カテゴリ:光る君へ
12日の放送で、まひろはあり得ないことですが、宮中に上がり、たまた
まいらした一条帝とも会いました。 ここでまひろが着ていた唐衣が二陪織物だったのは、間違いです。 帝の許しがないのですから、さわが着ていたような織物しか着られない はず・・・。 でも、時代劇や今の皇室の方々の女房装束を見ている私達は、平織り・ 無紋の唐衣を見たら、かなりおかしく感じるかもしれません。 色の重ね方は、このドラマならではの、オリジナリティあふれる ものです。と言っても、まひろは青(緑)の「匂い(上から下へ段々 に薄くなっていく」ですから、ありかな。 全体的に淡い色合いで、高位の女性との区別をつけているようです。 こちらの色の重ね方の方が、私達には馴染みがありますね あ、この2つの表着(うわぎ)は同じ物の様ですね。 唐衣のすぐ下の袿です。 白地に鳳凰が織られています。 また、父為時に対して任官を知らせる宮中からの使いが来ますが、この 時、まひろが十二単を着る必要は全くありません。 もし、まひろの家に帝をはじめとして、中宮、皇子、内親王といった皇族 が訪れたなら、まひろは唐衣と裳を着用しなければなりませんが、この場合 はそうではありません。 裳着の時の衣裳もあるのに、この衣装もあるのに、何故まひろはいつまでも 中途半端な衣装を着ているのでしょうか。 為時は六位上ですから、大臣クラスを年収3億とすると、700万円くらいの 年収があったとする試算もあります。 また、為時は漢詩を通じて行成や公任と交流があったことも記録にあります から、まひろもお嬢様育ちで、間違っても自らかぶを育てたり、街中を 顔も隠さずに走り回ることはありません。 どこかへ出かける時は牛車か輿に乗ります。 食べるのにも困った、なんて程貧乏ではありません。 高位の貴族程ごちそうは食べなくても、元々平安時代の食事は質素で、仏教 の影響であまり肉や魚は食べませんでした。 食事に拘るのはいやしいという考え方すらありました。 まぁ、中には大食漢もいましたけどね。 さて、服装に戻りますが、中宮の身分の彰子が里下がりをしてお産をした 時、母親である倫子は、彰子や孫の敦成親王に対して唐衣・裳を着用して います。 「紫式部日記絵巻」 左、敦成親王を抱くのが倫子、右が彰子です。 国文学者が出した本でも、左を彰子としているのが現在でも出回っていて、 驚きです。 学者さん達、意外と有職故実が苦手、嫌いだからかな❓ このように、宮中だけでなく、帝、中宮、皇太子妃といった方々の前では、 里第でも唐衣・裳は着用する必要がありました。 また、定子の妹である原子は三条天皇が春宮時代に春宮妃になっています。 定子と妹の原子、母貴子等が会った時、定子と原子は小袿に裳、というイ レギュラーの姿をしていました。 原子は春宮女御時代に不審死を遂げます。 これに倣ったかはわかりませんが、道長の娘達、みな帝の后になったのです が、彼女らが会った時も、母倫子は別として、同じ身分である娘達は小袿に 裳を着用しました。 歴史学者や国文学者は古来、これを異例の服装としましたが、恐らくこの 時期、この服装は同じ身分でも太皇太后、皇太后、中宮と序列はあります から、上位の対する礼儀として、普段着の小袿の上に裳を着けたものと 思われます。 小袿は貴族の女性の普段着で、普通の袿より丈が短いものでした。 袿の一番上に重ねましたが、丁度立った背の高さと同じ位でした。 えー、また、高校卒業時にもらった「古典参考図録」から引用しますね。 一番上の黄色いのが小袿です。 この腰の部分に裳を着けたのですね。 今回のドラマで、為時が道長の手配でめでたく越後守になれましたが、 宣孝に赤い服を借りる為に用意するまひろは、道長の配慮を感じてか、 笑みを浮かべていましたね。 ドラマの主題❓である、2人が心友、ソウルメイトである様が感じられ ました。 長年離れて暮らし、愛だ恋だを超えたかな、と。 史実では、これから2人が出会って、妾となるのかならないのか・・・ ということなのですけどね。 いつもポチっと応援ありがとうございます にほんブログ村 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
May 14, 2024 10:14:59 PM
コメント(0) | コメントを書く
[光る君へ] カテゴリの最新記事
|
|