カテゴリ:光る君へ
一昨日買ったブラウスにアイロンをかけ、しまおうとしたら、赤いものが
目に入りました。 それが、ポタポタと、どんどん白いブラウスに広がって行く。 もう、ホラーでした。 昨日、指から結構出血したので絆創膏を貼っていたのですが、お昼頃取り、 その後また貼っていなかったけれど、血は出なかったのでそのまま。 で、なんでアイロンがけでも出血せず、しまう時にポタポタ落ちる程出るの、 急いで漂白&洗いました。 さて、倫子とその娘達。 平安時代は美人の絶対条件とも言える長くて豊かな黒髪を持っていました。 倫子がそうだったようで、その血を彰子、姸子、威子、嬉子、と4人共受け 継ぎ、記録でもよく4人の娘達の髪の長さや豊かさに触れています。 容貌の美しさも書かれていますが、髪も長かったので、余計に美人と讃え られています。 (C)NHK 中でもダントツに髪が長かったのは、次女の姸子でした。 豊かな髪でも、袿の織り模様の上では乱れるとされていたのに、姸子の場合 は、織り模様の上にたっぷりと髪が乗っているので、織り模様が見えなかっ とか、最期は病死するのですが、その直前に出家しました。 僧侶が髪を切りましたが、どうやら病中も伸びていたようでした。 その姸子が産んだ禎子内親王(姸子は三条天皇の春宮時代に入内してい ます)は、生まれた時、既に髪が「振り分け」だったとあります。 恐らく、分け目がある位の長さがあったということでしょう。 女の子としても長そうですね。 多少大袈裟に書いたかもしれませんが、姸子の子だし、三条天皇も驚いた 程だったので、今の私達が見てもびっくりする位髪が濃い赤ちゃんだった のでしょう。 赤ちゃんは生まれた後髪を少し切りますが、禎子内親王はそのまま伸ばす ことになりました。 その後初めて髪を切った時、「押し返し今こそ稚児なりけれ」、つまり、 髪を少し切って短くなった姿が、普通の赤ちゃんの長さだった、という ことですね。 また、姸子は夏のお産だったので、三条天皇も 「暑さの中のお産は、髪の毛の為にも大変だったでしょう」 と、声を掛けながら見たら、髪が減ったり切れたりせず、相変わらず だったので、これにも驚いた、とあります。 そう言えば、私も髪が多いので、大学時代男の先輩から、 「江戸時代だったら美人だったね」 と、余計なことを言われました🐽 (今じゃただのブスかい) 髪が豊かだったと記録にあるのは、姸子の他には、村上天皇女御の藤原 芳子がいます。 檀紙という紙の上に芳子の髪を1本乗せると、檀紙一面を覆いつくして しまった、とか、牛車に乗ると、髪の裾はまだ部屋の中の柱の所にあ ったと言われています。 檀紙の大きさがわからないのですが、当時の紙も今の和紙も大体 30㎝×24cm位みたいです(未確認)。 その紙の白い所が見えなくなる程の長さがあったのですね。 すごい でも、動くのには重~く、洗うのはさぞかし大変だったでしょうね~。 良い日でないと洗えなかったので、毎日櫛で梳いていたのですが、 生え際から裾まで梳くのも大変そう。 髪の量も多そうだから、かなり時間がかかりそうですね。 この芳子は大層美人だったそうで、目じりが少し下っていたところが 特に可愛らしかったので、村上天皇も大変寵愛した、とあります。 おまけに、父親である藤原師尹から、 「まず習字を、次に琴を上手に弾けるようにおなりなさい。 勉強としては、『古今和歌集』を総て暗記なさい」 と言われ、「古今和歌集」全約1100首を暗記していたそうです。 和歌だけでなく、その和歌が詠まれた時や状況も覚えていたとか。 いたんですね、昔も。 才色兼備が 因みに、この芳子の古今和歌集暗記の話は、「枕草子」に載っている 話です。 定子が知っていたようで、清少納言はじめ女房達に話しています。 「光る君へ」で、女性達の髪の毛が腰位までなのは、動きが鈍くなる から、短めしているのでしょうね。 重さでゆっくり歩いていては、尺が足りなくなるから(笑) いつもポチっと応援ありがとうございます にほんブログ村 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
July 22, 2024 04:45:38 PM
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