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カテゴリ:社長の一人言
市民講座の講師をしていると、授業だけでなく、定期的な会議のほかに、講師のためのセミナーというのにも参加しなければならない。
今日あったのが4回目のセミナーで、マルマラ大学の医学博士の女性によるものだった。 「変化」をテーマにした人生論、生き方論みたいな内容で、講演者の舞台風の話し方、動き方で、参加者の評判はかなりよかった。 講師だけでなく、市の職員たちも多数聴きにきていた。 午後は授業があるので途中で抜けて、教室のある市民ホールに戻ったが、なんでもそうだが、一人で自分だけの考えに引きこもるのではなく、ときどきはこういう専門家の話を聴いたり、他人の考え方を聴くだけでも、そうだよね、とか、自分が考えていることがたいしたことじゃないと思ったり、気分が変わるものであるなあ・・・・と。 影響を受けるかどうかというのは、人それぞれなんだろうけど、内容でわかりやすかったことのひとつに、ある絵(心理テストでよくつかう向かいあった顔と花瓶の白黒の絵)を見たときに、Aグループは「顔」といい、Bグループは「花瓶」という。 お互いに人生のベースが何色かで見えるものが違う。 そしてお互いに「あいつらはわかってないなあ」と考える。 でも正解は「顔であり花瓶である」ことだという。 違う見方や立場で違うものが見えるということを「知る」ことだという。 そんなような話が舞台風に続いていく講演だった。 最近、商売以外の場に出る機会が増えて、それによって知り合う人の数も増えると、人間関係もそれだけ複雑になってくる。 そして馴れ合いになると、お互いに親密さと不敬をごっちゃにしてきて、親しければ親しいほど、相手に対する要求が増え、それが果たされないと不満となる。 トルコ人としてはすごく一般的な話なんだけど、親しくなると何でも聞いてくれなきゃ、友達じゃない・・・みたいなところがある。つまり境界線を簡単に踏み越えてくる人が多い。 なかには理不尽な要求をしてくる人がいて、話をしていると、すごい理屈で「私の考え方や道徳観念の方が間違っているのかしら・・・」と洗脳しかかりそうになったりする。 具体的にはとても言えないが(でもここではよくある話)、それで私も頭に来たり、気持ちがもやもやしたりするのだけど、ふと思ったりもするわけ。 自分が正しいということは自分で信じるとして、相手の考え方も私にとっては変だけど、まあ、そういう考え方もあるんだな・・・・。 そう思うと、相手の考え方を受け入れるかどうかは別にして、認めることができるから、自分の考えも相手の考えも否定しなくてすむので、気持ちがラクになる。 もうひとつ、火傷をして「手が痛いよ~」と泣いている子供には、こう接したらいいんだよ、と講演者が言っていた。 1.「手が痛いの~?」と繰り返して事実を肯定する。そうすると子供は「うん」と言う。 2.「それは大変だったねえ」と気持ちを代弁してあげる。 3.「こっちにおいで痛いのが治るおまじないで、キスしてあげる」 これをしてあげないで「そんなに痛いわけないでしょ」とか「自分でやったんだから我慢しなさい」とか一見正しいことを言ってみても子供は愛を感じることができないけど、たったこれだけのことで愛を感じて育っていけると言う。 「今、自分は大変なんだ」「こんなに辛いんだ」「助けてくれ~」と言っている周囲の「子供たち」にも、これをやるべきなんだな、って思ったんだけど、どうしてこうも甘ったれが多いのだろう・・・って。 ああ、一人でマイペースに誰にも邪魔されす、骨董集めやっている方がどんなにラクチンだったか・・・・今はそんなことも思ったり。 でも人生それだけじゃないってこと。講演者の弁によると人生は20%の知識と80%の人間関係から成り立っているそうだから・・・・。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007年03月27日 16時05分45秒
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