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佐々木蔵之介さん演じる宣孝の時々見せる眼差しが、今回のドラマではっきり
しましたね。 私は、どうして宣孝がまひろと道長の仲を知ったのかがよくわかりません。 昔、まひろと道長が街中で会っていた時、まひろを連れ帰りながら、 「あの男はやめておけ」 と言いましたが、あの時点で宣孝が道長の顔を知っているとは思えないのです よね。 でも、その時しか思い当たりません。 他にありましたかね❓ 心に思う人がいても構わない、自分の子でなくても、良い子を産め、挙句の 果てには、いつかその子が自分の役に立つかもと。 明らかにまひろを出世の道具として(も)見ている。 (C)NHK 前回、弟の惟規が 「(姉上が何をしても)あの人は姉上を手放さないから」 と言いました。 「放さない」ではなく、「手放さない」がイヤでした。 その言い回しも、宣孝の思惑も今回で急に明らかになったのでしょうか。 私はなったと思ったのですが。 宣孝としては、いっそ道長の子をまひろが産んだ方が、余計に気に掛けても らえるからホクホク❓ まひろを段々意識していくような目つき、態度になって行った宣孝でしたから、 まるで気が無い、単に出世の道具としか考えていないという訳ではないので しょうが、他の男の子を育てるなんて、現代では考えられないですね。 いっそ、娘の賢子が産まれた後、宣孝の訪れが無くなったのは、娘が道長の 子だからだ、と考えた方が面白いかもです。 以前のブログに書いたように、賢子が生まれてから実際に宣孝の訪れはなく なったに近い状態だったようですから。 それでも、賢子の和歌を見ると、宣孝の陽気な性格を受け継いでいるよう だと、百人一首にとられた 「ありま山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする」 のリズミカルで爽やかな作風は評されています。 後には後冷泉天皇の乳母に任じられ、天皇の風流な面は彼女の教えの賜物と 誉め讃えられた賢子。 そんな面も、宣孝の世渡り上手な面を受け継いだのかな、と思えます。 ドラマでは、宣孝は賢子を自分の子ではないと知りながら可愛がり、あわよ くば・・・と思っているままに行くのでしょうか。 一夫多妻制とはいえ、ちょっと現実離れしていませんか❓ さて、道長。 姉の詮子同様、彼も身体が弱い方でした。 ドラマのこの頃、一条帝に、病により辞表を提出しています。 自分の死期を悟ったようで、本気の辞表でしたが、一条帝は、どうも物の怪 の所為でそんなことを言うのだろうと、取り合わず、そのうち道長の病状も 良くなっていきました。 中年以降は糖尿病が悪化し、目がよく見えなくなっていたようで、実資に そのことを話し、実資が、昼見えにくいのか、夜見えにくいのか、と訊ねる と、いつでもだ、と答えたそうで、不便だったことでしょう。 孫の後一条天皇を即位させたかったので、三条帝の眼病を理由に譲位を迫っ た道長ですが、自分は目が不自由になっても、頼通に関白を譲っても、暗然 と権力を維持していたのだから、帝すら何とも思っていなかったのでしょう。 伊周、隆家の長徳の変の頃、一条帝は17歳だったのですよね。 今回も20歳です。 今より遥かに大人びていることがわかりますね。 単に寿命の問題にとどまらず、天皇としての自覚、更に一条帝自身が英明だっ たのでしょう。 そうして、周りにも優秀な人材が集まりました。 道長の息子の頼通も、小さい頃から風邪をよくひく子だったようです。 道長の子供の中で、恐らく一番健康だったのは彰子でしょう。 長生きをしただけでなく、あまり病気になったという記事がないそうです。 また、どこかが悪くなっても、すぐに回復しています。 これは、母である倫子譲りではないかと思います。 彰子入内時妊娠約9か月だった倫子は、お産の穢れを避けなければならない ギリギリまで宮中に上がったばかりの彰子の側にいました。 また、次女の姸子が入内してからは、入内した娘達の元を自由に行き来して いるのは、あらまほしい、と書かれています。 (C)NHK 倫子の母穆子の気配りを受け継いだ倫子、そんな母を見て育った彰子も、 定子や伊周亡きあと、その遺児達に篤く目を掛けていきます。 いつもポチっと応援ありがとうございます🐼 にほんブログ村 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
July 15, 2024 04:40:24 PM
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