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2012.01.16
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カテゴリ:o子育て
今日はお仕事の日でしたスマイル
2時間の授業を経て、お昼ご飯です食事
私の好きなコーヒーのお店。
コーヒー大好きコーヒー特にガァテマラの酸味が大好きですコーヒー
コーヒーのお店に行くと、「コーヒー&グラタンセット」がありまして、思わず注文スマイル2012011213190000.jpg630円なり~食事
海老のプリプリ感たっぷりのグラタンでしたスマイル

今日は、学校の常勤の先生(T先生)(和歌山ご出身)に和歌山産のみかんをいただきました四つ葉
太陽の日差しを沢山浴びて、大きくなったみかん晴れ
粒ぞろいで、とっても甘くって・・・・2名様もみかん大好きです赤ハート
T先生有難うございます~ひよこ

とても懐かしいあだ名を思い出してしまいましたスマイル
私の中学生の頃のあだ名は「みかんちゃん」でした。
小学4年から中学1年まで天草という島で育ちました。
天草には海もありますが、山もあり、みかん畑が沢山ありまして、私のおじいさんもみかん畑を持っていました。
ですので、収穫時期になるとそれは家族総出でみかん畑に行ってみかん狩りをしたことを思い出しましたスマイル

<みかんの由来>
ミカン類の原産地は約3000万年前のインド、タイ、ミャンマー(ビルマ)あたりで、
最初に栽培を始めたのは、中国のようです。
なんと、紀元前22世紀の文献にその記述が残っているんですって。
歴史に登場したのは、約1200年前で、古事記と日本書紀よると~
「天皇の命を受けた使者が、不老長寿の果物として中国から持ち帰ったのが橘(たちばな)」とかかれ、現在のみかんの木の原形だったらしいです。
不老長寿の果物って所が「桃」と似ていますね~ダブルハート
鹿児島県長島東町(天草からフェリーで30分の場所)には約300年以上前の温州みかんの古木が
見つかっているようです。
そして400年前、突然変異によって日本独自の種無しみかんが誕生
中国の有名なみかん産地、温州地方にあやかって「温州みかん」と呼ばれるようになったんですね。
温州みかんが現在のように全国的に栽培されるようになったのは明治以降になってからなんだそうですよ。明治以降になってというところがポイントですね。
「種無し」という事が、縁起が悪いといってあまり人気がなかったとか・・・子孫繁栄の時代ですものね雫
当時の島津藩が鎖国状態だったとか・・・雫で明治以降までは不人気?だったとか・・・。

今回T先生からいただいた和歌山県産のみかんですが、和歌山もみかんが有名ですよね~四つ葉
和歌山県でのみかんづくりのはじまりにはいろいろな説が有るそうですが、二つの記録が残っているようでよ。
有田地方には、1492年にみかん(たちばな)が見つかったとか~。
1574年に九州からみかんの苗木を持ち帰ったとか~。
どちらにしても、紀州(和歌山県)では400年以上も前からみかんが作られていたことになります。

<有田地方のみかんの昔話>
むか~し、むか~し、糸我村(現有田市糸我)で農業を営んでいた伊藤孫右衛門がおったそうな。
伊藤孫右衛門は、この地方の山が多く、水田が少なく、着るものさえないという貧窮の地であったそうな。
村民の窮状をなんとかしようと思い、色々な事を考え、地域に産業を興すために何がよいかと試行錯誤。
畑を開墾し様々な木を植え試みてみたが、良いものをなかなか見出せなかったそうな。
ちょうど、そのころ、肥後の国の八代(現熊本県八代市)に「みかん」という木があり、
それは、それは、山地にあっても生育し、収益も少なくないことを聞いた孫右衛門は、
「その木を是非手に入れ、この地を豊かな国に変えたい」と思ったそうな。
しかしその木は藩外不出の木であり、簡単に手に入れられるようなものではない。
どうにかして、その木をこの地へと思い、和歌山の上司に相談したそうな。
しかし、良い返事をもらうことはできず・・・・。それでもあきらめるような孫右衛門ではなかった。
村民の窮状を見るにつけ、「何かをなしたい」という思いは、ますます強くなった。
孫右衛門は、一度断られた上司に何度も、何度も、願いし、遂に上司も孫右衛門の熱意に心打たれ、
孫右衛門を肥後の国(熊本県八代市)に遣わすことにした。
上司は孫右衛門に一つの手紙を持たせた。手紙には「木の要望は殖産の目的ではなく、単に盆栽として、花実の美を翫(もてあそ)びたいのだから数株恵与されたい。」との内容が書かれていたそうな。
そしてみかんの木2本が孫右衛門に与えられた。天正2年(1574年)のことであった。
やっと、孫右衛門は念願のみかんの木を手に入れることができた。しかし、今度は、別の問題が彼を待ち受けていた。
現在のように交通手段の発達していなかった天正の時代。
孫右衛門は、「いかに木を枯らさずに郷里まで持ち帰るか」ということを考え、
まるで赤ちゃんを運ぶかのように大切に、大切に扱い郷里に持ち帰ったそうな。
しかし、大切に持ち帰ったにもかかわらず、長旅のみかんの木は枯れる寸前だった。
2本のうち、一本が和歌山の上司に渡され、残りの一本を糸我(有田地方)に持ち帰っって育てた。
和歌山の上司に渡した木は枯れてしまったが、糸我(有田地方)に植えた木は、孫右衛門の夜昼構わず苦心と熱情的に栽培し、息を吹き返し遂に育っていったそうな。

さて、次の問題は、木の繁殖であった。
孫右衛門は、その当時あった柑橘類(橘であると思われる。)に接ぎ木を試み見事成功し、
これによって増やすことができた。
そして、遂にその実を得ることができ、孫右衛門は天に昇るような気持ちで、涙を流して喜んだそうじゃ。雫
村の人達も、孫右衛門の熱意と、その果実のすばらしさに心打たれ、涙をながして喜んだそうじゃ。。
それから、孫右衛門は村の人達に栽培方法を教え、有田地方を窮状から救い現在に至る、産業の基が始まったのそうじゃ。
数年後には、近隣の地にみかんが植えられ、現在の有田地方 山々の頂きにまで開墾され豊かなみかん畑が・・・・スマイル
そして、寛永11年(1634年)江戸の市場に有田みかんが登場し、1籠半が金子1両という高価な値段で取り引きされた。
有田みかんの品質の良さは、有名になり、初めて東京にみかんが送られ、有名な紀伊国屋支左衛門が嵐の中、海をわたり、江戸(東京)にみかんを送り大成功したのは1685年のことといわれています。
というお話が残っています。

こうしておいしいみかんを頂き、改めてみかん栽培のご苦労に思いを留めて深い感謝を表したいですね~スマイル
強い信念と、情熱って本当に素晴しいですね。大震災後の日本、強くあれ。たくましく活きろ。
知恵を出せ!!先人のこの地を思う気持ちを私達の世代でなくしてはいけないそのようなことが頭によぎりました


T先生、おいしいみかんありがとう~!





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Last updated  2012.01.16 16:13:14
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