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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2022年03月19日
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佐 渡 金 山 その一

 

著者略歴 磯部欣三氏

一九二六年(昭和元年)二月、新潟県佐渡郡に生る。

毎日新聞新潟支局勤務。

鉱山庶民史に興味を持ち

「水替無宿論」 

「水金遊廓・人身売買」 

「金山町の流人」などの論稿がある。

著書『佐渡金山の底辺』『流人帖』(共著)。

 

昭和三十九年(1964)十一月二十日 初版発行

   新人物往来社刊

   

一部加筆 山梨県歴史文学館

 

佐 渡 金 山

孤島の金山 新潟県佐渡郡相川町

 

これが佐渡金山の所在地である佐渡島の北辺の、シベリヤに面した小さい町で、人口は二万人位ある。

 夏は観光客がたくさん来るので、町は「おけさ節」で騒がしくなるが、冬は激しい季節風が吹く。

佐渡の北海岸の冬は、雪が積らないかわりに、風がとくに強いので、なんとなく荒涼、蕭条とした感じになる。その風景は、廃墟となった佐渡金山のイメージとぴったりする。

 佐渡が日本海の孤島なら、相川町はその最果ての町である。近世初頭には、ここに大きな鉱業都市が誕生した。

 

ここで、佐渡と貴金属鉱山についてふれると、代表的な金、銀山が佐渡には三つあった。

 島の南部の西三川山(真野町)は砂金の産地で『今昔物語』や『宇治拾遺物語』にも、この山に関係したと思われる記事がある。島でいちばん古い鉱山である。

 

 もう一つは中世末期、天文年間に開発されたといわれる鶴子山(佐和田町)である。

これは上杉景勝が支配していた。戦国期に、景勝が秀吉に上納した金、銀は、この鶴子山と西三川山の産出と考えられる。

 中世末、または江戸時代初期に、鶴子山の峠を一つ越えた北側に、相川山が開発された。

 

佐渡金山といえば、この西三川山、鶴子山、相川山の三つを総称したことになるが、相川山が開発されてからは、幕府は佐渡を天領(直轄支配地)とし、相川町に佐渡奉行を置いて、金銀山を支配した。

産出量も、この時点ては、相川山がケタ違いに多かったので、相川山のことを佐州銀山と呼び、西三川山は西三川坑、鶴千山は鶴予と呼んで佐州銀山の一稼行区とした。

 ここでは相川山、つまり佐州銀山を、現代風に佐渡金山とした。実は金より銀の方が産額が多

かったのだが。

 江戸幕府の財源 佐渡金山は、近世史上、わが国最大の金銀山といわれる。幕府が本格的な開発を始めたのは、関ケ原の戦いが終った翌年の慶長六年(一六〇一)で、七年には有名な大久保長安が、奉行となった。

維新後、宮内省御料局財産から民間の三菱金属に払い下げられたが、江戸時代全期にわたって、幕府で直営して、かなり有力な財源であった。

採鉱や精錬技術は、全国貴金属鉱山で、常に進歩したものであった。幕府がいち早く投資したのである。

 

 ピークは、十七世紀前半(元和-寛永)の約三十年間である。この時代の銀の産出量を推定した、京都大学の小粟田淳博士によると、六万から九万キログラムという。当時の世界産額の、だいたい十五パーセントに相当した。小粟田博士は、この時代で世界で三位を下らない銀山とみている。

 

金山経営は、相川山の場合、敷人足と呼ばれる拡内労働者と、岡人足と呼ばれる坑外労働者、つまり精錬人足によって成り立っていた。

採掘と精錬とは、別々の分業制度によるのが普通である。

 

坑内人足 

坑内労働者には、直接鉱石を採掘する大工(坑夫)と、採掘された鉱石を運搬する荷揚、手伝い、採掘用の鉄具を生産する鍛冶、採掘後の数(坑内)を整理する跡向き、また特殊な技術者として、坑道の支柱作業に当る山留がある。

これを総称して坑内労働者、または穿子というが、このほかに、坑内の地下湧水を除外する排水人足がある。

 これらの下層労尚者は、金児と呼ばれる現場監督に隷属して、請国の金山を移動して行くのが多い。金児は技術者であるし「組」のような組織の頭であった。この金児を支配するのは山師である。

 山師は古くは出生、山元とも呼ばれた。奉行からヤマを請負って稼業するのが山師である。山師は金児のように技術者ではないが、優秀なヤマを見立てて、それを稼業する企業家であり、稼業するに当って多数の金児を雇い、技術や労働力を提供してもらう。金児は、この山師の下使いであるが、のちには山師から独立して、自分でヤマを請負って稼業する、新しい企業家に変質した。そのとき山師が没落する。

 

 それ以前の両者の関係は山師が開示(坑)を請負うと、その間歩を、何人かの金児が分担して稼ぐ。この金児の堀場を敷または領分という。

 ここでは、こういうヤマの生産組織は省略して、坑内労働者の生活が、おけさ節が歌うようになぜ悲惨であったかを調べてみたい。

 

 佐 渡 金 山 その二

 

著者略歴 磯部欣三氏

一九二六年(昭和元年)二月、新潟県佐渡郡に生る。

毎日新聞新潟支局勤務。

鉱山庶民史に興味を持ち

「水替無宿論」 

「水金遊廓・人身売買」 

「金山町の流人」などの論稿がある。

著書『佐渡金山の底辺』『流人帖』(共著)。

 

昭和三十九年(1964)十一月二十目 初版発行

   新人物往来社刊

 

  採鉱の技術 

 

佐渡金山で、鑿岩用の火薬が使用されたのは幕末の慶應四年(一八六八)である。

ガールという英人技師が初めて紹介した。鑿岩機が使われたのは明治二十年(一八八七)であった。

 江戸時代は、もっぱら鑚(きり)と鉄製の槌を用いて行なう「手掘り」形式である。鑚は三十五匁位の重さで、これを上田箸と呼ぶ「鐡挟み」ではさみ、右手で柄のついた槌をにぎり、脈を砕いた。

採掘法は、鍛を鉱脈の割れ目に打ち込み、脈が割れないときは、金椀や、ゲンノウを用いて、打ち割った。

 

 佐渡金山の鉱脈は、石英が多く、硬度は八、九度で、岩盤が非常に硬い。周辺の母岩も珪化作用が進んでいて、採鉱に苦労した。裂開性の石は割れやすいが均質で堅緻なところは、なかなか割れないので、鑚を鉱脈に四角に打ち込んで割り取る。また炭火を起して、鉱石面の水分を発散させ、石右を膨脹させてから掘鑿した。

 

「貫目振り」というのがある。

鉱石の量で賃金が決定した。これは通常行なわれた稼行法である。もちろん労働力を高めるのがねらいであった。

 作業の促進法に「さっさ掘り」というのもあった。一つの坑内に大勢の大工をふりむけて

「さっさ掘れ掘れ、やわらぎだ」

と、囃し立てる。やわらぎは、岩盤のやわらかいことを意味した。

 

「狸掘り」は、良鉱が、広い岩葉に局部的に散らばっているような場合、人間が一人だけ通れるような穴を掘って採鉱する。これは探鉱の際にもしばしば行なわれた。この狸掘りの跡は、いたる処に残っている。

 採掘法も鑿岩槻と違って手振りの場合はいろいろ工夫されたが、「上部階段掘り」や「斜鉱掘り」が、能率的だった。頭の上を掘れば、落下して鉱石の除外が早い。

 坑内の昇降には、梯子が用いられた。丸木を二つに割り、あるいは丸太のままで、階段を繰り抜いてつけた、原始的な梯子で、最近古代遺跡からも同じものが見つかっている。

ごく古い時代から、佐渡では用いていた。長さは三~四メートルもある。これを使って、坑道の最底部に達するまでには、五十から百本以上の梯子を下らねばならなかった。

 

坑内の有様 

 

坑道の入口を「釜ノ口」といい、入口から採鉱の現場までの道程を「廊下」とい

った。坑道を据愁する作業は「間切り」といい、大工の作業場は「切羽」、足を支えている場所を「台」と呼んだ。

 坑内は真夏でも十五度くらいで、大工はいつも裸であった。当時の坑内絵図をみると、坑内の両端に渡した木の吊り台の上に、褌(ふんどし)一本の若い大工たちが、頭巾や頬かむりして、かたまって、頭上の脈に槌をふるっている。切羽の一角に吊した小さな灯皿の光がかぼそく灯り、地獄の底を思わせるような、蟻の六道みたいな坑道で、ひしめき合い、作業している。

近くに頭大工がいて、掘られた鉱石を手元にたぐりよせ、作業の能率を測定している。

 大工には、初期には定まった労働時間がなかった。「昼番」とか「夕入大工」の区別で時間交代制ができたのは、中期以降である。それまでは、所定の鉱量を出すまで、昼夜ぶっ通しで作業をすることが多く、過重労働で健康を害する者が多かったから、労働力はいつも不足した。

 

 天保年間(一八三〇~一八四三)になると、二交代制が確立した。

朝五ツ時(午前八時)から七ツ時(午後四時)までが昼番で、

夜五ツ時(午後八時)から晩七ツ時(午前同時)までが夕入であった。

 安政期(一八五八~五九)にはいると、これでも健康を害するというので、三交代制がとられた。

朝一番方は明六

ツ(午前六時)から四ツ時(十時)まで。二番方は四ツ時から八ツ時(午後二時)まで。三番方は八ツ時から暮六ツ(午後六時)と定められた。夜間もこれに準じた。

この二時、四時間の労働を「肩一枚」と称した。肩一枚の採掘量は、普通一貫五百目ないし三貫目とし、賃金もそれに準じて七十六文であった。

賃金を、なるべく多く稼ぎたいために、昼の一番方に差組まれた大工が、夕方他の坑の夜番にも稼ぎに出ることがあった。これを「またぎ大工」と称した。

 

  坑内人足の生活 

 

大工にも、いろいろ種類がある。

「地大工」というのは、金見や山師に隷属している専業大工である。これに対して臨時に大工として、町や在方から稼ぎに出るのを「かけ  掘り大工」といった。

金見が、自分の掘っている地大工だけで稼行がおぼつかない場合、助勢として、奉行所が、そこへ差し向ける大工もある。これは「合力大工」と称した。

これらの中でも、地大工は、必要なとき、いくらでも労働力が自由に投下できたから、能率をあげるには、地大工を大勢抱えていなければ、本当の作業はできない。

「地大工」は、山師や金見が「前貸し」で全国から募集して集めたものである。一人四両が前貸しの限度であり、期間は四カ月で、十日につき二分の利子をとる。返済できない場合は、身体を拘束された。 

佐渡の良家では、金見が派遣する募集員から金を借りるのを、「山の金貸し」「金借り」といい、身売りすることと同様に考えていた。

文化年間(一八四〇~一八一七)には、この前貸しの額が五両に暴騰したといって、騒いだこともある。

 

金見制度は、明治以降は、その「組」のような組織が、何々部屋と称する「部屋」制度に代った。大塚、鈴木、安田といった大部屋があり、一部屋に四、五百人も地大工を抱えていて、一定区域内の採掘を請負っていたが、逃亡をたくらんだ大工などがあると、捕えて荒縄で釣りあげ、下から青松葉を焼いて燻(む)す、といったような、非人間的なリンチを加えたりした。

飲む、打つ、貿うの放恣的な生活を送り、親方も、その奢侈的な欲望を満足せしめて労働意欲を刺戟するため、いろんな方法をとった。

 






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最終更新日  2022年03月19日 06時20分41秒
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