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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2022年02月26日
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 日本と朝鮮について学ぶ
  ◆秀吉の大陸進出
 
  秀吉の朝鮮出兵の基礎史料
(『歴史読本』「日本史資料の基礎知識」
 臨時増刊号 1994・春号 入門シリーズ)
 最近韓国とのさまざまな事が取り沙汰されている。歴史を多少かじっている身としては、日本の態度は違和感を感じる。
 古代から中世そして近代に於いて、日本の大陸進出はその事変に事欠かない。しかもその戦略は一方的であり、その都度言葉に言い表せないような事象が数多く残されている。韓国や北朝鮮それに中国の人々の心底には日本不信感情が流れていると言っても過言ではない。日本と韓国・北朝鮮は日本侵略の歴史と重なっている。今こそ日本は歴史を直視することが肝要である。対ロシア・対中国・対北朝鮮・対韓国・対アジアへの侵略と戦争に纏わる歴史は、日本のこれからも重荷になっていく事だろう。
 現在もこうした国々との様々な交渉状況は捗々しくはない。それは日本の侵略の歴史が根底にあるからではなかろうか。
◆秀吉の大陸進出
 
秀吉の朝鮮出兵の基礎史料
(『歴史読本』「日本史資料の基礎知識」
 臨時増刊号 1994・春号 入門シリーズ)
   一部加筆
 豊臣秀吉の朝鮮出兵とは、いうまでもなく文禄・慶長の役と称されている二度の出兵のことである。この意志が初めて表明された時期は、天正13年(1585)九月頃とされているが、秀吉は、この時すでに唐国(=明)までの大遠征を構想し、これを譜代の重臣らに告げていることも、岩沢悳彦氏によって紹介されている (『伊予小松一柳文書』)。 
さて、島津氏が秀吉に服属し、九州制覇が完成してからは、秀吉の意志も徐々に明確なものになっていった。天正15年5月には対馬の宗氏を通じて朝鮮に服属交渉を始め、朝鮮がそれに従わなければ、翌年には出兵することを九州の陣の直後すでに北政所にも書状で伝えているのである(『妙満寺文書』)。
 天正十八年、宗氏の交渉の結果、秀吉の日本統一を祝福する朝鮮使節が来日した。この時秀吉はこの使節を服属使節と思い込み、明征服の意志を告げ、その先導(=征明嚮道)を命じた。だが朝鮮側は、これを拒否した。
しかも小西行長らは、明に入るための道を借りたいという名目(=仮途入明)に替えて交渉を繰り返したがこれも挫折し、文禄元年、未曾有の大動員で文禄の役が開始された。
 緒戦で日本軍は、加藤清正らの善戦によって朝鮮の首都漢城を陥落することに成功した(『韓陣文書』)。その後、日本軍は朝鮮の全八道に清加藤正の他、福島正則や宇喜多秀家、小西行長らの部将を配備して、転戦していった。
しかし朝鮮軍も、義民らの決起や李舜臣率いる水軍の活躍によって日本軍の兵糧補給路を断つことに成功し、平壌と碧締鯖の戦いでは李如松らの防戦で後退を余儀なくされたため、秀吉は七か条の講和条件を提示し、停戦を迎えることになった。
 ところが朝鮮側は、秀吉の求めにあった明との仲介を無視した。そのため、一旦結ばれた和議も破綻し、第二次朝鮮侵略(=慶長の役)が開始されることになったのである。
 慶長二年(一五九七)七月、日本軍は再度朝鮮に上陸し、侵攻を続けた。この時は加藤清正が蔚山城に、小西行長が順天城に在番したが、戦況は厳しく、戦線縮小論も出始めた。だが、秀吉は「老若男女薙斬れ」と命じたため、慶長の役では日本軍のゲリラ的殺りくが繰り返された。ここに示した史料もその一部で、戦場で「鼻斬り」は武将の戦意鼓舞と功名心を煽るために強制されたのであった。
(『吉川家文書』)。
 この他、日本軍は朝鮮農民や陶工、朱子学者を捕虜として強制的に日本へ連行した。しかし、翌年八月十八日には太閤秀吉が大坂城で死亡したため、豊臣政権の朝鮮出兵も一変した。長く苦戦を強いられていた戦場には、徳川家康ら五大老、五奉行の撤退の指示が出されたのである。撤退の際には、朝鮮軍の追撃による打撃も受ける結果となり、また、敗戦色濃厚だったために生じた部将間の感情的なもつれは、以後、豊臣政権崩壊の遠因にもなっていったのであった。 △ 會田康範氏著 ▽
秀吉・唐入りの意思表明『伊予小松一柳文書』
 態申遣候
一 加藤作内事
五十石・三拾石廻之者取上候て過分ニ知行をとらせ、
人をももたせ候条、我相果候かけあと迄も、
相忘間敷と思召候而、かなめの所大柿之城を預ケおかせられ候事
 (一条中略)
一 右之分ニ申上候上ハ、廿石宛の者を五百石・千石宛度々ニ
かさねさせられ、唯今ハ大柿之かなめ之城ニ二万貫城廻ニ
て被下、七千石之代官を被仰付候ハ、作内ためニハ、秀吉
日本国事者不及申唐国迄披仰付候心ニ候歟、人をハ知行た
けたけニ扶持を可仕処、知行ゟも人数を多相抱候之間、台
所人ニも給人可付と申候ハ、親之中ニも子之中ニもおしつ
けたる申様不可過之と、秀吉披思召候事
 (一条中略)
一 各分別一大事之儀ニ面候条、右ニ如申候令得心、せいしを
相そへ此返事まち入候也、
           秀吉公御朱印
九月三日
 一柳市介とのへ
秀吉、九州役の直後に北政所に送った自筆の消息
『妙満寺文書』
 昨日薩摩のくにより肥後の国まてひき申し候間御心やすく候
へく候。六月五日ころに筑前の国博多まて参可申候。これは
はやばや半分はんふひき申候。大阪へは半分道にて候。博多
にて普請申し付け、六月中にて、もし七月は十日頃に大阪に
帰り、可申候。御心やすく候べく候。壱岐対馬の国まで人質
をいたし、出仕申事。又高麗の方まて日本の大内裏ゑ出仕可
 申よし早船を仕立て申つかわせ候。出仕不申候はば、来年成
敗可申よし申つかわせ候。唐国まで手に入れ、我等一期うち
に申つく可候。蔑みを致し候へは、一段ん骨折れ申侯。今度
陣には白髪が多く出来申侯て、ぬき申事もなり不申候。御め
にかかり候はん事、母もしにそもしへ計りは苦しからすと存
候へとも、迷惑に候。
  (天正十五年)
    五月廿九日
五月十日の文、今月廿八日肥後の国桟敷にて拝見候。明日は
八代まで越し可申候。島津走り入り候。其済まし様の事。
一 島津義久、人質、十五ばかりの娘一人子。
一 義久、在京の事。
一 宿老共、人質、十人ばかりの事。
一 島津兵庫頭、人質十五なり候 惣領の子大阪に詰めさせ、
又八歳になり候人質に出し候事。(略)
加藤清正の注進状-『韓陣文書』
〔天正二十年五月二日〕
急度言上致し候。今日二日、都の町より一里ほどの処、
から川と申す舟渡し御座候。則ち差渡り、時刻を移さず
都へ押し寄せ候ところ、国王ハ二、三日以前ニ明退かれ
候間、二日路ほど是より奥へ通り侯由申し候。然る間、
地下人助け置き、国王退口まで追い懸け少々差遣わし
侯。尚、追々御注進申上ぐべく候。定めて小摂かたより
も御注進申上ぐべく候。
此等の趣、然るべき様二御披露仰ぐ所に候。恐々
五月二日       清正
   長束大蔵太輔殿
   木下半介殿
秀吉から加藤清正への指示書-『加藤文書』
〔天正二十年五月十六日〕
一、(第一条)国王逃退の由、助け置かれ堪忍分仰付け
 らるべきの処二右の仕合残多く思召し候条、何とも候
 て尋出すベく候。山中へ逃入り候ハバ、餓死に及ぶべ
く候条、通仕を遣わし、その理を申し聞かせ、涯分相
 尋ぬべく候。聊爾ニ殺し候ハぬ様ニ申しつくべく候事。
一、(第二条)都并びに国中政道方の儀、小西と相談じ、
 下々摂にこれなき様ニ堅く申し付くべく候。然れば先
 へ越し候人数の事、何も都の外廻りニ野陣を仕るべく
 候。上様、御馬廻り・其外御番衆計りニて都の内に御
 座あるべく候条、その意を得、町人を悉く還住申し付
 くべき事。
一、(第三条)百姓町人已下還住させ、法度の儀能々申
 し付くべき旨仰付けられ、最前、御上使差遣わされ候
 へとも、国々ひろく候てたらず候ハバ、其方、小西相
 談じ、慥か成者を差選わすべく候事。
一、(第四条)兵糧の儀、所々念を入れ改め置き候由、
 尤ニ思召し候。此方より遣わされ候儀ハ先の人数渡海
 の儀仰付けられ観間、船差合わせ兵糧遅れ観ハんと思
 召し観ところ、沢山ニこれある由、何よりもって然る
 べく観。弥、念入りに改め置くべき事。
一、(第五条)都の内御座所の儀、何方ニても家のこれ
 ありて御用心然るべき所を見計らい、先、当座の御座
 所ニ仕るべく候。その普請衆の事、九州衆井びに備前
 宰相仕るべく候。城の事は内裏の跡にても所柄然るべ
 く候ハバ、御覧なされ仰付けらるべく候。先、そのう
 ちは当座の御座所仕るべく候事。
一、(第六条)路次すがら御酒々、そさうにても苦しか
 らず観。急ぎ出来観様二申し付くべく候。普請衆の書
 き立て別紙二遣わされ観。城も家もこれなき所は人数
 かさの省ニ申し付くべく候。城家これある所ハ、それ
 ぞれ見計らい、御普請仕るべきの由、申し聞かすべく
 候。これまた別紙ニ仰せ遣わされ候事。(以下賂)
鼻請取状-『吉川家文書』
      以上
請取り申す鼻数の事、
合四百八拾者、
慥ニ請取り申し候也。恐々謹言
(慶長二年)九月朔日  早川主馬頭
  吉川蔵人殿





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最終更新日  2022年02月26日 11時31分59秒
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