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2022年01月31日
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甲斐の御牧の誤伝

『山梨県郷土史研究入門』山梨県郷土研究会編

  山梨日日新聞社 平成四年刊

  一部加筆 山梨県歴史文学館

 

 御牧は、律令制下の牧の制度が衰退する中で、朝廷の用に供する馬の供給を目的として、甲斐・信濃・武蔵・上野の四ケ国に限って設置されたもので、創設年代は八世紀末であろうとされる。

『延喜式』によれば、毎年の貢馬数は、

甲斐国三牧六〇疋・信濃国一六牧ハ○疋・

武蔵国四牧五〇疋・上野国九牧五〇疋

と定められていた。

 

甲斐の三牧とは、穂坂牧(三〇疋)・真衣野牧・柏前牧(二牧で三〇疋)をいい、穂坂牧は全牧中最大の貢馬数であった(後には、武蔵国に貢馬四〇疋の小野牧が設置される)。

 御牧からは、毎年四歳以上の良馬が中央に貢進される。牧ごとに貢進日は定められており、真衣野・柏前牧は八月七日、穂坂牧は八月一七日であった。その日には、宮中で駒牽が行われ、所管する左右馬寮の他、公卿らに馬が分配された。

この駒牽は、平安時代の宮中行事として定着し、年中行事となったため『北山抄』等の有職故実書にも関係記事が散見する。

 甲斐の御牧について、まず問題とされたのがその所在である。

江戸時代の加賀美光章『甲斐御牧考』・『甲斐名勝志』『甲斐国志』などで論じられており、

穂坂牧=韮崎市穂坂町付近、

真衣野牧=武川村牧原付近とするのには異論がなく、

柏前牧については勝沼町柏尾とする説(名勝志など)

があるものの、高根町樫山に比定するのが通説となっている。

 

昭和三三年、松平東道氏は今までの所在地論だけではなく、御牧の制度上の特色を整理し、一一世紀後半に甲斐の御牧からの貢上馬の駒牽儀式が消滅する原因を、荒廃化・荘園化・私牧化などと把えた(「古代における甲斐の牧」『甲斐史学』三号)。

同様な観点から磯貝正義氏は「甲斐の御牧」(『一志茂樹博士喜寿記念論文集』昭四六、後『郡司及び采女制度の研究』に「古代官牧制の研究」として収録)において、制度の変遷を詳述した上で、御牧成立の背景には、甲斐の黒駒に代表されるそれ以前からの馬・飼育の伝統があったが、制度上の破綻から御牧は衰退し、

穂坂牧は小笠原牧に、柏前牧は逸見牧に、真衣野牧は武河牧にとそれぞれ私牧に転換していった可能性を指摘した。同時期、

藤森栄一氏は甲斐の黒駒の生産地を、黒駒牧(黒駒の地名の残る東八代地方)と特定し、黒駒牧から北巨摩の御牧への時代的発展を想定している。

(「甲斐の黒駒と望月の牧」『古代の日本』六巻・昭四五)。

 

 こうした研究動向に対し、相前後して刊行された市町村誌は、

上野晴朗「御牧」(『明野村誌』昭三八)、

佐藤八郎「穂坂の牧」(『韮崎市誌』昭五三)、

同「柏前牧と小淵沢」(『小淵沢町誌』昭五八)、

同「真衣野の牧」(『武川村誌』 昭六一)、

秋山敬「真衣野牧」(『白州町誌』昭六一)、

同「柏前牧」(『高根町誌』 平二)

 

などであり、それぞれ研究成果を踏まえながら地域の特徴に基づいて記述している。

なお、『白州町誌』には、『日本紀略』・などの請書に散見する甲斐の御牧からの貢馬例が一覧表に整理されていて便利だが、若干誤植もある。

 

 最近、考古学の立場から新たな提言がなされている。

萩原三雄氏が「八ケ岳南麓における平安集落の展開」(『山梨考古学論集』I 昭六一)の中で、八ケ岳南麓に拡がる平安集落址群の生成・消滅の時期が、御牧の成立・衰退の時期に一致する例が多いことから、両者の関連を想定し、史上から同山麓にあったとされる柏前牧が最も早く姿を消すのは、開発・耕地化の進展が原因であろうとした。

また、末木健氏は甲斐型土師器坏の分布などを根拠として、古代の甲信国境は現在よりも西の立場川であると考え、柏前牧の所在を現在の長野県富士見町方面に求めている(「八ケ岳西麓の古代甲信国境」『甲斐路』五九号)。

最新の発掘成果に基づく斬新な視点は、

湯沢遺跡(長坂町)に見られるような牧関連遺構の発見などとともに、今後の御牧研究の一つの方向を示唆するものであり、文献史学の成果との整合性が求められることになろう。

 また、御牧衰退後、約半世紀の間をおいて甲斐源氏が良馬を求めて北巨摩を拠点とする。これは御牧の衰退が必ずしも馬飼育の終焉を意味しないことを示すものであり、こうした点からのアプローチも望まれる。

御牧の私牧化はその一つの回答ではあるが、推進者たる在地勢力の究明はなされていない。更に、他の三国との比較から甲斐の御牧の特質を検出するなどの作業や甲斐の黒駒以来の馬生産適地たる甲斐国の伝統と高麗人との関わりなど御牧成立前史ともいうべき方面の追求も必要となろう。                〔秋山  敬〕

 






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最終更新日  2022年01月31日 09時43分18秒
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