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さてさて、みなが欲しがった行成の字とは、そもそもどんな風なのよ、と
思いますよね、奥さん。 現在残っている彼の手紙や漢籍を書いたもの等は大体国宝。 重文もありますね、貴重な物となっています。 (ご存知とは思いますが、『伝 藤原行成』と言うように、伝が付いて いる物は、まず偽物です。) 以前東博で催されたこちらの展覧会にも、行成の字は展示されていました。 「書の至宝 日本と中国」 行成の白氏詩巻(国宝) 赤い枠が行成が書いた年で、寛仁二(1018)年八月二十一日だと思いま す(^-^; 小さな赤枠は、彼の当時の年齢で47歳。 その上には自分の役職が書かれているのかなと思ったのですが、権中納言と か読めますね、あ、彼は当時権中納言(ごんのちゅうなごん)ですね、正解 そして、一番上は「正二位」かと。 当時彼は正二位だったし、大体位階から書くので、そうかな❓ つまり、「正二位権中納言□侍従」。 侍従と読めるのだけど、わかりません。侍従は若い時に勤めていたな。 この時は三条天皇。この時期、侍従になったという記録が特に見えないから、 違うか。 ・・・・わからないなら、余計なこと書かないの はい、すみません💦 一方、左の方の緑の枠内は、この書を保延六(1140)年に、行成の子孫 である定信が購入したとかいてあるそうです。 その前には、能書家と知られた伏見天皇が所持されていたことが、この紙の 継ぎ目に伏見天皇の花押が押されていることからわかるそうです。 行成の書を継いだ子孫は以下のようで、この中に定信と言う人はいません から、傍系なのかな。そもそも、定信と言う人の生没年も「未詳」となって いますから。 黒板伸夫「藤原行成」より こちらは書状です (重要文化財) カタログには、内容について詳しくは書いていませんが、以前読んだところ では、これは、行成が道長の明子腹の末っ子長家の世話をするのに、手元不 如意だった為、就任させてもらった大宰帥の官職を辞退する、といった内容 のはずです。 この時、行成の娘だかの具合が悪くて、太宰府に赴けなかったということも あったようですが、それより伊周の弟の隆家が目を悪くし、太宰に良い 眼科医(宗の人)が来ていると聞き、隆家に譲るように言われてしまった、と いう話もあります。 中納言でも、道長の息子(行成の婿)の世話は容易ではなかったんですね。 そして、この字がうまいのか❓ 下手ではないけど、こう・・・楷書か草書なら素人にもわかりやすいような きがするのだけれど、本文は達筆と思えても、奥書(いつ、どんな時に、誰 が書いたか)部分は、これが達筆なのかわかりません。 でも・・・ こちらよりは上手だと思える(断言) 道長の「御堂関白記」ですよ、奥さん。 忙しいからか、急いで書いているような感じがしませんか❓ それでも解説文には、 「その筆致は行成らの影響が見られる」 んだそうです。 尤も、日記と正式に書いたものを比べたら、道長に悪いですね。 では、折角だから、奥様方も教科書で見た名前の書家や、有名な弘法大師 の書もちょっとだけですが、どうぞ 王羲之 最初の二文字は「羲之」らしいです。 そして、空海こと弘法大師 空海も行成も沢山のお寺の額を書いています。 空海のは残っている物もありましたよね、確か。 行成のは焼けたり廃寺になったりして、もう見られないかもです。 いつもポチっと応援ありがとうございます🖌️ にほんブログ村 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
May 25, 2024 01:39:25 AM
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