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道長は、政権を取る為に、或いはそれを維持するために、様々策を弄じま
したね。 歴史に「もしも」はタブーですが、後から見ると、しなくて良かったと言 うか、しなければ他人を傷つけたり貶めたりしなくて済んだのに、と思え ることがあったりします。 (C)NHK 挙げてみると・・・ ⭐定子を皇后にし彰子を中宮に 史上例を見ない「一定二后」を作ってしまいましたが、定子は皇后になって 10ヶ月程で亡くなってしまいました。 道長が焦らなくても、彰子は定子亡き後中宮になっていたとも言えますね。 ⭐定子の産んだ敦康親王を置いて、彰子が産んだ敦成親王を春宮に 彰子はこれに反対し、一条帝の希望通りに敦康親王を春宮に立て、敦成親王 はその次にでも・・・と思っていました。 しかし、敦康親王には後見をする有力な親戚がいなかったことも大きな原因 となり、敦成親王が春宮になりました。 でも、敦康親王は20歳で薨去し、その時女の子しかおらず、敦成親王は即位 して3年目でした。 この時、三条天皇の皇太子だった敦明親王は、既に自ら退位して、敦良親王 が代わりに春宮になっていました。 つまり、敦康親王が即位し、3年ほどで崩御した後、敦成親王が即位出来たと 同時に、その時有力な春宮候補は彰子が産んだ敦良親王しかいなかったという ことです。 自然に任せていても、敦成親王も、その弟の敦良親王も即位する可能性が濃厚 な状況でした。 敦康親王は、彰子が引き取って育てたので、公正な彰子はまず第一皇子を春宮 に、と言いましたし、次に敦良親王が春宮にという話があった時も、まず 敦康親王を、と道長に主張しました。 ま、「もしも」を言い出しても、意味がないのだけど🐽 ところで。 (C)NHK この2つの衣裳、鳳凰の模様が一緒のようだと思いました。 高校卒業時にもらった「古典参考図録」の中にこんなのが載っています。 12,3世紀の貴族の女性の装束(を再現したもの)だそうですから、紫式部 より200~300年後の装いですね。 上の2人の衣裳を見た時、これを思い出しました。 でも、これになんとなく似ていますよね❓・・・ね❓奥さん。 地織りが小葵文様、その上に縹(はなだ)、青、紫の鳳凰のを上文(うわ もん)とした二陪織物(ふたえおりもの・漢字はこちらの『陪』が正解でし た)です。 高級ですね。 いつもポチっと応援ありがとうございます👘 にほんブログ村 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
May 9, 2024 11:51:37 PM
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