カテゴリ:光る君へ
今回の大河ドラマは、曲水の宴が催されたり、「源氏物語」が宮中や貴族達
に読み広められていく様子が描かれていましたね。 (C)NHK 大河ドラマでは良い人の道長ですが、史実としては、結構痛いというか、ひどい というか・・・は、奥さんもご存知ですよね。 同母兄姉の中でも5人兄姉の末っ子ですから、それだけでも気が強い性格になる のは普通でしょう。 それに加えて、兄2人が相次いで亡くなったことで自分が藤原北家の長となり、 またそれを他家に渡さないようにと頑張ったので、最初は随分辛かったと思い ます。 実資の「小右記」には、道長が一度怒ると、鬼の様な形相で怒鳴り散らすので、 家族は声を潜めて気が収まるのを待つ、というように書かれています。 些細なことが自分の家の存亡にかかわるなら、イライラしたことも多かった でしょう。 江戸時代のドラマなどでは、貴族は弱々しく描かれますが、従者同士の争い では死者がでることもあり、駒競べや蹴鞠、弓を射る競技が好きだったりと、 そこは男性ですから、身体を動かすことが好きだったり、カッとなると相手を 殴ることもありました。 道長は、詮子四十の賀の時の様に、自分が詮子や天皇を自邸に呼んでおきな がら、倫子腹の頼通の舞よりも、明子腹の頼宗の方が帝から称賛されると、 不貞腐れて奥へ引っ込んだまま、何度も帝から戻るように言われてても、 なかなか戻らない、といったようなことを平気でします。 自分の家や娘達を最優先に考えるので、それ以外の障害となるものに対しては、 徹底的にいじめます。 今回のドラマでは、敦康親王は伊周を嫌い道長を慕っていますが、もうこの時期 道長はそろそろ敦康親王を見限っています。 その証拠が金峰山詣でです。 内裏が焼けた時、史実では一条帝は彰子の局で休んでいたように、既に2人は 夫婦となっていましたが、彰子が身ごもらないので道長は仏様に祈願することに したのです。 つまり、敦康親王<彰子の妊娠(皇子誕生)。 それまでは、敦康親王は道長邸を訪れたり、行事の際は見物に連れて行っ てもらったり、帰りは倫子が牛車に同乗して内裏に送ったりしていました。 それが、彰子が敦成親王を産んでからはピッタリとなくなります。 もう本当に、少しも世間体など気にしません。 それどころか、敦康親王の所有であった一条院を取り上げようとして、 代わりに自分が持つ二条邸を差し上げようと言います。 一条院は広く、一条院が内裏として使っていた由緒ある邸なので、道長は それを敦成親王に譲りたかったのでしょう。 結局敦康親王は一条院から出されてしまい、しかも二条院の権利も永久では ないという、不条理な扱いまで受けます。これは、当時の貴族達からも非難 されています。 これに怒ったのが親王の姉の脩子内親王です。 敦康親王と一緒に二条院へ、と恐らく言われていた内親王は、当日二条院へは 行かずに、叔父である隆家の屋敷に入ってしまいます。 抗議の意思を表した内親王に、道長は”不愉快そうだった”とかですが、それ以降 は、度々脩子内親王を訪れてご機嫌伺いをしています。 (C)NHK 実は、敦康親王は三度に亘って春宮になりそこねています。 一度目は、父一条帝が亡くなった時。 女御ではなく、后腹の第一皇子が春宮に立てなかったのは、彼が初めてでした。 二度目は、三条帝が譲位した時。 これは、三条帝が自分の第一皇子である敦明親王を春宮に立てました。 そして、三度目は、その敦明親王が春宮を辞退した時。 この時も、道長が彰子腹の敦良親王を春宮に立ててしまいました。 以前も書きましたが、三度目で敦康親王が春宮となっても、結局女子のしか生ま れず、20歳で薨去したので、敦良親王は春宮になれたはずです。 それでも、それは歴史を知っている今だから言えることで、その当時道長はなん としても皇統を自分の娘が産んだ皇子に持ってくることしか考えないのは、当然 のことですよね。 ところで、まひろの髪形は次第に変わって行っていますね。 身分や人生を細かく表しているのでしょう。 みんな(C)NHK もうこれ以上は豊かにならないかな❓ あと、胸にかかる髪はまだ変化するとか❓ 楽しみ いつもポチっと応援ありがとうございます👘 にほんブログ村 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
September 11, 2024 03:48:05 PM
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