カテゴリ:光る君へ
昨日、ひっさしぶりに店舗で洋服を買いました。
出かけたついでにユニクロでGパン買ったりはありましたが、普通の❓ ブティックで買ったのは久しぶりだと思います。 ついでに9000円もするブラウス買ったのは何十年ぶりだろう・・・。 これは、ユニクロです。 さてさて、道兼。 自分に関白(摂政)を譲らなかったので、怒って父の死後遊んでいた道兼で すが、史実(「大鏡」のような偏った物も含みますね)では、男性と詩の会 を催していたり、実資等仕事仲間と飲んだりしていたようです。 実資も「小右記」に、道兼の家で飲んだと書いているとか。 そして、兼家の葬儀を心を籠めて行ったのは、道綱と道長だったと言います。 大河ドラマでも、道長は兼家の老いや死を堪えがたく感じていましたね。 定子が中宮になった仕組み、奥さん、わかりますか❓ わかっている方も多いと思います。 后の位は、 🌸中宮(当代の后) 🌸皇太后(先代の后) 🌸太皇太后(先々代の后) の3つしかありません。 ですから、この3人が皆長生きをすると、后の位はいつまで経っても空かない、 ということになります。 実際、この当時、 中宮:遵子(円融天皇后) 皇太后:詮子(一条天皇生母) 太皇太后:昌子(冷泉天皇后) と、三后は全部塞がっていました。 詮子は后にはなれませんでしたが、天皇の生母なので、后の位にしなければ ならなかった、ということでしょう。 実際円融天皇は、遵子を中宮にした時、兼家に、 「詮子は、今は(后に)なれなくても、(皇太子の母だから)この先必ず后 になれるから(遵子を中宮にする)」 と、弁明❓したと「栄花物語」にはあります。 実際、三后がふさがっていたので、花山天皇は中宮を立てられませんでした。 そもそも、中宮が后総ての居場所、皇后がその地位を表していたのですが、そ れが、中宮と皇后が同じこと、となりました。 それを、道隆は2つの呼称を別のものとし、つまり、中宮、皇后、皇太后、太皇 太后と四后にしてしまいました。 これは、実資が伊周について言っていたように、 「異例中の異例」 であり、単なるへ理屈と言って良いでしょう。 それでも、これは、後に道長(と行成)が画策した一帝に中宮(彰子)と 皇后(定子)の二后が立つのに比べれば、ずっとましでしょう。 正妻が2人いるなら、何のための「正妻」でしょうか❓ (C)NHK 道長が作った一帝二后は、後年まで批判がありましたが、その後、三条天皇、 後冷泉天皇と、一帝二后は続いてしまいました。 そして、中宮になった定子の中宮大夫(中宮職長官)に、道隆は道長を任命し ます。 姪に仕えることになった道長は、職務甚だ不謹慎で、ろくに出仕もせず、 そもそも定子の中宮立后の式にも遅刻しています。 道長は中宮大夫でありながら、ろくに出仕しなかったことについて、気持ちは わかるが気の強いこと、と道長礼賛の「栄花物語」にも書かれています。 道兼は、道隆亡き後、詮子によって関白に就きますが、数日で亡くなってし まいます。 その時、「栄花物語」には、病気の道兼を道長がその屋敷に泊りがけで見て いたこと、女の子が欲しかった道兼の奥方が妊娠中で、女の子の誕生を待ち 望んでいるのに、と涙したこと、また、亡くなった後は懇ろに弔ったことが 書かれています。 同時に、道隆が糖尿病で危険な状態になっても、決してそんなことはしなか った、とまで書かれています。 で、どうやら道兼と道長は仲が良かったようですね。 (C)NHK いつもポチっと応援ありがとうございます👘 にほんブログ村 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
April 11, 2024 02:19:10 PM
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