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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2022年03月19日
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 犠牲者続出 

 

坑内人足の運命は、作業が辛いだけでなく、坑内の衛生に問題があった。珪酸分か高いから「山よろけ」(珪肺病)を誘発した。

珪分を含んだ鉱塵が、身体にふりかかるのを防ぐ方法は、坑内の通気をよくするしかない。

佐渡金山では、「この世の地獄」と、大工たちが大胆に歌いあげているように、坑内の人口密度が高いのと、金見制度による部分的な請負採掘法が、一貫した通気対策がとられることをさまたげていた。

また奉行や、金山担当の山方役は、江戸から赴任して、短期で引揚げる制度であったから、勤務期間内の採鉱量増加だけが頭にあって、一貫した厚生対策を顧みる暇がなかった。

通風が悪いと、坑内の酸素欠乏からくる「気絶え」(一酸化炭素による急激死)が発生し、坑内で死ぬ率が驚くほど高かった。

 

吉田松陰は高水四年(一八五一)に佐渡へ渡り、金山をみて

「強壮にして力ある者といえども、十年に至れば、

すい弱して用に通せず、

気息えんえんとしてあるいは死に至る。

誠に憐むべきなり。

而してその自ら言うに即ち曰く、

この山は最も人を害せず。

他山に至っては、

あるいは三、四年にしてすでに死に至る」

(『佐渡日記』)

と書いている。

 

佐渡奉行の日記にも「三年で死ぬ」などと書いているのがみられる。

 

坑内衛生を悪くしたもう一つの理由は、油煙であった。油煙は坑内照明月の灯火によるもので、松脂(まつやに)を、竹の皮で包んだ「松蝋燭」、魚油、獣油が用いられた。これを粘土でつくった焼きの灯皿の上で燈した。

 

「山よろけ」や「気絶え」は、生野銀山などと比べると、記録的にも非常に多い。坑内衛生や保安対策は、日本の鉱山では、佐渡がいちばん遅れていた。

これは幕府が、佐渡金山に、常に最新の機械や精練法を投入していたことと、まったく対照的である。

生野銀山や佐竹藩大蒜銀山などでは「山よろけ」対策が、領主や出先奉行の千で、江戸時代でもかなり早くから、とられていたが、佐渡金山では、紀宝年間に、益田玄皓という民間の医師が「紫金丹」という薬をつくって、大工を救済したという記録があるだけである。

「山よろけ」は、紅塵となった珪粉が、肺の中に沈着し、繊維増殖が起って呼吸が苦しくなり、咳や痰が出る。胸部に圧迫感を覚え、これが悪化すると死ぬ。

 

『鉱山保安法』ができたのが、戦後の昭和二十四年であるが、佐渡金山では比較的坑内の通風がよくなったのが、二十七年である。鑿岩機の内部に水を通して、紅塵をいくぶんか防ぐようになったのは三十年であった。鉱山のながい歴史に比べると、坑内衛生の面は非常に遅れていた。

  大工 大工と名はよいけれど

  住むは山奥穴の中

 

竪坑三千尺下れば地獄

死ねば廃坑の土となる

 

休みや迎えにくる 

休まにゃつとまらぬ

大玉迎いがなかよかろ

  大工すりゃ細い

  二重廻りが三重廻る

 

そして、さらに佐渡金山の大工たちは、次のような、はなはだ自嘲的な歌も残した。この中にある称名寺というのは大工の集団墓地である。

 

 早く叩いて称名寺山へ

  あとは花松立て腐れれ

 

で、労働が過酷で、悲惨だったのは坑内の排水人足である。

排出の開発は、排水難との戦いといってもよいが、これが、日本の鉱業労働史の中では、まったく知られずにいる。

佐渡金山のように、開発の初期から、坑内採堀法がとられたところでは、坑内の排水が、ヤマの盛衰をいつも左右している。地底にどんな良鋼帯があっても、水没していては、鉱石を採取できない。幕府が佐渡金山の排水に使った費用も莫大なら、このために要した労働力もまた大変なものであった。

 

佐 渡 金 山 その三

 

著者略歴 磯部欣三氏

一九二六年(昭和元年)二月、新潟県佐渡郡に生る。

毎日新聞新潟支局勤務。

鉱山庶民史に興味を持ち

「水替無宿論」 

「水金遊廓・人身売買」 

「金山町の流人」などの論稿がある。

著書『佐渡金山の底辺』『流人帖』(共著)。

 

昭和三十九年(1964)十一月二十日 初版発行

   新人物往来社刊

   

 

この本は、この排水人足に幕府が使った無宿、囚人の強制労働について書くので、作業の内容は後で触れることにして、佐渡金山の排水の歴史を、すこし概観してみたい。

 

 佐渡金山 その三 山師但馬(甲斐出身) 

 

著者略歴 磯部欣三氏

一九二六年(昭和元年)二月、新潟県佐渡郡に生る。

毎日新聞新潟支局勤務。

鉱山庶民史に興味を持ち

「水替無宿論」 

「水金遊廓・人身売買」 

「金山町の流人」などの論稿がある。

著書『佐渡金山の底辺』『流人帖』(共著)。

 

昭和三十九年(1964)十一月二十日 初版発行

   新人物往来社刊

   

初期に、味方但馬という山師がいた。但馬は関ケ原の戦いで福島正則に仕えて戦功があり、五百石の知行を得たが、のちに廃業して山師になった。甲州の出身である。(註、山梨の歴史資料には見えない)

 

慶長元年(一五九六)以来、佐渡で五十七ヵ所の鉱区を稼行し、このほかに摂州多田銀山、奥州南部、勢州銀山などでも、ヤマを請負った形跡がある。

慶長元年から約二十年間に、佐渡金山では百人近い山師がいて、苗字、帯刀も許され、群雄の状態で、権勢を誇っていた。山師の出身地は、丹波、石見、若狭などの山陰から、億前、備後、但馬などの中国をはじめ、北陸、近畿、東海の各地にまたがっている。但馬はその代表的な山師の一人であった。

但馬は、巨万の富を得て後世に数々のエピソードを残した。

彼が、他の山師にいつも先行して採鉱の成績をあげたのは、排水の投下資本に恵まれた大資木家だったからである。

寛永三年(一六二六)に、割間歩から水金沢までに、公儀に願って四月八十間の排水道を掘鑿した。

十三年かかった。割間歩は、このころ佐渡金山で最大の良鉱地帯であったが、湧水がはげしいので、但馬は、この現場から海岸まで地底にながいトンネルをくりぬいて、自然排水する計画であった。

但馬はこの大きな土木工事で、大量の排水に成功して、巨富を得た。

 

この排水路は、その後洪水で埋まってしまった。文献だけが残り、いまはその所在はわからない。

但馬の孫の孫太夫は、トンネルの代わりに、六百七十貫文を公儀から借りて、二百六十の樋を割間奏に投下した。この樋は水上輪ともいい、あとで説明する。

樋を使用して、二百メートルもの地底から順々に水を地上へ汲みあげることに成功して、毎日十日間に一万荷(一荷は五貫)の鉱石を出した。二百六十の樋を動かすには、一日に七百八十人の人足を必要とした。

 

寛永十三年(一六三六)には、谷川の水が坑内へ流れこみ、二百六十の樋は、全部水没してしまった。

承応元年(一六五二)に、孫太夫は先祖の持っていた江戸石町と京都六角通りの家屋敷四軒を、四千三百両で売却して、兄弟と分け、自分は千二百両で、二百の樋を作って割間歩へ入れた。

これも、間もなく豪雨にあい、一夜で押し流されてしまった。彼は資力も尽きて、割間歩の稼行を放棄しなければならなかった。この稼行が中止されたことによって、金山では三千人から四千人の失業者が出た。

町内の名主、町役人が、騒ぎを見兼ねて割間歩の再興を、再三奉行に願い出るので、奉行は、治安確保のために、ついに彼らをことごとく捕えて、入牢させるという騒動もあった。

 

 排水坑道の完成 

 

佐渡金山の産出量は、寛永末から下降線を辿る。

この主な原因は排水難であった。脈を求めて、地下へ地下へと掘り下げてゆき、坑内労働の稼行範囲は急激に大きくなるが、これに排水が伴わないと、採掘は進まない。

佐渡奉行はこの排水対策として、石高に応じて、全島の農民に排水の人足の供出を割当てた。

この強い政策はその後の農民一揆の一つの要因ともなった。また町方にも一日数十人、数百人と人足を割当てて、坑内排水に全力をあげた。

元禄時代は、産出量が、再診急激に増えた。島民はこれを「元禄の大盛り」といっている。この原因は、所沢疏水道の完成であった。割開示から海岸に近い所沢まで貢通してあるので、所沢

疏水道といわれる。長さは四百九十七間で、六年で掘繋した。施工に当っては始点と終点の中間に、二本の壁坑を掘って、それぞれ前後に掘進し、一時に六ヵ所から掘り進んだ。

坑道の高さは八尺、横幅は三尺ないし五尺ある。

 

岩盤は安山岩質凝灰岩で、これを延べ二十数万人という労働力を投じ、鑿と槌の人力のみで、人海戦術で掘進した。排水坑道の特徴は、桶や釣瓶や、水上輪などの機具を用いて、人足を使い、

坑内から地上へ排水するような莫大な労働力を必要とせず、地下づたいに海岸へ坑道をつたって自然排水ができるのが便利な点であった。しかしこれには莫大な経費を必要とする。

 

南沢疏水道の大土木工事を指揮したのは、静野与右衛門という男で、ときの佐渡奉行は、当時幕府の勘定奉行も兼ねていた荻原近江守重秀であった。

一ヵ月の工程進度が、八尺六寸、元縁九年(一六九六)五月に、ようやく完成し

「水になりし稼所出て、

追々出方(鉱石の)を増、

誠に夜の明けしが如く、

国中の者知ると知らざると、

鼓舞して万歳を唱う」(『佐渡年代記』)

 

という状態であった。

 

 『日本鉱業史要』の著者、西尾能次郎氏は、この所沢疎水道を、元締時代の土木技術としては世界的なものと賞讃している。

箱根用水以上である。

原始的な羅針盤と傾斜計とを使って、六ヵ所から前後に掘進して、将棋の駒の形の坑道が、ほとんど狂いなく、一本の排水坑道になって、つなかった。鍛でコツコツと砕いたので、側壁や天井の愁痕は、緻密丹念で、雫がそこにたまり、夏の朝露をためた蜘蛛の巣のように、美しくみえるので「クモの巣間切り」などとも、呼ばれている。

この疏水道の完成によって、佐渡金山の坑内放水は割間歩へそそぎ、さらに同疎水道へ流れれて、一挙に相川湾へ吐き出され、佐渡金山は、元和、寛氷期につぐ黄金ラッシュを再現することになった。

現在でもこの排水道は活用されており、この排水道から上部で採掘が行なわれている。

これがないと、排水費がかさんで、採算がとれないわけで、その下部は、水没して稼行はできなくなっている。

 

元禄以降は、排水難があまりなかった。しかし安永年間から、当時、佐渡金山で良鉱地帯といわれた青盤間歩の排水がかなり話題になってくる。

同年三月十日から、町方人足を厘って

「粉骨を尽して汲み取るといえども水勢強し」

とあって、寛永、元禄の大事業にならって、疏水道の堀鑿計画が立てられたが、青盤間歩から地下排水すると、人足が十六万四百十七人、金が六千四百七十余両もかかるというので、幕府は断念した。

この年の十二月から翌年の一月まで、中尾間歩では、一目三十人の町方人足を雇った。

 

排水に農民を使役 

佐渡奉行が、石高で村々に割当てた排水人足は、文政三年(一八二二)から、労役の供出を廃止して、それに相当する銭を長明が醵金することに代った。

排水作業に農民を使役することは、奉行所の役人の間でも、批判が高かった。

 

寛政六年(一七八九)一月から、十一年の九月まで組頭(副奉行格)を勤めた谷左中柄明は、

  

良民に水替さすな村ありて

五穀実りて後の銀山材役に

水替さする無道さよ

民は天下の宝ならずや

 

と、役人らしかぬ歌を詠んで、圧政を批判した。

しかし労役がなくなっても、そのかわりに農民が銭を負担することになったのでは、結果は同じである。

別に金山の利益が農民に還元されるわけでもなかった。相川町という鉱業都市の誕生で、農村も近郊化か生じて、野菜や副業生産物を売って現金化することはできたが、木炭や材木などの「金山御用晶」の供出、牛馬や米などの島外移出禁止、島外旅行の統制など、いろいろの圧政に苦しまねばならなかった。

 

無宿人の群れ 水替に無宿人を送る 

 

佐渡金山では、坑内の地下水を汲み替える排水人足のことを水替と呼んでいたが、この水替は町人や農民の専業、副業として行なうのが普通だった。

しかし現代のように排水の機械がないから、人間の強い体力だけに頼らざるを得なかったので、非常な重労働である。

金山には鉱石を掘る大工や、鑚、槌などの武具を作る鍛冶大工、鉱石の搬送人足などたくさんの坑内労働者が居たが、作業が苦しいためにいつも労働力が不足していたのは水替であった。

 

幕府は安永七年(一七七八)から、江戸や長崎、大坂などの天領地から無宿者を捕えて、佐渡金山へ送りこむことにした。

 

無宿者 

 

「無宿」というのは、江戸時代に、一般にならず者で通っていた無宿者のことである。名前の上に出身地をつけて「上州無宿」とか、「下総無宿」とか「神田無宿」と呼ぶ場合もあった。

 

国定忠治も、鼠小僧の次郎吉も、無宿者であった。特使の忠治が、嘉永三年(一八五〇)十二月に傑刑になったときの裁判請証文(判決書)には「国定村無宿忠次郎、所々悪事いたし」などとある。

泥棒の次郎吉は獄門になったが、判決書には「異名、鼠小僧事、無宿入墨、次郎吉」と書いてある。

 

江戸時代に無宿者といえば、単に宿なし、住所不定人を指すのだと考えがちであるが、実はしっかりとした法律上の根拠がある。人別帳(戸籍)から除外された「帳外」の者をいうのである。

 

「久離」はよく勘当と混同される。久離には「出奔久離」と「追出久離」の二つがある。

前者は欠落、失踪の場合、後者は勘当の場合である。二つとも親族が願い出て、五人組合名主の示認をもらい、代官所令町奉行の許可をとらないと、久離にならなかった。

久離の目的は、縁座から免れるために、親族関係を絶つのがねらいである。その者が罪を犯したときの、連帯責任を避げるためであった。しかし久離しても、帳外にならない間は、まだ頒主に監督、支配権などのつながりが残っていた。

 

「帳外」は、村から願い出て人別帳から除外してもらう。帳外になれば戸籍から削除されるわけだから、鎖主には裁判権も監督権もなくなった。これが無宿者である。

 

罪を犯して追放の判決を受けた場合も、限外になる。だから追敏則をたくさん行なうと、それだけ無宿者が増える計算になった。無宿たちが、郷村を徘徊して治安が乱れるので、幕府内でも一眸は追放則の改革論が起ったが、これは実現しなかった。

 

 無宿の生態 

 

帳外となった無宿が、生きてゆく場所はいろいろあった。

街道筋もその一つである。

雲助と呼ばれる一群の交通労働者もそうである。博徒の客分や子分となって寄生するのもいた。これも安全な場所とされた。無宿に博徒が多いのは、このためである。

文化年間に関八州の無宿(博徒)の情勢を代官の大貫治左衛門が、こんなふうに報告している。

 

「関東在方では、

同類を集めて、通り者といい、

身持の不埓なものどもを、

子分などといって抱えておきます。

或いは長脇差を帯し、

目立った衣類を着ています。

こういう不屈な所業」

 

の者には、それぞれ御取締りを仰せ渡されましたが、

今もって武州では府内、

中仙道では鴻巣宿辺から秩父郡辺まで、

それから上野、下野、常陸国、

ならびに下総国では銚子、佐原辺には、

一旦、追放のお仕置などになった者、

親から勘当をうけた者、または欠落した者、

つまり戸籍からその他を削除された

帳外者が無宿になって、

右のような所業をしている者が多くいるのです。

私ども、外に関東の代官三人の、

在々をお取締り御用のため出役をつとめています

手附や手代どもは、廻り村先で見当ったのは召捕り、

それぞれお取締り方を仰せ付けられていますが、

彼の者の子分という者が、近村に多くおりますから、

近頃は、右の子分平宿場の荷物かつぎなどを

渡世にしている雲助らが、

親分の者へ、

お取締りの出役の廻村のある事を、

前々から密々に、先々へ告げ知らせますよしで、

彼の者は早々に関東外の遠国に隠れ、

お取締り出役に逢わないようにします」

 

また、無宿の日常の挙動にもふれている。

 

「子分のうちには、

命しらずのあぶれ者が多くありますために、

野平田、または人里はなれた遠い所などで、

あぶれ者に何となく喧嘩をしかけさせ、

殴り疵を負わせるような事をしますから、

百姓はいうに及ばず、村役人まで恐怖して、

この国に立入ってはならないと

追放のときに申渡された

生国のお構えの所にいっても見逃し、

或いは村方さえ帳外にしておけば、

この者が召捕られても、

親類や五人組もかかわり合いにはならないから、

平常は村方に居住している分は、

かまわないと、帳外つまり無宿になった後も、

そのまま容赦して、その村におきますから、

表向き無宿とはなっていても、

内実は、お構えの地、または居村に居住して、

自分の家を持ち、

親平作の名前にいたしておきますし、

地借り、店借りをしている者も、

自分の名前は出さず、外の者の名前

右はひっきよう、前の無宿の者どもが、

平常、専ら博突渡世いたし、

不屈の所業によるのですが、

この者が召捕られ、吟味になりましても、

筒貸元などしたとは白状はいたしますが、

証拠はなく、風聞ばかりが多く、

野田賭博、少々のゆすり、或いは遺恨等の、

軽い罪だけで出牢し、またまた元の居村か、

その近辺の宿場や町場等へ立帰ります。

そうして、よい男になったと、

前科を幅にしますから、

子分も却って前より増します」

 

大貫代官の支配地は、関東でも東海道筋であった。

大貫はこういう無宿(博徒)の対策として、彼らをことごとく召拙えて、出牢などはさせずに佐渡金山へ送ったらどうか、と献策している。(田村栄太郎『やくざ考』)






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最終更新日  2022年03月19日 06時22分04秒
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