甲斐の金山 貧鉱を証する印判状
貧鉱を証する印判状 天正十一年、田辺党がまだ不況の黒川谷、鶏冠山金山で貧鉱を相手に独行していたことを証する文書に、左(下)記のようなものがある。 除田地役ソノホカノ公事以下、本棟別ノホカ縣銭新屋棟別銭一人ニ一百アテ、ナラビニ印判衆役所宛、四壁(まわり)ノ竹本ミダリニ剪採(切り取り)等ノコト 右先証ノ顛クコトゴトク免許スペク、タダシ前々ノ如タ黄金増長スペクハ、此朱印状返スペク進ムルモノナリ 天正十丁年卯月二十一目 日下部兵右衛門尉泰之 成瀬古左衛門尉 田辺佐左衛門尉 以上からみて、黄金が増したら、この朱印は返すようにとあるのは、産金しない間、地役ほかの免除をしているのであるから、当時は産金が止っていて、水抜きでもしていたか、新しい金筋を追っていたものとみられる。前記の印判状と同文のものは、同月日で、中村禅左衛門、依田平左衛門、大野将監、風間庄左衛門、田辺清元郎、古屋次郎右衛門尉、田辺四郎左衛門尉、依田宮内左衛門尉の八氏に出ているが、この顔ぶれが旧武田氏の黒川金山の奉行、すなわち山先師である。以上の子孫は、いまも現存している。 なお、同年四月二十一日にも下記の徳川印判状があらわれる。 金山において黄金の出来なきあいだ、一月に馬一匹分の諸役免許すべき旨、さきの証におまかせ相違あるべからざるの状くだんのごとし (成瀬、日下部) 黒川金山衆 さて、ここでまた、先の信州梓山の風間文書に、同十一年四月二十五日付の成瀬、日下部両人の下記の印判状が出ている。ただし、これは天正五年の武田印書の正物と異なって、写しである。 除田地役具外公事 以下弐棟前外態錢新在家棟別銭壱人文壱間宛並印判衆役新荒四壁之仰来監普被等 右任先証令免許従 但仰前々黄全面増長者印状可令返進者也 仍仰件 同州 田辺善之丞付 以上の文は、やはり前記と同じ内容のものだが、同州田辺善之丞付とある点、黒川金山の奉行格とみられる田辺佐左衛門と同姓のところから、田辺党の一族と考えると、梓山金山にも田辺党、風間党が在勤したものか?。善之丞については、四百年前の古跡簿が欲しいところだが、田辺見の一族とみてしかるべきだろう。 田辺文書は信頼性の無いものもあり、煩わしいが、天正十年十二月十二日、田辺佐左衛門は、四奉行より小(於)曽の内十五貢文新恩に下しおかれている(甲斐国志)。 この翌天正十一年には、「甲州棟別替小曽(於巾目)ノウチ吾妻分、 矢崎分投銭トモニ八貫文、同所番匠(大工)ノ分壱貢文、都合定納九長文ノ事、右本給ト為スノ旨、改メ替へ相違アルペカラズ……」 の徳川印判状が、佐左衛門尉宛てに出ている。矢崎、吾妻は同地の地侍と考えられる。 年五月十四日にいたる徳川印判状は、徳川家康文書の研究(中村孝也博士)に、一、分国中、山金、川金、柴原語役免許之事一、分国中、在留所棟用語役免許之事 但 全掘之外 可除之事一、譜代之者、何方有之共 加前々可返之事 右条々不可有相違者也 倍仍加件 本多中務 金山衆 同文のものは、『大泉叢誌」にも所載されている。内容は金掘りのほかの語役免許状であるから、まだこの頃も貧鉱を採掘していたものであろう。文書につぐ文書は、巻末の締めくくりとして、さらに 「家康文書の研究」中には、文禄二(一五九三)年、すなわち前記の印判についで、下の文書が出されている。 一、分国中、山金、川金、芝間共可ウガツ事-、譜代下人何方へ雖令居住当主人ヘー往相届可百返事 (一行略)右領掌不可有相違者也 仍加件 文禄二年十一月九日 黒阿衆 安部衆 安部衆は、これから記す梅ケ島の駿河金山衆を指すもので、すでに拙著、『伝説と九怪談第四集』にも所収しているとおり、武田時代に阿部川上流の大河内、玉川、梅ケ島(静岡市へ編入)の各旧村(安倍郡)において、上古から先住者として生活していた。甲州人によって、金掘りが行なわれていた。武田時代は、穴田氏の支配地となっていたが、現在その時代の金掘り達の子孫が一村をなしている。その氏姓は、ほとんど「望月」「市川」で、ことに望月姓は一族が多く、どこの金山でも支配的地位を保らでいた。筆者は安倍衆といわれた金山衆の末とも、黒川衆の末孫とも、代表格の旧家をはじめ常に接触してきたので伝承などもいずれは記したい。なお、「家康文書の研究」中には、文禄二年丁二月十六日付で市川信久あての徳川印判状が所収されているが、前記とほとんど同文であるから除き、付記として市川真久を上野国の産、父の代より信玄の臣としているが、金山衆だったとすれば穴山氏支配の金山衆と考えられる。このほか冒頭で、塩山市街之瀬橋にあったぼう大な文書は便所の落し紙になったと伝えた、その文書類の総目録と、金掘り達の消息を年代別に伝える写しだという物を人手したが、ある面では信じられるが、またある面では年代の相違など、疑問がある。 甲州には、古文書や家系図を偽作して歩いたという研究家があって、下部金山などに至ってはこのニセモノを見破る目を指たないと、とんだお笑い草となる。この点、塩山市の田辺家文書には年代的な疑問のあるものもあって、紹介できかねるものもある。これはすでに他の学者によって指摘されているので、ここでは省くことにした。とまれ、筆者の入手した黒川金山衆の消息は、大方は筆者が他書で記した城攻め城崩しなどを中心に書かれているが、一応もっともらしく書かれていても、江戸時代の書式は型がある。この型をはずれていたり、その当時便われない平仮名かおるなどの面で、疑問があって参考にも挙げられない。 真面目な研究を志す者と、ニセ文書作りで汚れたゼニを懐にしたり、相手の盲をよいことに貴重な文書類を持ち去られた例は、あまりにも多く聞く嘆きである。 黒川谷・鶏冠山が、武田滅亡後は田辺家にある大久保長安の死んだことを伝えている点でも、武田氏の末期は黄金山の食い潰しが、その衰運に追討ちをかけていることは明白である。 焼畠農業で僅かに自給を計る金掘り一族に追打ちをかける飢饉で、種にする稗、蕎麦まで食い尽くした市之願高橋では、老人達が自ら山に登って死を待ったという「河口湖のケカチ窪の伝説」と同じように、「姥捨て」の山が、今もその哀愁を岩尾根に伝えている。 筆者は本橋のしめくくりのため、前稿の王宮黄金沢の裏側、つまりその金づるを同じくする塩山市小田原における「たたら遺跡」を、地元の郷土研究ダループの井戸沢忠三郎さんと調べ直した。その結果だと、小田原の上条部落上にある賃金山(四十年前に八つ穴があり、現在はその跡のみ)から採掘した、黄金を吹き溶かしたことを証する賃金の塊を掘り出した田辺友規さんはじめ、甲金蔵があったという付近から文字通り大判小判をザクザク掘り出した田辺国治さんと、このたたら遺跡のまわりは埋銭金の宝庫とみえる。最近、三人の地主達が埋蔵金掘りを行なうことになり、これへも筆者は招待されているので、クリの実でも拾うようにブルドーザーで土を浚うそばから、甲州金でポケットを一杯にふくらまぜられたら……などと、いささかの期待を持ってその消息を持って待っている。この井戸沢忠三郎の家には、近くのたたらで溶かした黄金、あるいは砂金でも隠したと伝えにある古井戸があ幅の井戸底には、約一メートルの岩の横穴がある。 下小田原部落の金井加里神社は、この部落で井戸を掘ることを忌み、部落にはこの井戸が一つしか許されず、大昔から井戸を掘る事を禁じた。このため、かじや沢の水をずっと飲み水にしていたのだ。明治四十年の大水害後は、赤痢で村中に死にたえた家も多く、井戸沢さん宅も一家死滅して、現在の忠三郎さんは、縁続きのみちよさんの婿としてこの家を嗣いだ人である。金井加里(きんのいきとにくわう)ともとれるという、その「みちよ老」の弁によると、五十年ほど前、この井戸が「金の井戸」と言われた所以は、澄んだ谷川の水を樋で引いて用水としていた近年まで、井戸は全く不用の存在だったという。 たたら遺跡の二百メートルぐらい先には、源義経の副将格たった安田遠江守義定の館跡がある。現在は福蔵院という祥寺があるが、ここにも他愛なくとも理蔵金説がある。たたらは、この義定の時代にすでにあったものか?。王宮黄金山と穴が通じているといわれる金洞があり、約四十年前にはその口が八つ残っていた。かじや沢という古名から、刀鍛冶なども居たというので、たたらは鍛冶との関係はあっただろうが、たたらのそばから六十匁もある溶かした金塊が出たこと(昭和十八年)、黄金洞があったことなどの点て、鎌倉時代にはすでに義定の手によって、谷が黄金色に輝いたという玉宮黄金沢から小田原上条の金洞へかけて金を採集し、以後の信玄時代にもここへ甲金蔵を建てて、たたらにおいて黄金を吹いたという古老たちの伝承も、古名、遺跡、出土品の古鍋など、さまざまなものが伝承を鮮やかに生き生きとさせる。現にこの部落の古名二十八か所を知っているたった一人の部落の生字引、田辺友則老のメモにある「的場」「馬場の原」は、義定が小田原を最初に館とした古名に見合うものだ。たたらのある所が「原の京」で、鎌倉時代にここの豪族のもとに身をませた姫宮が、三人の子を住まわせた三か所を「北の京」「高地ケ京」と名づけた。一々いわくがあるが、おもしろいものだけ拾うと、原の京の近くが「公事(くじ)畠」と、鎌倉時代の用語の古名がある。その続きは「祭資地」と祭祀を現わし、金が続々と出たので「金剛銭」、甲州古金の珍品「駒金」が出土した「寺畠」など、ともかくこの部落にはまだまだ黄金が埋蔵されているらしいので、埋蔵金の宝庫であることだけは確かなことである。以上は事実であって、万人の夢としてお伝えするものだということをおことわりしておく。さて、埋蔵金ならまだ垂涎の宝庫が同市内にある。