カテゴリ:合作映画
記録。ノート、断片。
邦題「ニュースの天才」 原題「Shattered Glass」 2003年/アメリカ・カナダ/1時間34分/ マスコミ論において「客観的報道」はありえない。 では、報道において「客観性」はありえないのか。 人間は主観的動物である。 ならば、報道に客観性はありえなくなる。 だが、報道は客観的でなければならないという建前。 建前、と言ってはならない。 報道が建前であれば、報道そのものが瓦解する。 「THE NEW REPUBLIC」の記者、 スティーブン・グラスの記事の捏造事件。 1998年に発覚。 だが、それまでに完璧であるはずの、 同誌のチェック体制をくぐりぬけてきたという事実。 バレルまでは、罷り通っていたという事実。 バレル原因となった記事は「HACK HEAVEN」。 コンピュータ関係のオンライン雑誌が気づいた。 自分たちのフィールドから奪われたスクープだ。 自分のものを取られたら、誰だって怒り出す、 人の財布と自分の財布、 どっちから盗まれたら腹が立つ? 上手い。 自然な流れを映画はつくる。 スティーブン・グラスという主役を据えながらも、 フッと、観る側に話しを持ちかけてくる。 対岸の火事ならば、見過ごす記事でも、 自分の仕事、自分の住む町、自分の知り合いが係われば、 見過ごすワケにはいかなくなる、という心情。 スティーブン・グラスの失敗。 捏造を何パターンも分析して行っていたのに、 知り尽くしていたはずなのに。 だが、彼が失敗したから、わかったのだ。 失敗すべくして失敗した事件ではあったが。 だが、それまでは成功していたし、 他に今もなお成功している事例がないとは言えない。 ミニコミュニケーション。 マスコミュニケーション。 マスという単位により形成されるダイナミックな構造。 「THE NEW REPUBLIC」が信頼されている雑誌ではなく、 アクセス数が一日、数十数百数千のブログだったら、 問題にならなかっただろうし、 謝れば済む問題だったと言い切っても問題あるまい。 だが、大衆を動かすことは麻薬にも似ているらしいのだ。 熱狂、興奮。 おもしろければいい。 また、この映画は観る側を主役にする。 日本のマスコミは2005年の選挙で、 候補者をテレビに映す時間も候補者の顔写真を、 テレビで映す場合は均等にしなければならないと、 何度か報道していた。 言いたいことが言えなくて、 困った顔のキャスターやコメンテイターもいた。 しかしそもそも、アメリカのテレビ局で、 単独で機能しているところはないといくことも。 ■■の局は常に●●党よりの報道をするらしい。 「クニミツの政」というマンガを思い出す。 蕎麦を選挙に間接的に使用していたクニミツ側陣営。 坂上のPRがナニゲに蕎麦に絡めて打ち出される。 政治ではなく蕎麦なのだ。 蕎麦ならば、問題あるまい、なのか。 スティーブン・グラスの記事は、 日常のこと、と言われていたがそれはまるで、 内容は「大スポ、東スポ」を想起させるものでもある。 そういう記事だから、たいしたことない、 苦情も出ないだろう、出たところで問題は少ない、 それよりも忙しい仕事だ、することはいっぱいある。 と、思わせることが出来たら、 捏造がまかりとおってしまうのである。 思い出した。 途中で、「ドラゴン桜」のことを。 税金のシステムや、法律など、 身近であるはずのものがどうもわかりにくい。 故意にわかりにくくしているのだ。 わかりにくいものを他人任せにする性質を見抜いて。 だから、勉強しろ、東大へいけ。 そうだったよね、桜木先生! 試験問題にも問題作成者の意図が必ずある。 教育のシステムが変わって、 いままでのカリキュラムが変わってしまった。 円周率は、3で教えるという話だ、中学生までは。 高校生になってやっと3.14になるらしい。 そういうことに憤りがあれば、 試験に反映されたりするということ。 すなわち、マスコミにおける客観報道は、 主観的な報道によって、成り立っているのだ。 それを、変容させるマスコミというダイナミズム。 というのは、つまらない論旨。 ああ、つまらない、そういうのは。 それを言ってるとどんな言葉も 客観的になることは永遠になくなってしまう。 すべてが主観的? だからこそ、ミニコミの重要性がある。 ミニコミュニケーションは個人的に好きだが、 それはそれ、これはこれ。 おもしろければいい。 これも個人的には、肯定する。 おもしろいものに興味を示してどこが悪い? 捏造を、スルーしていた「完璧」なチェック体制。 それを面白いと評価していたのは、 いわゆる客席側、観る側。 まかりとおっていたのだ。 ということは、まかりとおっているのだ。 ニュースではよく、汚職談合が報道される。 観る側としては腹が立つ、 税金が使われている場合だってある。 良識をもって接すれば、悪いモンは悪いのだ。 だが、実際、労せずに金が入れば、 ことわりきれるだろうか、とよく言われる。 そもそも、お金はいまや、現物紙幣ではなくて、 「信用経済」と言われている。 市場を飛び交っているのは、紙幣ではなくて、 実は数字に過ぎないのだ、しかも、 予約権やら、転換社債やら、オプションもいっぱい、 「金になる見込み」でも、金として扱われている。 最近、よく思うのだ。 いかにも、正しいと思えることが多い。 そうだ、思い出した。 2005年の選挙、「造反議員」と言うのは、 改革を推し進める側を始点にしている表現。 「歪み」が起きているのだ。 この「歪み」を利用するような犯罪が、 これからもっと起こるかも知れないと思うのは飛躍。 興味深いのはスティーブン・グラスという人物が、 天然なのか、演出家なのか、ということだ。 ラクをしてうまくいけばいい。 謝ってすまされればいい。 それは甘い誘惑、後で謝ればいいんだから、 何をしてもいいと、いうわけか? 頑なではいけない。後で疲れるだけだ。 人間関係を円滑にするためにも、 スティーブン・グラスの気配りは必要である。 笑顔も。 「客観的な報道」は存在しえないのは確かだ。 なにせ、人間が報道している。 そんなことを思った。だが、スティーブン・グラスは、 間違ったことをした。それは、確実。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005.10.28 23:50:40
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