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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2022年02月27日
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カテゴリ:甲斐源氏
軍記物語 第六編(巻九、河原合戦)安田三郎義定
                   
宇治・勢田やぶれぬと聞えしかば、木曾左馬頭義仲、最後の暇申さんとて、院の御所六条殿へ馳せ参る、(中略)大将軍九郎義経、軍兵共に戦をばせさせ、院御所のおぼつかなきに、守護し奉らんとて、まづ我身ともにひた甲五六騎、六条殿へはせまいる、(中略)法皇大に御感あて、やがて門をひらかせて入られけり、(中略)法皇は中門のれんじより叡覧あて、
「ゆゝしげなるもの共哉、みな名のらせよ」
と仰ければ、まづ大将軍九郎義経、次に安田三郎義定、畠山庄司次郎重忠、梶原源太景季、佐々木四郎高綱、渋谷馬允重責とこそ名のたれ、義経ぐして、武士は六人、鎧はいろいろなりけれども、つらだましゐ事がらいづれもおとらず、
 (巻九、木曾義仲の最期)甲斐の一条次郎殿
義仲は長坂をへて丹波路へおもむくとも聞えけり、又龍花ごへにかゝて北国へともきこえけり、かかりしかども、今井が行ゑをきかばやとて、勢田の方へおちゆくほどに、今井四郎兼平も、八百余騎で勢田をかためたりけるが、わづかに五十騎ばかりにうちなされ、旗をばまかせて、主のおぽつかなきに、宮こへとてかへすほどに、大津の打出の浜にて、木曾殿にゆきあひたてまつる、互になか一町ばかりよりそれとみして、主従駒をはやめてよりあふたり、木曾殿今井が手をとての給ひけるは、
「義仲六条河原でいかにもなるべかりつれども、なんぢがゆくえの恋しさに、おほくの敵の中をかけわて、是まではのがれたる也」、
今井四郎、
「御ぢやうまことに恭なう候、兼平も勢田で打死つかまつるべう候つれども、御行えのおぼつかなさに、これまでまいて候」
とぞ申ける、木曾殿
「契はいまだくちせざりけり、義仲がせいは敵にをしへだてられ、山林にはせちて、此辺にもあるらんぞ、汝がまかせてもたせたる旗あげさせよ」
との給へば、今井が旗をさしあげたり、京よりおつる勢ともなく、勢田よりおつるものともなく、今井が旗を見つけて三百余騎ぞ馳せ集る、木曾大に悦て、
「此勢あらばなどか最後のいくさせざるべき、こヽにしぐらうで見ゆるはたが手やらん」、「甲斐の一条次郎忠頼殿とこそ承候へ」、
「せいはいくらほどあるやらん」、
「六千余騎とこそ聞え候へ」、
「さてはよい敵ごさんなれ、おなじう死なば、よからう敵にかけあふて、大勢の中でこそ打死をもせめ」とて、真っ先にこそすゝみけれ、木曾左馬頭、其日の装束には、赤地の錦の直垂に、唐綾おどしの鎧きて、くわがたうたる甲の緒しめ、いか物づくりのおほ太刀はき、石うちの矢の、其日のいくさにいて少々のこたるを、かしらだかにおいなし、しげどうの弓もて、きこゆる木曾の鬼葦毛といふ馬の、きはめてふとうたくましゐに、黄覆輪の鞍をいてぞのたりける、あぶみふばりたちあがり、大音声をあげて名のりけるは、
「昔はきゝけん物を、木曾の冠者、今はみるらん、左馬頭兼伊予守、朝日の将軍源義仲ぞや、甲斐の一条次郎とこそきけ、たがいによい敵ぞ、義仲うて兵衛佐に見せよや」とて、おめいてかく、
一条次郎、
「只今名乗るは大将軍ぞ、あますなもの共、もらすな若党、うてや」
とて、大ぜいの中にとりこめて、我うとらんとぞすゝみける、木曾三百余騎、六千余騎が中をたてさま・よこさま・蜘手・十文宇にかけわて、うしろへつといでたれば、五十騎ばかりになりにけり、
 (巻九、樋口被討罰)甲斐の一条次郎殿
今井が兄、樋口次郎兼光は、十郎蔵人うたんとて、河内国長野の城へこえたりけるが、そこにてはうちもらしぬ、紀伊国名草にありと聞えしかば、やがてつゞゐてこえたりけるが、都にいくさありときいて馳のぼる、(中略)
五百余騎のせい、あそこにひかへここにひかへ落行ほどに、鳥羽の南の門をいでけるには、其勢わづかに廿余騎にぞなりにける、樋口次郎けふすでに宮こへ人と聞えしかば、党も豪家も七条・朱雀・四塚さまへ馳向、樋口が手に茅野太郎と云ものあり、四塚にいくらも馳むかふたる敵の中へかけ人、大音声をあげて、「此御中に、甲斐の一条次郎殿の御手の人や在ます」ととひければ、
「あながち一条次郎殿の手で戦をばするか、誰にもあへかし」
とて、どとわらふ、わらはれてなのりけるは、
「かう申は信濃国諏訪上官の住人、茅野大夫光家が子に、茅野太郎光広、必ず一条次郎殿の御手をたづぬるにはあらず、おとゝの茅野七郎それにあり、光広が子共二人、信濃国に候が、「あぱれわが父はようてや死にたるらん、あしうてや死にたるらん」となげかん処に、おとゝの七郎がまへで打死して、子共にたしかにきかせんと思ため也、敵をばきらふまじ」
とて、あれに馳あひ是にはせあひ、敵三騎ゐおとし、四人にあたる敵にをしならべ、ひくでどうどおち、さしちがへてぞ死にける。
 (巻九、三草勢揃)武田太郎信義他
                    
さる程に、源氏は四日よすべかりしが、故人道(平清盛)相国の忌日ときいて、仏事をとげさせんがためによせず、五日は西ふさがり、六日は道忌日、七日の卯剋に、一谷の東西の木戸口にて源平矢合とこそさだめけれ、さりながらも、四日は吉日なればとて、大手搦手の大将軍、軍兵二手にわかて都をたつ、
大手の大将軍は蒲御曹司範頼、
相伴人々、武田太郎信義・鏡美次郎遠光・同小次郎長清・山名次郎教義・同三郎義行、侍大将には梶原平三景時・嫡子源太景季・次男平次景高・同三郎景家(中略)を先として、都合其勢五万余騎、四日の辰の一点に都をたて、其日中酉の剋に摂津国蹴陽野に陣をとる、搦手の大将軍は九郎御曹司義経、同く伴ふ人々、安田三郎義貞・大内太郎維義・行上判宮代康国・田代冠者信綱、侍大将には土肥次郎実平・子息弥太郎遠平、(中略)都合其勢一万余騎、同日の同時に都をたて丹波路にかゝり、二日路を一日にうて、播磨と丹波のさかひなる三草の山の東の山口に、小野原にこそつきにけれ、
 (巻十、海道下)甲斐の白根
さる程に、本三位中将(平重衛)をば、鎌倉の前兵衛佐頼朝、しきりに申されければ、「さらばくださるべし」とて、土肥次郎実平が手より、まづ九郎御曹司の宿所へわたしたてまつる、同三月十日、、梶原平三景時にぐせられて、鎌倉へこそくだられけれ、西国よりいけどりにせられて、宮こへかへるだに口おしきに、いつしか又関の東へおもむかれけん心のうち、をしはかられて哀也、(中略)宮こをいでて日数ふれば、やよひもなか半すぎ、春もすでにくれなんとす、(中略)宇都の山辺の蔦の道、心ぼそくもうちこえて、手ごしをすぎてゆけば、北にとをざかて、雪しろき山あり、とへば甲斐のしら根といふ、其時三位中将おつる涙ををさへて、かうぞおもひつゞけ給ふ。
  
おしからぬ命なれどもけふまでぞ
つれなきかひのしらねをもみつ
(巻十、藤戸) 加賀美次郎長清
(元暦元年)同九月十二日、参河守範頼、平家追討のために西国へ発向す、相ひ伴ふ人々、足利蔵人義兼・鏡美(加賀美)小次郎長清・北条小四郎義時・斎院次官親義、侍大将には、土肥次郎実平・子息弥太郎遠平(中略)此等を初として都合其勢三万余騎、宮こをたて播磨の室にぞっきにける、
 
(巻十一、遠矢)浅利与一
 
又判官(義経)ののり給へる船に、奥よりしらののおほ矢をひとつゐたてて、和田がやうに
「こなたへ給はらん」
とぞまねいたる、判官是をぬかせて見給へば、しらのに山鳥の尾をもてはいだりける矢の、十四束三ぶせあるに、伊予国住人、仁井紀四郎親清とぞかきつけたる、判官、後藤兵衛実基をめして、「この矢ゐつべきもの、みかたに誰かある」との給へば、
「甲斐源氏に阿佐里(浅利)与一(義成)殿こそ、勢兵にて在まし候へ」、
「さらばよべ」
とてよばれければ、
阿佐里の与一いできたり、判官の給ひけるは、
「奥よりこの矢をゐて候が、ゐかへせとまねき候、御へんあそばし候なむや」、
「給て見候はん」
とて、つまよて、
「是はすこしよはう候、矢づかもちとみじかう候、おなじうは義成が具足にてつかまつり候はん」
とて、ぬりごめ藤の弓の九尺ばかりあるに、ぬりのにくろぽろはいだる矢の、我が大手にをしにぎて、十五束ありけるをうちくわせ、よぴいてひやうどはなつ、四町余をつとゐわたして、大船のへにたたる仁井の紀四郎親清かまたゞなかをひやうふつとゐて、船底へ逆さまにゐたうす、生死をばしらず、
阿佐里の与一はもとより勢兵の手きゝなり、二町にはしる鹿をば、はづさずゐけるとぞきこえし、
 
(第二末、石橋山合戦事)
    
サル程ニ、北条(時政)・佐々木ガー類ヲ初トシテ、伊豆・相模両国住人同意与カスル輩、三百余騎ニハ過ザリケリ、(治承四年)八月廿三日ノタニ土肥ノ郷ヲ出テ、早川尻ト云所ニ陣ヲ取ル、早川党が申ケルハ、
「是ハ戦場ニハ悪候ベシ、温本ノ方ヨリ敵山ヲ超テ後ヲ打囲ミ、中ニ取籠ラレ候ナバ、一人モ遁ルベカラズ」
ト申ケレバ、土肥ノ方へ引退テ、コメカミ石橋ト云所ニ陣ヲ取テ、上ノ山ノ腰ニハカイ楯ヲカキ、下ノ大道ヲバ切塞ギテ立籠モル。
サテ兵衛佐(源頼朝)ハ山ノ峯ニ上リテ、臥木ノ在ケルニ、尻打懸テ被居タリケルニ、人々跡ヲ尋テ少々来リタリケレバ、
 「大庭・曾我ナムドハ山ノ案内者ナレバ、定テ山フマセムズラム、人多テハ中々悪カリナム、各是ヨリ散々ニナルベシ、我若世ニアラバ、必ズ尋来ルベシ、我モ又可尋」
ト宣ケレバ、
「我等既ニ日本国ヲ敵ニウケテ、イヅクノ方ヘマカリ候トモ、可遁トモ覚候ハズ、同ハ只一所ニテコソハ、塵灰ニモ成候ワメ」
ト申ケレバ、「頼朝、思様アリテコソカク云ニ、猶シヒテ落ヌコソアヤシケレ、各存旨ノ有力」
ト、重テ宣ケレバ、此上ハトテ、恐々ニ落行ケリ、
北条四郎時政・同子息義時、父子二人ハソレョリ山伝ニ、甲斐国ヘソ趣ケル、
加藤ニ景廉ト田代冠者信綱トハ、伊豆三崎ノ宝殿ノ内ニ龍リタリケルガ、夜ホノボノアケゝレバ、宝殿ヲ出テ恐々ニゾ落行ケル、景廉ハ兄加藤藤太光員ニ行合テ、甲斐国ヘソ落ニケル。
(第二末、土屋三郎与小二郎行合事)
                      
サテ北条四郎時政ハ甲斐国へ趣、一条(忠頼)・武田(信義)・小笠原(遠光)安田(義定)・坂桓(兼信)・曾祖禅師(厳尊)・那(奈)古蔵人(義行)、此人々ニ告ケルヲバ、兵衛佐ハ知給ハデ、
「此事ヲ甲斐ノ人々ニ知セバヤ」
トテ、「土屋宗遠行」トテ、御文書テ遣シケリ、夜ニ入テ足柄山ヲ越ケルニ、関屋ノ前ニ火高ク焼タリ、人アマタ臥タリ、土屋三郎アユミヨリテ、足音高シ、シワブキシテ訇リケレドモ、「タソ」トモイワズ、土屋三郎思ケルハ、
「ネ人タルョシヲシテ、コヽヲトヲシテ、先二人ヲヲキテ、中ニ取籠トズルヤラム」、
サレバトテ可帰ニモ非ズシテ、走通ケレバ、誠子不入タリケル時ニヲトモセズ、
サテ人一人行進タリ、アレモヲソレテモノイワズ、是モヲヂテオトモセズ、中一段計ヲ隔テ、互ニニラマヘテ、時ヲウツスホド立タリケリ、土屋三郎ハサル古兵ニテ有ケレバ、声ヲ替テ問ケリ、
「只今此山ヲ越給ハイカナル人ゾ」
ト云ケレバ、
「カク宣ハ又イカナル人ゾ」、
「ワ殿ハ誰ソ」、「ワ殿ハ誰ソ」
ト問程ニ、互ニ知タル声ニ聞ナシツ、
 「土屋殿ノマシマシ候カ」、
「宗遠ソカシ、小二郎殿カ」、
「義治候」、
土屋ハ元ヨリ子ナカリケレバ、兄岡崎四郎が子ヲ取テ、甥ナガラ養子于ンテ、平家ニ仕ヘテ在京シタリケルガ、此事ヲ聞テ、夜昼下リケルガ、可然事ニヤ、親ニ行進ニケリ、夜中ノ事ナレバ、互ニ顔ハミズ、声計ヲ聞テ、手ニ手ヲ取組テ、云遣ル方モナシ、ロハ「イカニイカニ」トゾ云ケル、山中へ人テ、木ノ本ニ居テ、土最小二郎が申ケルハ、
「京ニテ此事ヲ承テ、下候ツルガ、今日五日ハ馬乗タテ八歩行ニテ下候、下人一人モ追付ズ、コノヒル木瀬川宿ニテ承候ツレバ、『石橋軍ニ兵衛佐殿モ打レ給ヒヌ、土屋・岡崎モ打タリ』ト申候ツレバ、悠ニ京ヲバ罷出候ヌ、波ニモ礒ニモ付ヌ心地シテ候ツルガ、サルニテモ土屋ノ方ヘマカリテ、一定ヲ承定ムトテ下候ツルガ、関屋ノ程が思遺レテ、足占シテ候ツルナリ」
ト語ケレバ、土屋三郎思ケルハ、
「弓矢取者ノニクサハ、親ヲ打テハ子ハ世ニアリ、子ヲ殺シテハ親世ニアル習ナレバ、シカモ実ノ親ニテモナシ、アレハ只今マデ平家ニ仕ヘタリ、是ハ源氏ヲタノミテアリ、首ヲ取テ平家ノ見参ニモヤ人ラムト思ラム」
ト思ケレバ、有ノマゝニモ云ザリケリ、「打レタル人トテハ、ワ殿が兄余一(義忠)殿・北条三郎宗時・沢六郎、公藤介ハ自害シツ、
兵衛佐殿ハ甲斐ヘト聞時ニ、尋奉リテ趣也、イザサラバ、ワ殿モ」トテ、カヒ具テツレテユク、甲斐国へ趣テ、一条二郎が許ニテゾ、有ノマゝニ語ケル。
 
(第二本、平家ノ人々駿河国ヨリ逃上事)一条次郎忠頼
平家ノ討手ノ使、三万余騎ノ官軍ヲ卒シテ、国々宿々二日ヲ経テ、宣旨ヲ読懸ケレドモ、兵衛佐ノ威勢ニ怖テ、従付者ナカリケリ、駿河国清見関マデ下タリケレドモ、国々輩一人モ従ワズ、(中略)
(治承四年)十月廿二日、兵衛佐ハケ国ノ勢ヲ振テ、足柄ヲ越テ、木瀬川ニ障ヲ取テ、兵数ヲ注シケリ、侍、郎等、乗替相具テ、馬ノ上、十八万五千余騎トソ注シケル、
其上甲斐源氏ニハ、一条次郎忠頼ヲ宗トシテ、二万余騎ニテ兵衛佐ニ加ル、
 (第三本、沼賀入道与河野合戦事)
東国源氏謀反事、重テ申送之間、被下宣旨ヲ、其詞云、伊豆国流人源頼朝、并甲斐国住人同(武田)信義等、偏ニ企狼戻ヲ、頼ニ励鳥合ヲ、軽便之賊結党ヲ、愚惷之徒ラ成群ヲ、征伐未彰、漸ク送ル旬月ヲ、黎民之愁へ、時トシテ而不休マ、宜ク仰越後国住人平助長ニ、追討件ノ輩等ヲ、随其功効、可加殊賞ヲ者。
   治承五年正月十六日  左少弁(藤原行隆)
次日又重被下 宣旨、其詞云、(源信義)
 伊豆国流人源頼朝者、父義朝後行斬刑ニ之時、頼朝可同其科、早ク依寛宥之仁ニ、既免死罪之刑ヲ、加之、祖父為義、雖後刎頚、云徒党所領ト、云郎従田園ト、皆後宥行、仁化之至也、而空忘龍光之旧照ヲ、猥ク巧狼戻之新謀ヲ、甲斐国住人源信義以下、国々源氏皆以合力、軽便之賊結党、愚意之徒成群ヲ、暴悪之甚コト未有ラ、此夫卒土之浜、皆是王地也、普天之下、誰非公民ニ哉、王事無濫コト、天誅定加、而征伐未彰、旬月漸ク積ル、黎民之悲ミ、叡慮無聊、宜ク仰テ鎮守府将軍藤原秀衡ニ、令ム追討後輩等ヲ、雖云田父野叟之類ナリト、是無ンヤ忘身憂国之士、為ニ将軍之職掌ノ不励敗死之勳ヲ哉、随其勲功ニ、加ベシ不次之賞ヲ者、
  治水五年正月十七日  左中弁(藤原経房)
 (第三本、兵衛ノ祈ニ秘法共被行事)武田信義
猿程ニ大法秘法被行ケレドモ、猶世中不閑、仍同十三日被宣下、其状云、
 
源頼朝、同信義(武田)、去年以来、恣ニ振己威ヲ、猥ク背皇憲ヲ、非唯虜掠ノミニ東国之州県ヲ、既ニ欲劫略ムト北隆之土民ヲ、黎元之愚、蒭蕘之県、各ノ赴テ勧誘之詞ニ、悉ク人反逆之中ニ、不顧凰衙之炳誠ヲ、弥挾ム狼戻之奸心ヲ、訪ニ之、古今曾テ無比類、掲テ仰越前守平通盛朝臣・但馬守同経正朝臣等ニ、催駈北陸道諸国軍兵ヲ、令ベシ追射抜頼朝・信義(武田)及与力同意之輩ヲ者、
   養和元年十月十三日  左中弁(平知親宗)
 (第三本、兵衛佐与木曾不和ニ成事)武田信光
去比ヨリ、兵衛佐卜木曾冠者義仲ト不和ノ事有テ、木曾ヲ討ムトス、其故ハ、兵衛佐ハ、先祖ノ所ナレバトテ、相模国鎌倉ニ住ス、叔父十郎蔵人行家ハ、大政入道ノ鹿嶋詣トシテ造儲タリケル、相模国松田御所ニソ居タリケル、(中略)行家
「兵衛佐ヲタノミテ、ヨニ有ムコトコソアリガタケレ、木曾冠者ヲ侍ム」
トテ、千騎ノ勢ニテ信乃国へ越ニケリ、
兵衛佐是ヲ聞テ、
「十郎蔵人ノ云ワム事ニ付テ、木曾冠者、頼朝ヲ責ムト思心付テムズ、襲ワレヌ先ニ木曾ヲ射ム」
ト思ケルヲリフシ、
甲斐源氏武田五郎信光、兵衛佐ニ申ケルハ、「信乃木曾二郎ハ、ヲトドシ(一昨年)六月二、越後ノ城ノ四郎長茂ヲ打落シテョリ以来、北陸道ヲ管領シテ、其勢雲霞ノ如シ、集悪ノ心ヲ挿テ、『平家ノ婿ニナリテ、佐殿ヲ討奉ラム』トハカルヨシ承ハル、平家ヲ責ムトテ、京へ打上ルョシハ聞ユレドモ、実ニハ、平家ノ小松内大臣(平重盛)ノ女子ノ十八ニナリ観ナルヲ、叔父内大臣(平宗盛)養子ニシテ、木曾ヲ婿ニ取ムトテ、内々文ドモ通観ナルソ、其御用意アルベシ」
ト、密ニ告申タリケレバ、佐大ニ怒テ、「十郎蔵人ノ語ニ付テ、サル支度モアルラム」
トテ、ヤガテ北国へ向ムトシケルヲ、其日鎌倉ヲ立テ、坎日ナリケレバ、
「イカマアルベキ、明晩ニテ有ベキ者ゾ」
ト、老輩諌申ケレバ、佐宣ケルハ、
「昔頼義朝臣、貞任が小松ノ館ヲ攻給ケル時、『今日往亡日ナリ、明日合戦スベシ』
ト人々申ケレバ、武則先例ヲ勘テ申ケルハ、
『宋武帝敵ヲ討シ事、・往亡日ナリ、兵ノ習、敵ヲ得ヲ以テ吉日トス』
ト申テ、ヤガテ小松館ヲ攻落シタリケリ、イワムヤ坎(コン)日何ノ隙カアルベキ、先規ヲ存ズルニ吉例也」トテ、打立ケリ、
木曾是由ヲ聞テ、国中ノ勇士ヲ卒シテ、越後国へ越テ、越後ト信乃トノサカヒナル、関山ト云所ニ障ヲ取テ、稠ク固テ、兵衛佐ヲ待懸タリ、兵衛佐ハ武田五郎(信光)ヲ先立ニテ、武蔵・上野ヲ打トヲリテ、臼井坂ニ至リニケレバ、八ヶ国ノ勢ドモ我ヲトラジト馳重テ、十万余騎ニ成ニケリ、信乃樟佐川ノハタニ陣ヲ取ル、
木曾義仲此事ヲ聞テ、
「軍ハ無勢多勢ニヨラズ、大将軍ノ冥加ノ有無ニヨルベシ、城四郎長茂八十万余騎ト聞ヘシカド、義仲二千騎ニテケチラカシキ、サレバ兵衛佐十万余騎トハキコユレドモ、サマデノ事ハヨモアラジ、但当時兵衛佐ト義仲ト中ヲタガハバ平家ノ悦ニテアルペシ、イトドシク都ノ人ノ云ナルハ、
『平家皆一門ノ人々ヲモヒアヒテアリシカバコソ、ヲダシウテ廿余年モ持チツレ、源氏ハ親ヲ打、子ヲ殺シ、ドシ打セムホドニ、又平家ノ世ニゾ成ムズラム』ト云ナレバ、当時ハ兵衛佐ト敵対スルニ及バズ」 
トテ、引帰テ信乃へ越ケルガ、又イカゞ思ケム、ナヲ関山ニヒカヘタリ、(中略)
武田五郎信光、木曾ヲアタミ、兵衛佐(頼朝)ニ後言シケル意趣ハ、
「彼清水冠者(木曽義高)ヲ信光が婿ニトラム」
ト云ケルヲ、木曾ウケズシテ、返事ニ申タリケルハ、
「同源氏トテ、カクハ宣フカ、娘モチタラバマイラセヨカシ、清水ノ冠者ニツガワセム」
ト云ケルゾ、アラカリケル、
信光是ヲ聞キテ、ヤスカラズ思テ、イカニモシテ木曾ヲ失ハムト思テ、兵衛佐ニ讒シタリケルトゾ、後ニハ聞ヘシ、
(第三末、義仲白山進願書事付兼平与盛俊合戦事)
北陸道反逆之輩事、被下宣旨、其状云、
 
源頼朝・同信義(武田)等、頃年以来、住猛悪之逆心、企狼戻之姧濫、・其同意与力之輩、従東国及北陸、虜掠致ケ国之州県、・劫略若干之黎民、謀反之甚、和漢尠比、仍仰前内大臣、宣命追討北陸道之逆賊者、
  寿永二年五月廿日  左中弁(藤原兼光)
 (第四、源氏共勧賞被行事)安田遠江守義定
(寿永二年八月)十日、後白河法皇蓮花王院ノ御所ヨリ南都へ移ラセ給テ後、三条大納言藤原実房、左大弁宰相経房参給テ、小除目被行、木曾冠者義仲、左馬頭ニナサレテ越後国ヲ給ワリ、十郎蔵人行家ハ備後守ニゾ成ニケル。各国ヲ嫌申ケレバ、十六日ノ除目ニ、義仲ハ伊与国ヲ賜リ、行家ハ備前守ニ移サレヌ、安田三郎義定ハ遠江守ニ成レニケリ、
 (第五本、兵衛佐ノ軍兵等付宇治勢田事)武田太郎信義
(元暦元年正月)同廿日辰剋ニ、東国軍兵六万余騎二手ニ作テ、宇治・勢多両方ヨリ都へ人ル、勢多手ニハ蒲冠者大将軍(源範頼)トシテ、
同相従輩ハ、武田太郎信義・加々見太郎遠光・同次郎長清・一条次郎患頼・板垣三郎兼信、侍大将軍ニハ、稲毛三郎重成・飯谷四郎重朝・土肥次郎実平:小山四郎朝政・同中流五郎宗政・猪俣小平六則綱・小山・宇津宮・山名・里見ノ者共ヲ始トシテ、三万五千余騎ニハ過ザリケリ、
宇治ノ手二八九郎冠者ヲ大将軍トシテ、相従人々、安田三郎義定・大内太郎惟義、侍大将軍ニハ、畠山庄司次郎重忠・舎弟長野三郎重清・三浦十郎義連・梶原平三景時・嫡子源太景季・熊谷次郎直実・同子息小次郎直家・佐々木四郎高綱・渋谷馬允重助・糟屋藤太有季・サゝヲノ三郎義高・平山武者所季重ヲ始トシテ二万五千余騎、二手ノ勢六万余騎ニハ過リケリ、
 
(第五本、義仲都落ル事付義仲被討事)甲斐ノー条殿(忠頼)
木曾ハ龍花ヲ越テ北国へ趣クトモ聞ケリ、又、中(長)坂ニカゝリテ丹波国へ落ツルトモ云ケルガ、サハナクテ、乳母子ノ今井(業平)が行ヘヲ尋ムトテ、勢多ノ方へ行ケルガ、打出ノ浜ニテ行合ヌ、今井八五百余騎ノ勢ニテ有ケルガ、勢多ニテ皆係散サレデ、幡ヲ巻セテ三十騎ニテ京へ入ケルガ、木曾、今井ノ四郎卜見テケレバ、互ニ一町計リヨリ、ソレト目ヲカケテ、小馬ヲ早メテヨリ合ヌ、轡ヲ並テ、木曾ト今井ト手ヲ取クミテ悦ケリ、木曾宣ヒケルハ、
 「去年栗柄が谷ヲ落シテヨリ以降、敵ニ後ヲミセズ、兵衛佐ノ思ワム事モアリ、都ニテ九郎ト打死セムト思ツルガ、汝卜一所ニテトモカウモ成ナムト思テ、是マデキッル也」
ト云バ、今井ハ涙ヲ流シテ申ケルハ、
「如仰敵ニ後ヲ可見ニハ候ワズ、勢多ニテ何ニモ成ベキニテ候ツルガ、御行エノオボツカナサニ是マデ参テ候也、主従ノ契クチセズ候ナリ」
トテ、涙ヲ流シテ悦ケリ、木曾が旗指ハ射殺サレテナカリケリ、木曾宣ヒケルハ、
「汝が旗指上テミヨ、若勢ヤツク」
ト宣ヒケレバ、今井高所ニ打上テ、今井が幡ヲ指上タリケレバ、勢多ヨリ落ツル者ト、京ヨリ落者トモナク、五百余騎ソ馳参ル、木曾是ヲミテ悦テ、
「此ノ勢ニテナドカマ一度火出ホドノ軍セザルベキ、哀レ、死ヌトモ吉ラム敵ニ打向テ死バヤ」
トゾ宣ヒケレ、
サルホドニ、「爰ニ出来タルハ誰が勢ヤラム」ト宣ヘバ。
 「アレハ甲斐ノー条殿(忠頼)ノ手トコソ承ワレ」、
「勢イカホド有覧」ト問給ヘバ、
「六千余騎トコソ承ワレ」
卜申ケレバ、
「敵モヨシ、勢モ多シ、イザヤ係ム」
トテ、木曾ハ赤地ノ錦ノ直垂ニ、ウス金ト云唐綾ヲドシノ鎧ニ、白星ノ甲キテ、廿四指タル切文ノ矢二、塗ゴメ藤ノ弓二、金作ノ大刀ハイテ、自葦毛馬ニ黄伏輪ノ鞍置テ、厚ブサノ楸カケテゾ乗リタリケル、マッ先ニ歩セ向テ名乗ケルハ、
 「清和天皇十代ノ末葉、六条判営為義孫、帯刀先生義賢次男、木曾冠者、今ハ左馬頭兼伊与守、朝日ノ将軍源ノ義仲、アレハ甲斐ノー条ノ次郎殿トコソ聞、義仲打取テ頼朝ニ見セテ悦バセョヤ」
トテ、ヲメイテ中へ係入テ、十文字ニソ戦ケル、
一条次郎是ヲ聞テ、「名乗ル敵ヲ打ヤ者ドモ、クメヤ若党」トテ、六千余騎が中ニ取龍テー時計ゾ戦ケル、木曾散々ニ係散シテ、敵キアマタ打取テイデタレバ、其勢三百余騎ニソ成ニケル。
 
(第五本、樋口次郎成降人事)逸見冠者義清
サルホドニ樋口次郎兼光、遺跡ヲ上りニ四塚ヘムケテ歩セケリ、兼光京へ入ルト聞ケレバ、九郎義経ノ郎等共、我モ我モト七条、朱雀、四塚へ馳向テ合戦ス、樋口ガ甥、信乃武者ニ千野太郎光弘三十騎計ニテ先陣ニスゝム、武者二行向テ、スゝミ出テ申ケルハ、
イヅレカ甲斐ノー条殿ノ御手ニテ渡セ給候ラム、カク申ハ信乃国住人、スワノ上ノ官ノ千野大夫光家が嫡子、千野太郎光弘ト申者」ト云ケルヲ、筑前国住人、原ノ十郎高綱進出テ申ケルハ、
「ヤ、殿、必ズー条殿ノ御手ノカギリニ軍ハスルカ、誰ニテモアレ、向敵トコソ軍ハスレ、近寄合給へ、
互ノ手ナミ見タリ見ヘタリセム」トゾ申ケル、千野太郎「左右ニ不及」トテ、弓手ニスラヒテニ段許寄合テ、十二束ヨクヒイテ兵ド射ル、「高綱」ト云口ヲ射通テ、鉢付ノ板ニ射付タリ、馬ニモタマラズ落ムトスル所ヲ、千野太郎押並テ、弓手ノ脇ニカヒハサミテ、腰刀ニテ九頸ヲカキ切テ、大刀ノサキニサシツラヌキ、
「敵モ御方モ此ヲ見給へ、向フ者ヲカフコソ習セ、敵ヲ嫌ニアラネドモ。一条殿御手ヲ尋事ハ、光弘が弟、千野七郎ガー条殿ノ御手ニアル間、彼が見ム前ニテ打死セムト思、其故ハ、信乃ニ男子二人モチタルガ、幼ナキ者ニテ候也、成人シテ
 『我父ハ軍ニコソ死タムナレ、光弘最後之時、ヨクテヤ死ツラム、悪テヤ死ケム』
ト、オボツカナク思ワムモ不便ナレバ、子共ニ慥ニ語セム料ニ、一条殿ノ御手ヲバ尋ルゝ也」
ト申テ、大刀ノサキニツラヌキタル顕ヲバナゲステゝ、八大刀ヲ額ニアテゝ、大勢ノ中ニ馳人リ、散々ニ戦テ、究竟ノ敵十三騎切伏テ、終ニ自害シテコソ死ニケレ、其弟ノ千野七郎モ係出デ、樋ロガ勢ニ打向テ、敵二人ニ手負セテ打死ニシテムゲリ、云々
「京都ニハ出羽判富加匹男伊賀守光基・出羽蔵人光重・出羽冠者光義。
(中略)
甲斐国ニハ逸見冠者義清・同太郎清光・武田太郎信義、同弟ニ加々美次郎達光・安田三郎義定・一条次郎思頼・同弟板垣三郎兼信・武田兵衛有義・同弟伊沢五郎信光・小笠原小次郎長清、(中略)此等ハ皆六孫王ノ苗裔、多田新発満仲が後胤、頼義・義家が遺孫也、
家子郎等駆具ゼバ、日本国ニ誰カハ相従集ラザルベキ、其ニ昔ハ大衆厚モ防ギ、凶徒ヲモ退ケ、預朝賞宿望ヲモ遂シ事ハ、源平何モ勝劣ナカリキ、而当時ハ雲泥交ヲ隔テ、主従ノ礼ヨリモ猶異也、僅ニ甲斐ナキ命バカリ生タレ共、国々ノ民百姓ト成テ所々ニ隠レ居テ侍ルガ、国ニハ目代ニ随ヒ、庄ニハ預所ニ仕テ、公事・雑役ニ駆立ラレ、夜モ昼モ安事ナシ、イカ計カハ心ウク思ラン、君思召立テ令旨ヲダニモ下サセ給ハバ、且ハ奉公ノ忠ヲ存ジ、且ハ宿望ヲ遂ンガ為ニ、悦ヲナシ夜ヲ日ニ続テムラガリ上リ平家ヲ亡サン事、時日ヲバヨモ廻シ候ハジ、(中略)」ト、細々ト申上ケリ、
 (巻第十三、行家使節)
「抑令旨ノ御使、重力可動」ト仰ケレバ、三位入道(源頼政)申ケルハ、「外人ハ保有ベシ、新宮十郎義盛、折節在京ニ侍レバ被召テ使節ヲ可被仰合力」ト、「可然」トテ義盛ヲ召、事ノ次第委被下知ケレバ、十郎畏テ、
「平治年中ヨリ新宮ニ隠龍テ夜昼安キ心ナシ、イカニンテ素懐ヲトゲテ、再家門ノ恥ヲキヨメント存ル処ニ、今蒙厳命条、併ラ身ノ幸ニ侍リ、一門誰カ子細ヲ申ベキ、速ニ東国ニ罷下テ、同姓ノ源氏、年来ノ家人ヲ催シ上候ベシ」
トテ、御前ヲ立処ニ、三位入道申ケルハ、
「令旨ノ御使ヲ勤メ候ハンニハ、無官ニテハ其恐有ベシ」
ト申セバ、
「然ルペシ」
トテ当座ニ蔵人ニナサレケリ、十郎蔵人ハ、義盛ヲ改名シテ行家ト名乗、九日令旨ヲ給テ、十日ノ夜半ニ藤笈ヲ肩ニカケ、柿ノ衣ニ装束シテ、熊野ニテ見習タレバ山伏ノ学ヲシテ、海道ニ係テ下ケリ、先近江国ニハ、山本・柏木・錦織ニ角卜知セテ、令旨ノ案ヲ書与テ、美濃・尾張ヘコフ、山田・河辺・泉・浦野・葦敷・関田・八島ニ触廻リ、又案書ヲ与テ、信濃へ越フ、岡田・平賀・木曾次郎ニ相フレ、又案諸ヲ与テ、甲斐ヘコシ、武田・小笠原・逸見・一条・板垣・安田・伊沢ニ相フレテ、案書与テ、伊豆国北条ニ打越テ、右兵衛佐殿ニ角ト云、
 (巻第二十、石橋合戦・楚効荊保)平井冠者義直
(治承四年)八月廿四日辰刻ニハ、兵衛佐殿上ノ杉山へ引給フ、(中略)北条次郎宗時・新田次郎忠俊、馬ノ鼻ヲ返シテ戦ケル程ニ、甲斐国住人平井冠者義直ト伊豆国住人新田次郎忠俊ト馳並テ組デ落、差違テ死ニケリ、北条次郎宗時ハ波打ギハヲ歩セ落ケルヲ、伊豆五郎助久係並テ取組ンデ落ニケリ、両虎相戦テ互二亡命留名ケリ、
 (巻第二十一、兵衛佐殿隠臥木・韋提希夫人)
兵衛佐殿ハ土肥杉山ヲ守テ掻分々落給、(中略)北条(時政)四郎ハ甲斐国ヘソ越ニケル、兵衛佐ニ相従テ山ニ龍ケル者ハ、土肥次郎実平・同男遠平・新開次郎忠氏・土屋三郎宗達・岡崎四郎義実・藤九郎盛長也、兵衛佐ハ軍兵チリジリ成テ臥木ノ天河ニ隠レ入ニケリ、(中略)
異説ニ云、兵衛佐伏木ニ隠ントシ給ケル時ハ、土肥次郎実平・子息遠平・新開荒太郎実重・土屋三郎宗
遠・岡崎四郎義実・土肥が小舎人二七郎丸ト云冠者、佐殿共ニ七人也、跡目ニ付テ尋来タリケレ共、
「大勢ニテハ難忍、何方ヘモ各隠レ龍テ、後ニハ」
ト宣ケレバ、北茶時政ト子息義時トハ山伝シテ甲斐国へ落ヌ、田代冠者信綱ト加藤次景廉二人ハ、三島ノ社ニ隠タリケルガ、隙ヲ伺ヒ、社ヲ出テ落行ク程ニ、加藤太ニ行合テ、是モ甲斐ヘゾ越ニケルトアリ、
 
(巻第二十二、大太郎烏帽子)甲斐国住人太太郎  
軍将官ケルハ、
「敵ニ攻ラレテ甲ヲバ捨ツ、大童ニテハ落人トイハレナン、イカニソテ烏帽子ヲ著ベキ」
ト仰ラレケレバ、折節甲斐国住人大太郎ト云烏帽子商人、箱ヲ肩ニ懸テ道ニテ逢、然ベキ事也トオボシテ、
「何国ノ者ゾ」ト問給ヘバ、
「甲斐国住人太太郎ト申烏帽子商人也」
ト答、土肥申ケルハ、
「アノ男ハ真平ガ家人、商人ノ為ニ所慎ニ家造シテ通ヒ侍リ、ヤゝ太郎、人ハ七八人アリ、(中略)
中ニ忍テー人ハマカルナリ、イサ和殿モ佐殿ノ見参ニ入給へ」
トテ、其ヨリ打ツレテ甲斐国ヘソ越テ行、宗遠ハ道ニテモ心ユルシセズ、太刀抜懸テ、「近代ハ親モ子モナキ代也、誤給ナ小次郎殿、存旨アリ、小次郎殿」
トテ、当国ノ源氏逸見・武田・小笠原・河西・板垣告メグリ。一条殿ノ侍ニテコソ打トケ、有ノ優ニハ語ケレ、
 
(巻第二十三、大場降人)甲斐源氏二万余騎
大場三郎景親ハ、‐今ハ叶ハジト思テ、三千余騎ニテ平家ノ御迎トシテ上洛シケルガ、足柄山ヲ起テアヒ沢宿ニ着、前ニハ甲斐源氏二万余騎ニテ駿河国ニ越テ東国ノ勢ヲ待、後ニハ兵衛佐殿雲霞ノ如ク責上ト聞エケレバ、中間ニ被取籠リテ「イカガセン」ト色ヲ失テ仰天シケレバ、家人・郎等憑ナクテ思々落失ヌ、景観心弱成テ、鎧ノーノ草摺切落テニ所権現ニ奉リ、足柄ヨリ北星山ト云所ニ逃籠テ、息ツキ居タリ、(中略)懸シカバ大場モ終ニ首ヲ延テ参ケリ、源氏ハ加様ニ大勢招集テ、足柄山ヲ打越テ、伊豆国府ニツキテ三島大明神ヲ伏拝ミ、木瀬川宿・車返・富士ノ麓野。原中宿・多胡宿・富士川ノハタ、木ノ下、草ノ中ニミチミチタリ、其勢廿万六千余騎トソ注タル、
 平家ハ東路ニ日数ヲヘツ八路次ノ兵召具シテ五万余騎ニテ駿阿国清見が関マデ責下レリ、(中略)其ヨリ沖津・ 国崎・湯井・蒲原、富士川ノ西ノハタ迄責奇タリ、此河ノ有様、水上ハ信濃ヨリ流トカヤ、此ヨリ南へ落タリ、渚ハ大海へ二里バカリ有ト云、河ノ広サ、或一町バカリ、或八二町バカリ、水濁テ波高シ、流ノ早事、立板ニ水ヲ懸ニ似タリ、マシテ雨降水出タラン時ハ、向ベキニ非ズ、東西ノ川原モ遠広ニ、西ノ耳ニハ平家赤旗ヲ捧テ固メ、東ノ川原ニハ源氏白旗ヲ捧タリ、
源氏ノ方ヨリハ安田冠者義貞先陣ニ有ケルガ、時々使者ヲ立テ、
「其へ参ベキカ、是へ御渡有ベキ歎、見参何時ソヤ、名対面共シテ、何方ヨリモ悠ニ寄ベキ様モナシ、カク空ク日数ヲフル、大ナル僻ナリ」
トスル間ニ、屋形共ヲ指上テ閑ニ幔幕引テ居タリナドスル程ニ、東国広ケレバニヤ、源氏ノ勢イヤゝニ付テ勢モノ恐シク見ユ、白旗ノ風ニ吹ルこ畢ハ、サヾ波ナンドノ様ニソ有ケル、
 (巻第二十三、頼朝鎌倉入勧賞)安田・一条
兵衛佐殿ハ其ヨリ鎌倉へ帰人テ、様々事行シ給ケリ、先勧賞有ベシトテ、遠江ヲバ、安田三郎ニ給フ、駿河ヲバ、一条次郎ニ給、上総ヲバ介八郎ニ給フ、下総ヲ八千葉介ニ給、其外奉公ノ忠ニヨリ人望ノ品ニ随テ、国々庄々ヲ分給ケリ、
 
(巻第二十三、平家方人罪科)
凡有患者ヲバ賞シ有罪者ヲバ洙シ給フ、八箇国ノ大名小名眼前ニ打随テ、四角八方ニ並べ居ツゝ、非番当番シテ被守護、其勢四十万余騎トゾ注シケル、呉王ノ姑蘇台ニ在シガ如ク、始皇ガ咸陽宮ヲ治シニ似タリ、扉カヌ草木モナカリケリ、今ハ東国ニハ其恐ナシトテ、十郎蔵人行家・木曾冠者義仲ヲ始トシテ、一性ノ源氏、一条・安田・逸見・武田・小笠原等ヲ以テ平家追討ノ談義様々ナリ。
  (巻第二十八、頼朝・義仲、仲悪しき事)
寿永二年三月の頃より、兵衛佐(頼朝)と木曾冠者と仲悪しき事出で来れり、甲斐源氏武田太郎信義が子に石和五郎信光が後言に依てなり、譬へば信光に最愛の女のありけるに、木曾が嫡子清水冠者を婿に取らんと言ひ遺はしたりければ、木曾、無愛に返事する様は、
「娘持ち給ひたらば参らせよ、清水冠者に宮仕はせん、妻までの事は思ひ寄らず」
と言ひたりけるを、信光遺恨に思ひけり。
抑々当家はこれ清和天皇の後胤、多田新発意満仲三代の孫、伊予守頼義に三人の子ありき、国家を守らんため、家門の繁昌を思ふ故に、三社の神に遺る、
所謂、
太郎義家 八幡大菩薩、
二郎義綱 賀茂大明神、
三郎義光 新羅権現、
木曾は太郎の末、頼義より五代の孫、
信光は三郎の末、頼義より又五代なり、信光は甲斐の武田の住人、
義仲は信濃の木曾に居住せり、一門更に勝劣なし、遺恨の木曾が詞なり、世の乱れなくば打越えてこそ怨むべきに、総事に付けて亡ぼさんと思ひて兵衛佐殿に内々申しけるは、
「木曾義仲、去々年、越後の城太郎資永を打落してより以来、北陸道を討ち領じて、その勢雲霞の如し、今平家詐取のために上洛の由披露あり、実には小松(平重盛)の大臣の女子の十八になり給ふを、伯父の宗盛養子にして、木曾を婿に取らんと、忍び忍びに文ども通はすと承る、かくして平家と一つになって、当家を亡ぼさんといふ最悪の企てあり、知ろし召されずもや」
とぞ申したりける、兵衛佐大きに驚き給ひけり、





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最終更新日  2022年02月27日 17時34分40秒
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