カテゴリ:光る君へ
とっても癒される存在の道綱。
母親が何とか正妻腹の子達と同じように出世させたいと、毎度兼家をせっつく のに対し、道綱自身が、もうやめてくれ、と言っていましたね。 おまけに、良い官職に就いてもろくな働きが出来そうにない、なんて言うので 笑ってしまいました。 この道綱、実資があまりに罵倒するので、後世無能とされてしまいましたが、 本当のところはどうだったのでしょうか。 兼家が政権を握ってからは従三位に叙せられ、公卿に列せられています。 ただ、正妻腹の道長達よりは大夫遅くに公卿になりました。 でも、定子の中宮権大夫、三条天皇の春宮の春宮大夫、道長の娘姸子が 三条天皇の中宮になると、その中宮大夫となる、といったように、要職を任さ れています。 また、藤原顕光と違って、大きな失敗談も残っていないようです。 実資は自分を超えて道綱が大納言に任じられたりすると、大憤激しています。 ちょっと異例の任官だったこともあり、また、あの無能が自分を超えて・・・と いう気持ちもあったのでしょう。 この時実資は、これは道長と東三条院(詮子)の横暴だとし、東三条院が 一条天皇の母后として政治に口を出していると非難しています(^-^; どうも道綱に対しては軽く見ていたのでしょうか、なにかとひどい書き方をし ています。 顕光については、もう「言うまでもない」ということでしょうね。 ある行事を顕光が担当した時、例によって顕光はカンニングペーパーを 見ながら間違いばかり犯すのですが、それについても、 「今日の行事は異例ばかりで後の参考にならない」 とあっさりしたものです🐽 また、花山天皇を兼家と息子達が出家させてしまった夜、神璽を春宮に移した のは、歴史上の文献では道綱一人で行ったとなっています。 あの事件は、道兼と一人の僧侶、そして道綱の3人だけで誰にも知られずに 行われた、と。 もちろん、兼家の指図があったことは否定出来ませんが。 とても実資が侮辱する程の阿呆とは思えませんね。 道綱の母が残した「蜻蛉日記」によれば、道綱は16歳の時、内裏で行われた 賭弓(のりゆみ・弓の試合)に選ばれて参加しています。 2方に分かれて弓を射、勝ち負けを競います。 もし、勝ったら舞も舞わないといけないということで、弓の練習の他に舞の 練習にも励んでいます。 道綱の母は、当日試合の流れの報告を自宅で聞きながら、ハラハラしていま した。 結局道綱の弓で、それまで負けていた道綱方は引き分けにすることが出来た ので、道綱は弓は上手かったのでしょう。 引き分けでは、折角練習した舞はどうなるかと思っていたら、引き分けなの で、どちらも舞うことになりました。 すると、道綱の舞がとても感動的だったので(この平凡な言い方どうよ、奥 さん)、当時の円融天皇も感心し、なんと天皇の御衣を頂いています。 ものすごく名誉なことですね。 「日本紀略」には、 『兼家卿の子息が舞を舞ったが、既に骨法を得ていたので、主上より紅染め の単衣の御衣を給わった』 とあります。 和製漢文を訳したので、多少の間違いはごめんなさい🙇 ※紅染めは、当時最高級の染め色で、禁色(きんじき=天皇の許しがあった上 位の者でなければ、男女共宮中では身につけられない) 大変な名誉で、兼家は流石にこの夜は、拝領した衣をまとったままの道綱と に道綱の母の家に帰って泊り、 「私の面目を立ててくれた、上達部たちが皆涙を流して感動していた」 と、涙ながらに語ります。 この家に舞の師も呼んで、また何くれと褒美をあげています。 翌日からも、「若君の御よろこび聞こえに」と、兼家の息子の慶事を喜ぶ人 や便りが沢山の人達から届き、道綱の母は、 「あやしきまで、うれし」 と書いています。 母親の素直な気持ちが表れていますね。 この話から、道綱が初めて登場した時、兼家の前で舞を舞っていたのでし ょう。 C(NHK) いつもポチっと応援ありがとうございます🎎 にほんブログ村 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
March 25, 2024 04:08:57 PM
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