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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2022年01月20日
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【大赦の事】

同月四日に、また意見書を奉呈して、大赦の件をとりあつかった。これは、詳細に御下問があったからである。同月七日からは、私の長女が疱瘡にかかったので、家に籠っていた。

 同月三日、大御台所御他界の御事があったので、近習衆をしてこのことを告げ知らされ、

同月二十日に、大赦の件を仰せ下された旨を、また告げ知らされた。

 去年の冬から、疱瘡が江戸に流行して、将軍薨去の御事も、この病気のためというほどであるから、小児はいうまでもなく、老人も若人も、この病のために死をまぬがれた者は少なかった。それで、この年の五月高い場所にのぼって、家々の端午の節句の幟を見るに、二、三町の間に、幟を立てたところは、わずか一、二カ所しかなかった。ところが、自分の一男二女は、この病にかかり、それぞれ危険な症状があらわれ、治療のしょうもなかった。とかくするうちに、皆無事で、病が癒えた。これは天のたすけがやったようなものだと、ある医者が言った。大赦を行なわれる旨を告げて来たのは、長女がこの病気にかかりはじめた時にあたっていた。しかしながら、これは雷雨解散の応報なのであろうか。そうなら、有難い国恩によったのであろう。

この時に前代綱吉公の時の裁判の記録をとりよせられて、毎夜、夜明け方までこれを御覧になり、その罪を赦免されたもの、およそ九百五十六人。そののち間もなく大御台所の御死去によって、前のようになさり、御みずからその罪を赦免せられたもの、およそ九十二人。天下の大名以下の家々において、罪を赦されたもの、およそ三千七百三十七人に及んだ。五月一日、将軍宣下の儀が行なわれて、同二十三日にまた天下に大赦を行なわるる旨の仰せがあった。この時もまた、前のように御みずからその罪を赦免せられた者、およそ二千九百一人。天下の大名以下において罪を赦されたもの凡そ、千八百三十一人である。そのうち、大名以下の家々で赦免した五千五百九十九人のことは、当徳川家が世を治められて以来、かつてこうした恩赦はなかったところである。

 はじめ天下の大名以下に仰せ下されたところ、この事は前例がなかったので、仰せにしたがって行なう旨を申しあげる人もなかった。重ねてその事の仔細をくわしく書いて呈上せよと仰せられたので、この時になって、めいめい仰せにしたがって行ない、その事の仔細をも書いて呈上した。すべてこれらの事どもをくわしく書かれて、詮房朝臣を通じて自分に下賜された。このことは、かねて申しあげたことがあったからであろう。

 これより後になっては、断罪のこと、奉行所においてはかり定めたところを記した裁判記録をとりよせられて、御みずからそれを御覚になり、さてその後でわたくしのもとへ下され、各人の下に、わたくしの所存を書いて差しだすように仰せられ、わたくしがはかり定めたところが、かねてのお考えと違うところがあれば、重ねてまたわたくしの所存をくわしくお聞きになって、その後にその罪刑を決定された。むかしから今まで、これほどまでに万民をあわれまれた例は、まだ聞いたことはない。また将軍宜下のことによって大赦が行なわれた時には、町々

にいる博徒や鳶の者などの無頼漢のこと、女芸者、遊女などの妓女の類を禁ぜられる制条を出された。これらのこともわたくしが申しあげた案であるので、そのことを仰せ下された草案の写しを、詮房朝臣を通じてわたくしに下さった。

二月二十一日、前代綱吉公の近習の人々のことを仰せられ、三月七日に、今後は万石以上の人々は皆従五位下に叙せられるとの仰せがあった。この日、前代綱吉公の御時に、美濃守吉保、右京大夫貞らにおあずけになっていた人々を帰され、それぞれに宅地を下賜された。

【大赦】綱吉政権下に於ける「生類憐みの令」廃止とそれに伴う同令違反者の赦免(遠流・処払いの解除、闕所の返還など)のように、政権の代替わりに際して、綱吉における悪政とされるものを実質的に正した。次の大赦の事も同じ。

正徳六年の春の末から、上様(家継)はまた御病気になられ、御薬もききめがなく、四月三十日の午後四時頃に、おかくれになった。日の暮れ頃に、前代家宣公の御遺言にしたがって紀伊殿を第二城に迎え入れられ、翌五年一月に、昨夜おかくれになった旨の発表があった。

【註】家綱は正徳六年(一七一六)三月、病の床に臥し、四月三十日に死去した。

 (略)十二日に、中の口にある、わたくしの部屋をお返しした。このころ詮房、忠良等の朝臣をはじめ、近習の人々がことごとくみなその職をやめさせられた。

 詮房、忠良等の朝臣が今まで承っておられた職掌は、時代が隔たると、どういうことかわからなくなるだろうから、そのことをここに書いておく。神祖家康公から第二代の御時までは、奉書連判衆などというのは、その官は五位の諸大夫にとどまり、その禄も少なかった。第三代の御時、二条第に行幸があった頃から四品にし、侍従になされたことなどが起こった。その頃に、堀田加賀守正盛朝臣は、はじめの間は奉書連判衆になされたが、間連なくその職をやめさせられ、御側に近侍していて、老中の人々に仰せ下される御旨をも、また老中の人々が申しあげることなど、この人を通じてなされた。この御代に、大老、若年寄衆などの職掌も始まったのである。第四代は、御幼少で御代を継がれ、老中の人々が御政務を輔佐せられたので、その後は、正盛朝臣のような職掌の人はなかった。第五代の御時、牧野備後守成貞の朝臣は、藩邸の御時からしたがっておられたので、以前の正盛朝臣の時のように、老中にも仰せをも伝え、申し告ぎもなされたのであった。

 その後に、柳沢出羽守保明(吉保)が、御家號を許され、御名字を下さって、四位の少将になされ、甲斐の国主になってからは、老中は皆その門下から出て、天下の事は大小となく、保明朝臣の思うままになり、老中はただかの(吉保)朝臣のいうことを外に伝えられるだけで、御目見え(御成)などということも、一月の内にわずか五、七回にも至らなかった。

 ついで前代家宣公が御代を継がれ、老中の人々を毎日召し出し問われることなどもあったがこの人々は、もともと世の諺にいう「大名の子」であって古の道を学んだ事もなくて、今のこともよく知らず、長年仰せ事を伝えただけで、前に記したように、天下財政の有無さえ知らぬほどであり、まして機密の政務については知る筈もなかった。それで上様の明敏さに恐れて、前後の返答に窮されることは、度々なので、世の常の事もまず内々に詮房朝臣を通じて、御考えをおっしゃり人々の意見が一致するのを待たれて、そののちに御前に召して、仰せ下された。


  筑後守従五位下源君美 正徳六年丙申五月下旬筆を絶つ。

 

 

 






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最終更新日  2022年01月20日 05時25分13秒
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