カテゴリ:光る君へ
一条帝は、定子と詮子の間で苦悩したようですね。
その所為か、定子が亡くなった時は行成を前に、嘆き悲しんだ一条帝です が、詮子が亡くなった時はさほど悲しんだ様子が書かれていないようです。 それで、今では詮子が定子に良くしなかったので、亡くなった時、息子か ら冷たい反応をされた、とされています。 (C)NHK これは、大河ドラマの考証をしている倉本一宏さんの説でもあります。 というより、もしかしたら、倉本さんの考察が一般化したのかも。 調べていないので、わかりません。 私が持っている倉本さん著の「一条天皇」(2003年初版・2004年二刷)の 中には、詮子が亡くなった時、道長は 「思い嘆くこと極まりなし」「権記」 と書いてあるのに、一条帝に亡くなった時の様子、その後の葬儀一連を 行成が報告すると、一条帝は翌年の正月の戴き餅という行事を行う公卿を 任命するだけで、母宮に関しての言葉はなかったようなのです。 詮子は亡くなる5日前に行成邸に渡ったので、最期の様子は行成がよく 知っているのに、それも訊ねなかったようです。 病が重くなってから、一条帝は母宮を見舞っているし、そこでは泣いたり とまだ40歳の母親が重い病に罹っていることを嘆いています。 (C)NHK 特別母親に冷たい訳でもないとは思いますが、大人になるにつれて、今 の男性もそうだと思いますが、母親が煙たくなったことはあるでしょう。 更に、詮子は道長を何かと立て、政治にも口出しをしたので、途中から 煩わしく感じたことはあったかもしれません。 道長を関白(実際は内覧ですが)にしたり、彰子を中宮にして一帝二后に することを、道長から頼まれて詮子は一条帝を説得する役割も果たして います。 また、正月には、帝は親の元へ行幸(朝観の儀)するのが普通ですが、 998年から詮子が亡くなる1002年まで、この朝観行幸が行われていない のです。 詮子の体調が悪かったこともあると思いますが、5年間一度も無かった のは意外です。 亡くなった人の方が、心に強く残りますよね。 一条帝の定子に対する愛情はいや増し、過去のことを悔いることもあった ことでしょう。 それにしても、やはりこのドラマの衣裳担当の方でしょうか、緑が好きみ たいですね。 詮子が入内した時、まひろが宮中に上がった時、そして今回は清少納言の 唐衣がコバルトブルー的な緑で綺麗でした。 (C)NHK いつもポチっと応援ありがとうございます にほんブログ村 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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June 25, 2024 03:39:41 PM
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