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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2022年03月22日
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カテゴリ:甲斐武田資料室

二 武田信玄の駿河進攻と大宮城

 

「駿州大宮神馬奉納記」

 

  佐藤八郎氏著『武田氏の研究9』

一部加筆 山梨県歴史文学館 

 

浅間神社は富士山を御神体と仰ぎ、武田信玄は願文に浅間神社祭神を富士浅間大菩薩、或いは士峰菩薩と敬称している。甲斐・駿河ともに浅間神社を一之宮と仰いでいる。

 富士山麓にはすべて十八社の浅間神社が祭られている。所在地籍により、甲斐分・駿何分と所属は異なっても、信玄は十八社のすべては同文の願文を捧げて祈願した事実がある。それは弘治3年(1557)11月九日のことで、相模北条氏政の妻である信玄息女黄梅院夫人の安産祈願の願文奉納一件であった。

 

当時は甲(武田)・駿(今川)・相(北条)三国同盟が最も親密

の度を加えつっあった際であったから、信玄の願意は駿河の浅間神社においても何等滞るところなく、それぞれの浅間神社の神主の新禧により達成された。

 それから13年、永禄11年(1586)12月、甲駿の和破

れ、信玄は今川氏真を駿府誠に攻め、かねて謀略を以て多くの有

力武将に内応を約して置いたため、殆ど抵抗はなく、氏真夫妻は

一とたまりもなく誠を放棄し、山西を経て遠乱国掛川城に逃れた。

当夜の城中の混乱は言語に絶し、狼狽した氏真夫人は乗輿を見失

い、洗足で誠を落ちたという。

 駿河国一之宮浅間神社の大宮司富士信忠は、神職としてはもとより、文武兼備の名将であった。神官の身分を以て兵部少輔の官途を帯びたのも故なしとしない。信玄の永禄11年駿河乱入に際し、穴山信君、葛山氏元らの指揮する軍団は、信忠が死守する大宮城を猛攻したが、信忠は浅間神社に奉仕する無足人を以て編成した部隊を指揮して防戦し、寄手に多大の損害を与えたことが次の書状に見えている。

 「今度大宮城中に楯篭られ、

無足人別して忠節の由に候の条、

  貴所承る旨に依り、

恩賞の儀聯かも相違なく之を遠はすべし。

  殊に氏真遠やかに遠州へ御移りの上は、

走り廻りの次第、御本位意の上

氏政申し立つべきものなり。

戊辰十二月十九日(永禄11年)

   但って件の如し。

    氏政(花押)

   富上兵部少輔殿」

 

 大宮城の守将、富士兵部少輔の防戦はまことに見事で、信玄の部署に従って大宮城の攻略に向かった穴山信君・葛山氏元ら、精鋭を以て知られた部隊も、信忠指揮の大宮勢に翻弄され、死者・傷者が続出して遂に敗退した。

 氏政は、さらに同日付を以て次の書状を信忠に与え、大宮篭城が長引いても、氏真の出して置いた知行、給人等については、今後少しも変えないよう保証する。なお忠節を抽んでるにおいては、豆州において必ず恩地を与える。殊に氏真が本意を遂げた暁は、これ迄の信忠の功を申し立てるから、この際大いに奔走して欲しいとこの書状は次のように述べる。

 

「今度大宮城中に楯龍り、

給人領地年来の如く氏真御判形の旨に任せ、

聊かも相違有るべからず。

猶、此の上忠義を抽んでらるるにおいては、

知行等豆州において宛行うべし。

就中氏真御 本意の上は、

走廻りの段申し立て引立つべし。

富士上方の儀は貴所同心せしめ、馳走あるべし。

承る旨に任せ、啓せしめ候。

但って状すること件の如し。

戊辰   十二月十九日   氏政(花押)

富上兵部少輔殿」(暫類書)

 

信玄の駿河進攻に当り、駿府城を始め幾多の堅城が守るに人無き有様で、あたかも将棋倒しの如く落城するなかにあって、眇(びょう)たる富圭大宮城が敢然とこれを遮り、百戦不敗の甲州勢に苦杯を喫せしめ、以後数次の攻防戦が展開されるのであるが、この間、北条氏政はいち速く氏真と交渉して駿河の支配権を預けられたこと

が、永縁12年(1569)五月二八日の氏敢の富士信恵宛て書状の一節に、

 

 (上略)

「駿国の仕置につき氏真、

仰せを蒙る旨候の条遅々候。

  (中略)

但って当日の儀、

氏敢に悉皆任せらるる由に候」

(下略)」

 

と記してあることで明らかであり、さらに翌月の関五月三日に信

恵に宛てた書状では、

 

「今度信玄駿州乱入、

過半の駿衆甲州へ一味候の処、

其方、大宮地堅固に相拘えられ、

別して御忠信の筋目共連続、

富に以て感悦の至りに候、

然れば駿国の儀、愚息国王名跡たるべきの旨、

氏真より仰せを蒙り候の条、仰せに任せ候。

然る上は、此の度の其の方の忠功存じ合わせ、

必ず一廉の御進退引き立つべく候。

此の上は猶以て戦功を抽んでらるること専一に候。

恐々謹言。

追て啓せしめ候。

富上上下方一騎合、

前々の寄親の礼明を遂げて中付くべきの間、

先ず其の間は其の地において

其の方指南有るべく候。以上。

閏五月三日(永禄十二年)

氏政(花押)

富上兵部少輔殿」

 

と。

これによれば、氏政は氏真が掛川城に移ると、間もなく氏真と交渉し、七歳に過ぎないわが嫡男国王丸を今川氏真の名跡として名義上の当主とすることになった。

しかも当主幼少の間、実父の北条氏政が当分後見役を勤める、と駿河国内外に披露した。この時、富士信忠に対し、緒戦以来の恵功を賞し、引き立てようとの意をこめた感状を与えている。

 氏致としては大成功の外交で、信玄にひと泡吹かせた形である。

思うに、氏政の父氏康あたりの適切な指南があったものであろう

か。

 この年6月、信玄は陣容を立て直して再度駿河に入り、駿東郡の古沢新城を攻めたが、この城は勇将北条綱成が守って抜き難いので、信玄は一転して伊豆方面に向かい、三島・北条・韮山等の要害を攻撃して守将北条氏規(氏政の弟)の兵と戦って大勝し、五〇〇余人を討ち捕って大いに気勢を挙げた。

 

 7月、信玄は一部の兵を駿河に留めて駿衆を牽制させ、他の部隊を密かに甲府に引き揚げた。暫く兵に休養をさせ、新たに信濃・西上野衆に出陣の準備を命じたのであった。

 9月早々に甲府をたち、信州佐久から碓氷峠を経て上州に入った信玄は、さらに強行軍で武州秩父に進み、10日には鉢形城を攻めた。

この城は荒川右岸の絶壁に臨み、難攻不落を誇る堅城で、守将は氏政の弟、新太郎氏邦である。氏邦は防備を固める一方、急使を越後に派して上杉氏の救援を求めた。

しかし、輝虎は当時、越中の椎名康胤と交戦中で、到底関東の応援に奔走できる状態ではなかった。椎名康胤や一向一揆を動かして越後の背後を牽制したのは、信玄の巧妙な外交成果である。

 大迂回の結果、武田勢には疲労も見え、これを知った信玄は頃合を見て鉢形城攻撃を止めて南進に転じ、北条氏照の守る多摩郡滝山城攻撃に移った。滝山城は元八王子城の古名であるが、滝の氷は落ちると忌まれて八王子城と改めたという。

城将、氏照は兄氏政に勝るといわれた名将で防備怠りない。信玄は夜陰に乗じて滝山城を引き揚げ、相模川に沿い厚木を経て平塚に至り、東海道を無人の野を行くが如く西進し、酒勾川の激流も難なく渡り、10月1日には小田原城外に到着した。

 北条氏康・氏政は、篭城戦を最も得意とした。元来、小田原城は内郭の局囲に城下町が設けられていて工商の民が住み、その周囲を外郭で囲んだ、いわゆる囲郭城であって、戦時には四民ことごとくが長期の篭城をし、敵の疲れに乗じて逆襲撃滅するを常習とした。

 しかし此の度は、武田勢の猛攻を察したか、その到着前の九月晦日に上杉に加勢を要請する親書を発している。それは越中の椎名康胤との交戦を即刻中止して、小田原への援軍に切り換えて欲しい、さすれば「信・甲の御退治、腫を廻らすべからず」と述べているのである。氏康の親書が越後春日山に着いた日が不明であるが、信玄は小田原城の包囲を四日間で切り上げ、10月5日早朝秘かに退陣に移り、同六日愛甲・津久井両郡の境、三増峠において北条氏照・氏邦兄弟の大軍を以て待ち受けるに逢い、激戦の末、これを敗退させた。地元の兵で地理に詳しく、有利な条件を具えた筈め北条勢がなぜ敗れたのか。

思うに長山村民を急進招集して組織した部隊で、烏合の衆と選ぶところのないものであったため、九扨の功を一員にかく結果になったのである。

一方武田勢の苦戦も相当なもので、信玄は、「兵法の三十六計、走を上計とす。とは今だ」とばかり、小荷駄(こにた)隊に命じて急行軍の妨げとなる武器・兵糧の一部を捨てさせて敵中強行突破を断行、幸いにそれが功を奏したのである。

 三増峠で勝鬨(かちどき)の式を挙げた直後、信玄は盟邦はもとより各方面へ次の勝利宣言を発した。

 

「一戦、勝利の芝ぶこれを遺わし候、

三増峠に於いて、

やさしくも源三・新太郎したい候、

傍若無人たりと雖も戦場のならい、

    首二ツ討ち取り候。

味方は浅利右馬(うめ)助

鉄砲にあたり死去のほか一人も恙なく候。

謹言。

    信玄(判)」(『古今消息集』)

 

文中、源三は北条氏照、新太郎は氏邦である。浅利右馬助は武田家中に隠れのない名将で、その不運な戦死は大いに惜しまれ、相模の人士もその慰霊のために現地に浅利明神として祀りを今に伝えている。

 負けない筈の軍に惨敗した北条方は呆然自失の体であったが、これも上杉の加勢のなかったせいと、恨みをこめた書状を出している。

 

「(上略)度々申し入るる如く、

今度信玄上州を打廻り、当日迄出張し候、

退き端に討って押付け、

相武の境三増山と号する地まで陣を進め候。

敵、手早に取り越えるの間、

当旗本一日の遅々故、取り遁し候、

誠に無念の至りに候。

併しながら無二に仰せ合わされ、

御加勢一途これ無き候、かくの如き儀是非なく候、

委細は氏政申し入るべきの間、省略せしめ候。

恐々謹言。

十月八日  山内殿」

氏康(花押)

  (上杉家文書)

 

長尾景虎が山内上杉憲政の家名を継いだので山内殿と記したのである。輝虎は当時越中の椎名氏と交戦中で、北条氏の加勢要請に応ずる余裕は全くなかった。椎名康胤や一向一揆の背後には信玄の協力があったと見られる。

 武田勢は三増峠で辛くも勝利を収め、6月夜は津久井郡道志川畔に野営したが、さきに三増合戦に当り、敵の追撃に備えて小荷駄(武器・兵粗)を捨て、腰兵粮で飢は凌いだが、翌7日(太陽暦11月25日)に相模と甲斐の国境、境川を渡渉して都留郡諏訪村に到着した頃は、厳しい寒さを凌ぐために、分国の将兵(西上野先方衆)は上野原地方の地頭加藤丹後守の制止にも拘らず諏訪明神社殿を破毀、焼却して暖をとった。

軍紀厳正の武田勢にしてこの有様で、苦戦の様が推察されよう(なお諏訪明神社殿は、天正5年(1577)12月に丹後守嫡男借景が再建奉納した)。

 三増峠を最後の戦場として、信・上から武相と併せて四州に跨がる広大な地域を舞台とし、関ハ州に雄飛する北条氏を雌伏せしめた信玄は、甲府に凱旋して少時兵馬を休めると、間もなく翌11月9日、平素信仰する諏訪上下社・飯縄社・刀八毘沙門天の神仏に起請文を捧げ、駿河の蒲原・興国寺両城の陥落、駿河一円の討平、および越国内に反乱が起こり、輝虎がわが分国信・上二州に出兵できないよう、また駿・豆二州を信玄の分国にすることができれば、報謝として諏訪一郡を諏訪上・下社へ奉納するを誓い、来る庚午(元亀元年)に飯縄(いいずな)社を勧請して社領を献じ、さらに天台宗の化行(けぎょう)を行い、今後肉食を禁ずる」旨を起請した。重大な決意のほどが窺われる。

 

翌くる2月早々、信玄は駿河に出陣、6日(太陽暦1569年1月22日)北条新三郎氏時(氏政の弟)が守る蒲原城を攻めた。信玄の嫡男、勝頼、甥、信豊らが先登して城に突入し、氏時をはじめとし、伊豆衆の歴々清水・笠原、狩野介以下、名ある将兵を悉く討ちとり、忽ち城を陥れた。しかも武田勢には一人の死者も無かった。信玄も流石に嬉しく、

 

 「当城の事は海道第一の険難の地に候。

此の如くた易く本意を達し候は人作に非ず候。

剰え味方は一人も恙なく候。 (恵林寺文書)

 

と、友邦の将の音問に対する返報中に述べている。

文中、人作とは人間業(わざ)の意である。

信玄は、山県昌景に命じて蒲原城を守らせた。

 さきに信玄が、戦略上から故意に駿河を退いたため、北条氏政は直ちに駿府城を回復し、今川家の重臣岡部正綱を城代として守らせていた。

当時駿府大岩の今川家菩提所臨済寺の住持、鉄山宗鈍は甲州巨摩郡上条村窪田家の出であった。

窪田家は武田家世臣の名門であるが、鉄山は幼時より仏法に心を傾けて恵林寺に入山し、得度の後興津清見寺の東谷、洛の妙心寺の南化ら、一流の禅僧に就いて刻苦し、遂に駿府臨済寺を董すに至った。

信玄は鉄山に意を含め、岡部らに降伏を勧めさせた。

『松平記』によれば、信玄の意を承けた鉄山は、岡部らを知行三〇倍増の好条件を以て説得し、その結果、駿府は無血裡に信玄の有に帰した。

 駿府および付近の要地はこうして信玄が手に入れたが、伊豆・相模に接する地方や、また駿河の各所、殊に西部には先君義元取立の親今川諸将の籠る城があった。

大原肥前守資良の守る志太郡花沢城は、殊に難攻といわれていた。信玄は永禄13年(1570)正月、この城に猛攻を加えた。賢良はよく守ったが、小敵の堅は、結局大敵の檎に外ならず、遂に降伏した。信玄は城を収め、大原の武勇に免じて釈放した。賢良は遠江高天神城へ奔った。

 4月14日、信玄は伊豆に攻入ろうとして、信州海津の城将春日虎綱に信州・上州二州の兵を率いて出陣すべきことを命じた。

海津城は、上杉氏に対する防備の第一線で、その守将に伊豆攻略参戦を命ずるというのは、あまりに輝虎を見くびったものというべき

ではないか。

 当時、輝虎は上州沼田に在城していたが、信玄は、輝虎に南下の能力無しと信じていた。

 

「輝虎、沼田に在陣侯と雖も

(中略)

出馬し侯の間、信州衆早々参陣候への由、

飛脚を遠わし候いき。

但し輝虎定めて五日の内に本国に帰るべきの条、

必然に候。

(中略)

その間に上・信両州衆を相集め、越山すべき存分に候。

動(はたらき)は吉原津に船橋を掛け、

豆州に向かって行に及ぶべく候。

その意得のため自筆を染め候。

兵粮欠乏の時に候へども、此の時に候条、

則ち人数を催し罷り立たれ侯様

相理(ことわ)らるべく候。

恐々膠百。

追って、真田源太左衛門尉所へ切々飛脚を越し、

輝虎追散開届四で芒進待入り候なり。

     春日弾正忠殿」

  信玄(花押)

      (歴代古案)

 

信玄がすでに水軍を編成していたことを物語る。

 

情報を得た氏康は、輝虎に後詰を要請した。

 (上略)

信玄は去る十六、人数を集め急速に出張の由申し候。

 (中略)

武州口においては、新太郎則ち申し入るべく候。

豆州口へ相動くに付いては、

昼夜の嫌いなく申し届くべく候。

聯かも御油断なぐ後詰の御支度専一に候。

何様近日使を以て申入るべく候。

恐々謹言。

(永禄十三年)卯月十九目

山内殿」

氏康(花押)

  (上杉家文書)

 

 信玄南進の情報を得た氏康の狼狽ぶりが眼に見えるようであるが、言う所は、豆州口の守備だけが心許ない、油断なく援軍を一刻も速やかに派遣されたい、との要請に外ならない。

 1日遅れて20日午後6時(酉の刻)発信の氏政の書状が、輝虎の陣所に届けられた。

甲州衆が富上口へ出張した趣きの注進があったというもので、興国寺城か、伊豆の諸城を攻めるものと思われる。そこで兼ねて申し届けてあるように、信州口へ出勢して武田勢を牽制してほしい、さすれば敵も長陣をすることはできないだろうから、というのである。

 

さきに三増峠、蒲摩滅で武田勢の強さを体験した北条父子の、信玄に抱く恐怖心と、輝虎に対する期待とが二通の書状に表れている。北条父子の熱烈な期待にもかかわらず、輝虎は後詰の一隊をも信州に派遣することができなかった。信玄の予想が敵中したのである。






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最終更新日  2022年03月22日 13時23分18秒
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