意見書には、当面の急務である三力条を記しておいた。この日、夜になって雨が降った。これは、去年の十月二十日以来はじめて降った雨であった。十二日にも、また参上して意見書を奉った。この夜また雨が降って暁までつづいた。これ以後毎日参上したが、まだ詮房朝臣には会わなかった。十五日になって、はじめて会って、これまで申しあげたことなどについて、様子を聞いた。十七日に、当十銭を廃止されるという仰せがあった。この夜また雨が降って、暁までつづいた。人々の宅、地、町々等を他所に移転さすこと、などが中止になったのも、この頃のことであろう。

 当十銭のことは、前に記したように、去年の冬以来、商人たちに使用する旨の証文をさし出すようにとあり、その催促は、去の日までつづいた。また人々の宅地や町々を移転させる件も、年がすでに改まったので、家を壊し、家屋を作り、資財雑兵などを持ち運んだ。先例では、将軍薨去の場合には、七日ぐらいは工商ともにその仕事を休んだが、その期間が過ぎると、の売買、家屋の建築なども始まるので、これらの御沙汰がなくては、世の人は安心できないのであろう。それではよくないので今日の事を仰せられたのである。

十九日参上した時、元和令ついて仰せがあったので、家に帰って、その夜、「神祖法意解」一冊を撰述して、明日献上しようと思ったところ、夜が明けると召されたので、参上してその事をも献上した。午後一時すぎに帰宅したが、重ねてお召しがあったので参上した。この日、前代の御時に制定せられた、生類あわれみの令が停廃された旨を承った。二十二日になって、御葬送の儀があった。雨が降りつづいたので、この日になったのだということである。

 ある人の言うのに、御葬送の儀が今日まで延期になったのは、ほんとは雨が降りつづいたためではない。理由があっての

ことである。

 いつの頃であったか、世継の君が参上されたところ、少将吉保(柳沢)、右京大夫輝貞、伊賀守忠栄、豊前守直重などの朝臣をはじめ、近習の人々を召されて、

「自分が年来生類をいたわったのは、たとえ不条理のことではあっても、このことだけは、百年後も、自分が世にあった時のように御沙汰あるのが孝行というものである。ここに祇候の者たちも、よく心得ておれ」

と仰せられた。

 しかし、この数年来、このことのために罪におちた者は、その数何十万人に及ぶかわからない。未だに判決がきまらず、獄中死の屍体を塩漬けにしたのも九人まである。まだ死なない者も莫大な数である。この禁令がのぞかれなければ、天下の憂苦はなくなるまい。

 しかし、あれほどまでに遺言しておかれた禁を、当代になって、除かれるのもよろしくない。ただどのようにもして、

遺誡のとおりでありたいとお考えになったので、まず吉保朝臣を召して、考えられたことをおっしゃつた。

この朝臣もともとこの禁令をよいと思うはずもなく、とくに前代の御覚えは他に異なっていたものの、薨去後はどうなるかわからないと思ったので、

「仰せのおもむきは、まことに御孝志の至りと存じます」

と言ったので、

「では輝貞をはじめとして、今までこのことを司っていた者どもにこの旨を伝えよ」と仰せられた。そこで吉保が人々に仰せを伝えたところ、一人として異議を唱える者はなかったので吉保はその旨を申しあげた。

それではというので、二十日に御棺の前においでになって、

「はじめ仰せを承りましたことは、わたくしとしましては、いつまでもそむくことは致しません。ただ天下人民のことになりますと、思うところがありますので、お許しをいただきたいと存じます」

とおっしゃった。そしてむかしかの遺誡を承った人々を御棺の前に召し出されて、それまでのいきさつを説明なさり、そのあとでこの禁令を廃止する旨を仰せられたのである。

まだ御葬送の儀も行なわれないうちであったので、世間ではこれが御遺誠のことだと思ったのである。

また今夜の御供をすべき近習の人々のうち、髪をおろすことを希望した者も少なくなかったが、これも旧例によってその人数が一定しているので、その人を選ぶ役目は、吉保らの人々に申しつけられた。この時に吉保も髪をおろして、御供をしたいと望んでいる由であった。

「この上ない御恩に感じて、そのように思うのはもっともであるから、自分はそれを止めようとは思わない。しかし代々の例を考えるに、貴殿のような方が、髪をおろして御供をしたためしはない。むかし厳有院家綱公の御代になって、殉死を

禁止された。今また自分の治世のはじめに、これらの例をはじめるのは、適当でないであろう。所詮は、御葬事が終ってか

ら退職して、子息に家督を譲って後に、望むとおり髪をおろしたら、代々の例にも違反せず、また自己の志をも遂げる   ことになろう」

と、おっしゃたので、この吉保朝臣はついに仕えを辞されたという。

この二つの事は、わたくしには仰せ聞かせられなかったのだから、そのことの真偽は知らない。しかしわたくしに語った人も、いいかげんなことを言う人でもないから、その話をここに記しておく。

 て差しあげたのである。今日聞いたところ、はじめ信篤は、「代々周【国家財政困窮の事】二月三日お召しがあったので参上した。詮房朝臣に仰せ下されたことに、大喪の後は、家老たち一人ずつを本城に宿直させている。ところが彼らが言うに、かようなとき一日でも本城に主君がおられないのはよくない。自分がすみやかに移るべきであるというのである。代代の例によれば、前代も常の御座所を改造して移られた。今度は大御台所の移り住まれるべき御所をつくって差しあげる予定なので、これらのことについて協議させたところ、国財はすでにことごとく尽き、今後のためには少しも残っていないという。前代における国家の財政は、加賀守忠朝敵久がつかさどっていたというが、実際は近江守重秀一人りに委せられたので、重秀は美濃守吉保、対馬守富明らと相談したのである。だから加賀守もその詳細を知らず、ましてやその他の家老たちは関与していない。いま重秀が議り申すところは、御料地はすべてで四百万石、年々納入される税金はおよそ七十六、七万両余、このうち長崎の運上というもの四万両、酒運上というもの六万両、これらは近江守が命じたところである。

 このうち夏冬御給金として三十万両余を除くと、あまるところは四十六、七万両余である。ところが去年の国費は、およそ金百四十万両に達した。このほかに内裏を造営して差しあげる費用がおよそ金七、八十万両要るであろう。したがっていま国財の不足分は、およそ百七、八十万両を越えている。たとえ大喪の御事がなくても今後使用しうる国財はない。まして、当面の急務たる四十九日問の御法事の費用、御廟を建てる費用、将軍宣下の儀を行なうための費用、本城に御移転になる費用、このほか内裏造営のための費用はなお必要である。ところが現在、御蔵にある金は、わずか三十七万両にすぎず、このうち二十四万両は、去年の春、武相駿三州の地の灰砂を除くための夫役を諸国に課して、およそ百石の地から金二両を徴収された約四十万両のうち、十六万両をその費用にあてられ、その余りを、城北の御所をお作りになる費用として残しておかれたのである。これより他に、国家の費用にあてるべき金はなく、たとえ今これをもって当座の費用にあてても、十分が一も足りないであろう、というのである。加賀守をはじめみなみな大いに驚き、心配して近江守に考えさせたところ、前代綱吉公の御時・毎年支出が歳入よりも倍増して、国財がすでに破綻しはじめたので、元禄八年の九月から金銀貸を改鋳された。それ以来今まで、年々に収められた公利は、総計およそ金五百万両であった。これでもつていつもその不足分を補充していたところ、同じ十六年の冬、大地震によって傾いたり、壊れたところを修理せられるに及んで、かの年々に収められた公利も、たちまち使いはたしてしまった。

 その後、また国財の不足が、以前どおりの状態になったので、宝永三年(一七〇六)七月、重ねてまた、銀貨を改鋳されたが、それでも歳費に足りないので、去年の春、対馬守重富のはからいで、当十銭を鋳出さるることをも決行された。今になって、この危急を救うには、金銀貸を改鋳される以外には、方法はないでしょうと言う。加賀守は年来このことに関与していてすら、それでもその詳細を知らず、ましてその他の者は、これらのことは初耳なので、今になって、どうとも考えようも知らず、ただ近江守が言うとおりに従おうという旨を述べた。自分もこの年来、国費が不足であろうとは思っていたが、これほどの窮迫ぶりだろうとは夢にも思わなかった。

しかし金銀貨の改鋳は、わたくしの賛成する事でなく、このこと以外は、よろしく相談しょうと言った。重ねて、また、近江守が言うには、はじめ金銀貨の改鋳を行なって以来、世の人の批評をまぬかれなかったが、もしこの方法によらなかったならば、十三年ばかりの間、なにをもって国の費用を補うことができたであろうか。ことに、また元禄十六年(一七〇三)の冬など、これによらなかったら、どうしてその急難をお救いになれたであろうか。だからまずこのことによって応急の処理をなし、これより後に年芸穀物も豊かにとれ国財も余裕を生じた暁に、金銀貨の製法をむかしに返されることは、きわめてやさしい事であろう、と言う。

 皆の言うところもまたこれと同じで、天下の変事はいつ起こるかわからない、今のような事態であったら、もし今後思いがけぬ異変が起こった時、なにをもってその変に対処することができよう。ただ彼の意見に従うに越したことはない、というのである。自分はこれに答えるのに、近江守が言うところも、道理があるように思われるが、はじめ金銀貨の改鋳のようなことがなかったら、天地の災変も、うち続いて起こらなかったかも知れない。もし今後思いがけない異変が起こった時、その変に対処すべき方法がなかったら、わが代においては、神祖の大統が絶えらるべき時が来たのである。どうして、自分はまた天下人民の怨苦を招くような愚かなまねをしようか。ただ、どのようにも、他の方法を以て処理に当ってくれよ、と言った。

 この仰せを聞いて、小笠原佐渡守長重は、しきりに涙を流して、言う言葉もなかった。しばらくして、秋元但馬守喬朝だけが、ありがたい仰せを承りましたと言って人々は御前を退出されたということである。






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最終更新日  2022年01月20日 05時23分12秒
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